▼ 60 精神世界
シスタはエハルドの精神世界に入った。
そこは現実と変わらない風景で、自分達が育った村だとわかった。
けれど人っ子ひとりいない。誰の姿もないからっぽの村でシスタは親友を探した。
「どこだ、エハルド、……エハルド!」
名前を呼び、当時のように黒ローブを羽織った青年は駆け回る。村を出たあとは裏山へ引き寄せられるように向かった。
あの儀式があった場所へは一度も行くことはなかったが、その夢の中でシスタは山道を歩いていく。
平野へ出た時、胸がきつく苦しくなった。しかし目を凝らすと、男が倒れている。あの焚き火をした場所で。
「エハルド!」
駆け寄ってそばにひざまずいた。懐かしい茶髪の大柄な男エハルドだ。目を閉じているが顔つきは大人になっていて、あの時からかなり成長している。
ここへ来る前、トロアゲーニエの研究室で眠っている姿と同じだった。
「ん……シスタ……」
驚くべきことに、抱きかかえていると彼は目を覚ました。
ゆっくりと茶色の瞳がこちらを見つめて驚愕した。
「なっ……なんだ? うまくいかなかったのか…? ちくしょう!」
自らの頭をぐっと拳で突いて悔しがったエハルドを、シスタは黙って抱きしめた。言い表せない思いでいっぱいになり、この姿で話す親友の存在をまずは感じたいと思った。
「お前、手……脚も……治ってる……よな」
「ああ治ったよ。お前の無謀な行いのせいでな。……でも私達の状況は、大きく変わったんだ」
エハルドは愕然と瞳を揺らす。治った、ということしか届いていないようだった。彼はシスタの両肩を掴み、涙を浮かべて喜んだ。
「よかった……! 治ったんだな、シスタ! お前の病気が……っ。……でも、どうして俺まで、まだこの世にいるんだ……」
夢の中のエハルドは意識ははっきりしているが、記憶が定まっていないようだった。あの儀式のあとで止まってしまったかのように。
「もしかしてここがあの世なのか……? 俺は失敗したんじゃないか。それにお前、大人に……なってるよな? ああ、まさか俺はお前の寿命まで悪魔に奪われちまったのか…!?」
「違う。そうじゃない。落ち着け、エハルド」
シスタは彼の隣の地面に腰を下ろし、寄り添った。
真実を言うのはつらい気はしたが、もうこうして会えたのだ。だから今は希望に繋げることしか考えていなかった。
「よく聞けよ。私達は死んだ。今は冥界で暮らしている。別々にだが、前と同じように会うことが出来るし、もう互いに寂しい思いはしなくていいんだ」
「え……? 冥界って……なんでお前も死んだんだ」
「悪いけどな、お前に私を責める資格はないぞ。私もお前を失ってつらかった。だから十年経ってお前を追って悪魔と契約をした」
エハルドは立ち上がる。顔には憎悪を浮かべていた。
そんな表情を見たことがなく、シスタは動揺する。
「なんだと……? 悪魔って、どういうことだ……どうしてそんなことをしたんだよ! 嘘だろ、嘘だって言えよ!!」
ぎりぎりと睨む目つきが彼らしくない。精神世界ゆえの作用なのか、感情の起伏が激しく思われた。
シスタは落ち着いて話をしようとする。
「……嘘ではないよ。悪かった、エハルド。でもお前を忘れることは出来なかった」
「なんで……お前に生きていて…ほしかったのに……」
「私はこうして生きているじゃないか。みろよ、もう頭を悩ませることはないんだ。……私にとって、お前がどれだけ大事な存在か、分かるだろう?」
そう問いかけても、エハルドのシスタを見つめる瞳は哀しい。
彼の靄がかかった目つきは、ゆっくりとシスタの首元へ移った。シャツの上からかけた上質な宝石の、緑色のペンダントだ。
魔力のある親友はその特別な輝きに違和感をもったようだった。
