▼ 26 最終話 一番おいしい騎士。
楕円形の大きな食卓の前に、俺とベリアスは腰を下ろしていた。
テーブルには食器類とグラスが並び、時折執事が入ってきては朝食の準備をしている。
ここは屋敷にある食事室だ。壁には父上の趣味である額縁の絵画が並び、室内には様々な調度品が飾られている。
大きなガラス窓を見やると、朝だというのに魔界らしく外はどんよりと曇り、鬱蒼としげる森林が荒れ狂うように風を吹かせていた。
これから起こる事態に緊張感をもっているのは事実だが、俺は隣に座る仕立ての良い黒のスーツを着た騎士に、目を奪われていた。
「ベリアス、あんた格好いい……そういう服もすげえ似合ってる……」
うっとりと見つめ、筋肉でパツパツのスーツの胸元を撫でる。
黒いシャツからは浅黒い肌がのぞき、色気がありすぎて目に毒である。
騎士は俺にじろっと横目をむけ、俺の手の上に自分の掌を重ね合わせてきた。
「おい。変な動きするな。じっとしてろ、ルニア」
さっきまでの甘い時間はもう終わりだと言わんばかりに、またしかめっ面を向けてくる。
気が立っているのは分かるが、俺の興奮はおさまらない。
「また怒ってる……なあ、笑ってみて」
精悍な顔立ちを形作る頬を指でつつき、自分のほうに向かせる。
体を寄せようとすると、騎士から顔を近づけてきた。
金色の瞳に見つめられたまま寸前で止められ、我慢できずに腕をぎゅっと掴む。
「キスして、ベリアス……」
お願いすると、ようやく口付けを施された。
いつ自分の家族が入ってくるか分からないのに、この男の前にいると、気持ちが抑えられない。
「ん、んん……っ」
背中に手を当てられ強く引かれた瞬間、重い扉が開かれる音がした。
「貴様、何をしている」
凍りついた声色に、舌の動きが止まった。
まさか。もうあの方がーーいや、あいつが来たのか。
目の前にいた騎士の眉が不快感を極めて吊り上がった。
「てめえ……よくものうのうと現れやがったな、このクソ野郎ッ」
「ここは私の屋敷だ。貴様は招かれざる客だが、父上の命ならば拒否できない。同席してやることを有り難いと思え」
兄上は淡々と告げると、冷たい紫紺の瞳に俺を映した。
俺はぷいっと顔を背ける。
ああ、腹が立つ。俺は兄上がベリアスにした事を、まだ怒ってるんだ。
「ルニア、私の隣に座れ」
「……嫌です」
「なんだと? 我儘を言うな。ひとまずはお前をその男に与えてやったのだ、いい加減機嫌を直せ」
まるで悪びれない兄上の言葉に、苛立ちが頂点に上り詰める。
「違う、今だけじゃないッ、俺はずっとーー!」
思いのままに叫び立ち上がろうとすると、新たに部屋の中に気配がした。
視線をやろうとした瞬間、伸びてきた騎士の手によって引き寄せられる。
とすっと再び椅子に腰を落とすと、すぐ近くに長身の男が立っていた。
プラチナブロンドを輝かせる秀麗の紳士ーー実際は何百年という歳月を生きてきた魔族だが、外見はこの場にいる男たちと変わらず若々しい。
「ち、父上……」
「ルニア。どうしたんだ、そんなに感情を昂らせて。落ち着きなさい。さあ、いつもの笑顔を父に見せておくれ」
にこりと微笑まれ、肩の力が抜けていく。
この方の澄んだ瞳の前では、俺は小さな子供に戻ったかのように、無力になってしまう。
「申し訳ありません。あの、彼はーー」
何よりもまず隣の騎士を紹介しなければ。
そう思っていると、ベリアスが突然立ち上がった。険しい顔で威圧感たっぷりの気迫を見せている。
「ああ、君がこの子の友人のベリアスだね。地上では随分と世話になったようだ。礼を言おう」
「礼は要らない。俺もこの屋敷では手厚い歓迎を受けたんでな。あんたの息子どもに」
騎士の言葉に、父上は席について冷ややかな顔つきをしている兄上を見やった。
端正な顔立ちに苦笑を浮かばせ、ふうと息をつく。
「ゼフィル。お前は彼に何をしたんだ? 全く、昔からルニアに関わる者を片っ端から排除しようとして。仕様のない兄だな」
「余計なことを言わないでください、父上。この下賤が私の物に手を出したのですよ」
なんだと?