「これは……? どこで手にいれたんだ。すごく綺麗だ」
「……それは……私の主人である悪魔にもらった」
シスタの気分が苦しいものになっていく。
今のエハルドは状況を説明しても受け入れる余裕はないだろう。
記憶がなにもなく、当時のままで止まっているのだから。
当然冥界での暮らしも知らなくて、何もかもが真新しい異質な出来事なのだ。
「悪魔に? そいつと親しくなったのか」
「そうだ……」
「女か、男か」
「……男だよ。上級悪魔だ」
エハルドは舌打ちをした。頭をかきむしり、自分が悪に染まったかのように薄暗い眼差しでシスタの全身を見やる。
「お前はシスタじゃない。俺の夢だ。こんなことは……ありえない。全てが違う。俺の望んだ未来じゃない」
「お、おい、何を言うんだ」
「黙れ!! お前は俺の親友じゃない! そうか、そうだ。あの悪魔が裏切って、俺を地獄に落としたんだ。永遠の悪夢を見る地獄にな」
「エハルド!」
彼は制止も聞かず背を向け、山を下りて行ってしまった。
事態を甘く見ていたシスタは慌てて追いかけるが、彼のスピードは早く村へ突き進んでいく。
しかしそこには何もない。さらにエハルドが絶望するのが想像できた。
「なんだよこれは。どうして何も、誰もいないんだ! 俺はずっとここで、悪夢を見ながら閉じ込められるのか。……ふざけるな……」
彼は自分の家を通り過ぎたあと、シスタの屋敷に自然と引き寄せられた。もう彼に活気はなく、顔色は悪く、足取りはふらついている。
昔のように玄関先の段差に座り、追いかけてきたシスタを睨みつけた。
だがその表情はやがて、悲しげな笑みを浮かべる。
「なあ悪魔」
「私は悪魔じゃない!」
「なんでもいいよ。……シスタは……あいつは、悪魔に救われなかったと思うか? 俺のせいで、騙されて、寿命を取られたりしてないよな?」
彼は涙ぐみ、自分の無力さを嘆いた。
シスタの心は深く痛み、隣に腰を下ろす。
「馬鹿なこと言うなよ。何故分からない? お前は私を救った。褒められないやり方だが、こうなったから、私達はまた冥界で巡り会うことができたんだ」
「……ははっ……もういいよ、お前の話は。じゃあなんでここから出られないんだよ。冥界でもなんでもいいから、本当のシスタに会わせてくれよ!」
「私が本当のシスタ・レイズワルドだ! なぜ言っても分からないんだ馬鹿野郎!! お前は世界一の大馬鹿者だ!!」
そのあまりの剣幕に怯んだのか、エハルドは言葉を失う。
それから笑い始めた。
「へへへ……よく出来た夢だな。あいつも怒ったらこうなるんだよな。いつもは語彙が豊富なのに、罵りが単純になってよ」
「……もういい、早く信じないお前が悪い、勝手にしろ!」
逆切れしてしまったシスタは怒って遠くへ行こうとした。しかしその腕を後ろから掴まれる。
「待て、行くなよ。ここに一人にするなって」
途端に穏やかな口調で請われ、シスタは拗ねたような面持ちを向ける。
「じゃあもう偽物だと言うな。信じるならいてやるよ」
「……くくっ。わかったよ、言わねえから。とりあえず」
まだ信じていないくせに、またからかうような、適当な物言いの男にシスタは呆れる。
でもこれでは自分は何も出来ていない。なんとかして説得し、ここから連れ出さなければ。
そう考えていたのに、段々と脱力してきてその場にまたへたり込む。
しばらくそうしていた。二人とも静かになり、距離のある門から遠くを見つめている。
「なあ、腹減んねえな。やっぱりここは夢の中なのか」
「だからそう言ってるだろう。お前は本当の世界で眠っているんだよ」
ため息混じりに告げるとエハルドはようやく興味を示したようだった。
「なんでそうなった?」
尋ねられたので、シスタは意を決して説明をし始める。