俺の知らない所でそんな事してたのか、このブラコン男。
「すまないね、ベリアス。私を含め、息子たちも皆、末子のルニアを溺愛しているのだ。その愛する子供が突然、どこの馬の骨とも知れぬ人間の男を連れてくれば、慌てふためくのも無理は無い」
優しい父上の言葉に、チクリと棘が紛れ込んでいる。
俺は恐れをなし、無意識に騎士に寄り添った。
「そうか。歓迎されていないことは分かったが、生憎俺は退くつもりはない。何が望みだ?」
「……ふふ、実に人間らしく、血気盛んな男だな。せっかくの機会だし、時間はたっぷりとある。先に食事にしようじゃないか」
俺の背中を抱き挑戦的に述べる騎士に、父上はふっと笑いかけ、席につくように促した。
執事が見計らったかのように、食事を運び始める。
俺はあまり食欲がなかったが、少しずつ手をつけて、目の前に立ちはだかる二つの壁を注視していた。
「何が望みかと言ったね。では君は、私達からルニアを得るために、何を差し出せるんだ? 魂か?」
いきなり何を言い出すのだ。
ごく普通の会話を行うように穏やかに尋ねる父上に、戦慄が走る。
真っ青になっていると、兄上が口を出してきた。
「父上、この下賤に我が弟を差し出すおつもりですか。私は到底認められません」
「冷静になれ、ゼフィル。我々魔族とは違い、人の生涯はあっという間に幕を閉じる。我々の一生が葉で覆われた大木だとするならば、人のそれは、音もなく地面へと落ちる一葉に過ぎんのだよ」
重みのある言葉がずしりと心に響く。
そうだ。
俺は悪魔でベリアスは人間だ。両者に対し、時間は等しく訪れない。
縋るように騎士を見やる。
自分の膝をぐっと掴む俺の手に、大きな手を優しく乗せ、じっと見つめ返される。
「そうだな、あんたの言うとおりだろう。それに俺は騎士だ。爺になるまで生きるつもりはない。ルニアを渡すというのなら、魂でも何でもくれてやるよ」
静かに情熱を秘める騎士の声音が、辺りに響いた。同時に俺の胸を打ち砕く。
「ベリアス……? あんた何言ってんだ、馬鹿なこと言うな」
「俺は本気だ、ルニア。言っただろう、俺の全てを与えて、お前のものになると」
騎士はそれまでの険しい表情が嘘のように、眉を少し寄せ、柔らかい笑みを俺に向けた。
ふざけるな。俺はこの騎士の魂なんて望んでいない。
俺はずっと一緒にいたいんだ。
終幕のことなんて、これっぽっちも考えていないのだ!
「父上、それはいけません。俺はそんなこと嫌です。この男の魂は誰にも渡さないし、肉体だってもう俺のものなんだ。……二人でそう決めたのです。だから……」
「ああ、ルニア。泣きそうな顔をしないでおくれ。さあ、父のそばにおいで」
動揺から震えてくる足に力を入れ、俺は思いを告げるために席を立った。
「膝の上に座りなさい」
俺はもう子どもではないというのに、ごく自然に命じられる。
おずおずと座った俺に向かって、父上は幼子をあやすように言い聞かせ始めた。
「ルニア、どうやら本気のようだね。けれど私はお前に悲しんで欲しくないのだ。この男を失った時、私の可愛い子はどうなるのかと、今から胸が痛んで仕方がない」
それは親としての本心なのだろう。けれど、そうとわかった上でも俺の決意は変わらない。
「父上、俺はベリアスを失う気はありません。どうすれば人間を魔族に出来るのですか?」
突拍子もない俺の問いに、父上が目を見開く。
先に反応したのは、近くに座る兄上だった。
「お前、何を考えている! これ以上下らんことを言うな!」
「兄上は黙ってろ!」
立ち上がり激高する男を真正面から見据え、負けじと睨み合う。
「お前たち、兄弟喧嘩をするな。ルニア、そこの騎士もお前の言葉に、目を白黒させているぞ」
なぜか父上は愉快そうに口角を上げていた。
騎士はやや困惑顔で俺を見ていた。さすがに悪魔による傲慢な言動を引かれてしまったか。
けれど俺は、それほど切羽詰まっていたのだ。
「……ルニア、俺のもとに来てくれないか、頼む」
ベリアスは瞳を揺らめかせ、俺を手招いた。
父上を見ると小さく頷き、俺はその場を離れ、再び騎士の隣に座った。
「お前、そんなに長く俺といてくれるのか?」
毒気が抜かれたような穏やかな表情で尋ねられる。
こうやって向き合っているだけで、鼓動がトクトクと速まっていく。
「俺はずっとそばにいたい。あんたは嫌じゃないの?」
騎士は少し考えて、再び口元に笑みを作った。
「お前の気持ちは嬉しい。魔族になれるかどうかは知らんが、お前とは出来るだけ長く一緒にいたい」
その笑顔に、張り詰めた緊張が和らいでいき、幸せな思いを分け与えられる。
俺は堪えきれず、騎士の胸に身を寄せた。
「ベリアス……」
しっかりと腕の中に包まれ、背中を優しく撫でられる。
ああ、この男の言葉によって、いとも簡単に不安が取り除かれ、勇気が湧いてくる。
幸せを噛みしめながら、俺と騎士を白けた目で眺めている男達がいることに、俺は気づいていた。
「ふむ。どうしたものか。私は余計なことを言ったな、ゼフィルよ」
「ええ、本当ですよ父上。何故こんな事に……くそッ! 私は絶対に認めないぞ!」
「そもそもお前がルニアに妙なお使いをさせるからだろう。過度な要求はお前の悪い癖だぞ。つまり身から出た錆だ」
向かいに座った父と兄が、二人でぐちぐちと喋っている。
でも俺の心はすっかり晴れ上がっていた。
何故なら新たな目標が見つかったからだ。
兄上の命により、精気集めに出た俺は様々な男を渡り歩いた末、一番おいしい騎士を見つけた。
その男を手に入れ、身も心も捧げ合うことに決めーー
ゆくゆくは俺と同じ魔族にして、もう離れられないようにする。
そうだ。なんという名案だろう!
このしつこい騎士ならば、きっと俺と一緒に、その長く険しい道を歩んでいってくれるに違いない。
もちろん毎日、たんまりと美味しい精気を味合わせてくれながら。
「ベリアス。俺、早くあんたと二人になりたい……」
「ああ、俺もだ。一緒に帰るぞ、ルニア。お前また腹減ってんだろ」
「うん、もう空いてるよ」
「早えよ。世話の焼ける奴だな」
呆れた口調だが、口元は優しく微笑んでいる。
二人きりになれば、無愛想な騎士も、甘い笑みを見せて俺を愛してくれることを知っている。
ああ早く、この騎士が食べたい!
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