冥界での暮らしと、別人に転生したエハルドが姿を元に戻そうとしたことを。
「へーっ……馬鹿じゃねえの、俺。考えなしなところは変わんねえんだな」
「馬鹿なのは否定しないが、お前は優しい男だ。ただいつも勝手に一人でやってしまうのだけは、私は許容できない」
シスタの悔しそうな悲しげな眼差しを、隣から見つめる。
現実味のあるその姿が、幾らかは胸に響いたようだった。
「なんかわりいな。面倒かけて」
「……じゃあ、信じてくれるのか? もう帰ろう、エハルド。今度こそ一緒に」
切実に語りかけるが、はっきりとした返事はなかった。
「冥界に行くことに不安があるか? ならば心配いらない。お前の当主はすごくいい人で、悪魔といっても人間に近いんだ。いつも私達のことを気にかけてくれて、冥界での暮らしだって保証されているし、お前は仕事だって友人だって恵まれているんだぞ」
「へえ……そうか。でも俺が気にしているのは、お前のことだけだよ、シスタ」
まっすぐとした瞳に告げられ、どきりとした。
「お前はどうやって生きてるんだ? 大丈夫なのか、そんな見知らぬ世界にやって来て」
「大丈夫だよ。お前がいるから」
「……本当に俺だけか? 俺以外に、お前を引き止めるものがあるんじゃないのか」
鋭い指摘に嘘をつけない鼓動が脈打つ。
一瞬思い出したのか?と思った。でも、まだ自分が冥界で出会ったエハルドの顔つきではない。
何も知らない親友に対し、うまく答えられなかったシスタが、ふと屋敷の門のあたりを見た。するとそこには人影があった。
細長いシルエットで、銀色の髪が目立つ色白の美男子だ。
「…………っ」
「ん? なんだあれ、人がいるぞ。おい! あんた!」
「いや、待て」
どうしてもう迎えに来たのか。そんなに時間が経っていたのか、取り乱したシスタだが、悪魔は向こうからやってきた。
これは幻覚ではないと思ったが、慎重に観察しようとした。
「シスタ様」
「えっ?」
しかしベルンホーンは柔らかな笑みを浮かべて、シスタに対してお辞儀をした。
「そろそろお時間が迫っております。ご主人が心配しておられますよ」
「あぁ? あんた誰だ? シスタとどういう関係なんだ」
前に出てきたエハルドに詰め寄られても悪魔は笑みを崩さず、おとなしい態度を変えない。
「トロイエ様。私はシスタ様の執事でございます」
「ぶっ」
「は? おい、今こいつ吹き出したぞ。ほんとに執事なのか? そんな顔がよすぎるナリで」
「お褒めいただきありがとうございます。本当に執事ですよ。申し訳ありません、上級悪魔なので育ちのよさが滲み出てしまいまして」
「へえ……なんかうさんくさい奴だな。わざわざ迎えに来たのか。ってことは、真実味は増してきたか…」
もはや納得しそうなエハルドにシスタの胸も高鳴る。
それからシスタはひとまずベルンホーンを門の外に連れていき、こっそりと話をした。
「来てくれたのか。すごいな、お前」
「ありがとうございます」
「やめろよ。気味が悪いぞ」
「ぐっ。ひどいですね、シスタ様。いいですか、あまり時間がないと言ったのは本当です。このままここにいれば、お二人の記憶に障害が生じる恐れがありますよ。だからあなたは、必ず彼の記憶を戻してから帰ってきてください」
神妙に告げられたのは初めて聞くことだった。
「あいつが思い出さなければ、そのままという可能性があるということか?」
「ええ。最悪全ての記憶を失うこともありえます。……どうかお気をつけて、シスタ様」
ベルンホーンは薄っすらと笑みを浮かべ、最後まで芝居を変えずに姿を消していった。
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