▼ 59 揺らぎ
その後のシスタの人生は、容易ではなかった。
儀式によって確かに身体の筋力は戻り、健康そのものになった。
けれどそんな結果は、シスタが望んだものではない。幸せは誰かの犠牲の上に成り立っていいわけがないし、最も大事な存在だった親友を失い、心はボロボロだった。
シスタはエハルドを諦めることが出来なかったが、彼の遺言のとおりにして、体が悪いことを装ったまま村を出た。
彼の家族に合わせる顔などなかったものの、直前の葬儀には出席した。医師がエハルドを検視した結果、心臓発作だということが分かり、外出中の突然死ということで処理された。
エハルドの家族は悲しみに暮れながらも、息子の親友だったシスタのこれからを心配した。同時に辛い思い出の多い村に引き留めることはせず、応援して送り出してくれた。
一瞬一瞬が、エハルドのいない現実につながっていて辛かった。
体が健康になってもシスタが幸せを感じることなどなく、常に絶望感や不幸は漂っていた。
またこの出来事によって、シスタは悪魔を研究することに時間を費やし始めた。悪魔被害救済所に所属し、被害者を助けながら、自分の目的も果たそうとした。
そしてあの儀式から十年が経った頃、シグリエル達兄弟と出会い、奇特な出来事を経て、今こうして冥界にいるのだ。
エハルドと再会を果たした時は様々な感情が去来し、それでも信じられないほどに嬉しかった。
長らく感じていなかった心からの幸せを思い出した。
三つ年上の親友は、シスタにとってそういう特別な存在だったのだ。
「シスタ、何をしてるんだ?」
「釣りの準備だよ。ブルードはなんでも知ってるな、いい釣具も教えてもらったんだ」
「お前は……ことあるごとに老執事をアゲてくるな」
「だってお前は釣りが嫌いだろう。エハルドはいないし、また彼を頼らせてもらったんだ」
シスタが機嫌良さそうに中庭のテラスで作業している。
そんな様子をベルンホーンも興味深く見つめていた。
「そういえば最近、お前はあいつの所に行かないんだな」
「エハルドは今遠征に行っているんだ」
「へえ、どこに?」
問うと仕事の内容だから詳しくは聞いていないと答えた。
しかしベルンホーンは疑問に思う。この間私用でトロアゲーニエ卿の邸宅を尋ねたら休暇中だと言われたのだ。
友人となったとはいえ、互いの予定を把握するような関係ではない。しかし長い休暇ならば話に出るのではないか。
護衛のトロイエも同行しているのは分かるが、なんだかおかしいと感じた。
そこでベルンホーンは個人的に魔法鳥を送ることにする。
すると翌日に返事が帰ってきた。内容は緊急に会いたい、来て欲しいというものだ。
彼らしくない、切羽詰まった様子を怪訝に思う。
ベルンホーンはシスタに内緒で、ひとりで邸宅に向かった。
人気を払った彼の地下の研究室まで行き、驚くべきものを発見する。
薄暗い室内でパニックに陥ったトロアゲーニエと、寝台に横たわる見知らぬ男。それを見ただけで強烈に嫌な予感がした。
「そいつは誰だ。まさか……トロイエとかいうなよ」
口元を引きつらせて問うと、小柄な青年は金髪をぐしゃぐしゃにかきむしる。
目の隈はひどく、いつもの天真爛漫な雰囲気は消え、荒んだ目つきを向けてきた。
「どうして……どうしてだ! トロイエが目覚めないんです、術はうまくいったのに! なぜ、ああ、どうすれば……ベルンホーン様、僕はどうすればいいんでしょうか!」
震える肩を抱え、発狂する様子を悪魔は冷めた目で見る。
ではやはり、この人間にしては大柄な男があのトロイエなのかと。
「……クソが……余計なことをしてくれたものだ……」
絞り出した悪態もトロアゲーニエの耳には入っていない。彼は膝をついて絶望している。
それもそのはずだった。見る限り、望みは薄い。身体も魂も正常に機能しているが、生命反応がないのだ。
ベルンホーンはトロアゲーニエ卿を引っ張り起こした。
彼は驚きに目を見張るが、すぐに自信のない怯えた表情になった。
「ひどい顔だぞ。どのくらい風呂に入ってない? お前は一度身なりを整えてこい」
「で、でも……っ」
「いいから言う通りにしろ。こいつは俺が見ていてやるから」
その言葉尻がやけに優しく響いたのか、トロアゲーニエの純粋無垢な性質はすぐに受け入れ、何度か頷き言うことを聞いた。
絶望は消えないが颯爽と現れた友人の悪魔の存在に安心したのだ。
一人になったベルンホーンは寝台のそばに立ち、仄暗い顔つきで茶髪の青年を見下ろす。
「ふっ……くっくっく……」
見知らぬ優男のような顔立ちのトロイエは、想像よりも逞しく、魔界にいても溶け込めるぐらいには良い男だった。
これを見たらシスタは戻ってこないかもしれない、自分のもとに。
そう考えたベルンホーンの瞳は激しい憎しみを映す。
「このまま目覚めずに死ね。トロイエ」
悪魔のおぞましい低い声で告げ、手を伸ばした。
無意識は深く、トロアゲーニエにも見つからぬように二度と目覚めぬ呪文をしかけることは可能だ。
しかし数秒経っても、ベルンホーンは険しい形相でとどまっていた。
憎き奴の息の根を止めることが、どうしても出来なかった。
「…………クソッ…………俺は上級悪魔だぞ、こんな人間、一捻りで殺れるはずだ…………」
頭に浮かぶのはシスタの顔だった。それもあの素直じゃない男が自分に笑いかける、ふとした時の微笑みだ。
それをどうしても失うことが出来ない。
この男を殺せば、二度とそれに触れることも叶わなくなる。
「お前はたいしたものだ、トロイエ。寝ていても俺に勝てるんだからな」
深い息を吐いたベルンホーンは、早々に敗北を感じてまた近くの椅子に戻った。
頬杖をついて物言わぬ男を見つめていると、扉が開く。
そこにはきちんと髪型をセットし、着替えてきたトロアゲーニエが立っていた。
さっきとは顔つきが異なり、なにかを決意したような意思の宿る瞳だ。
「ベルンホーン様、先程は申し訳ありませんでした。僕はけっして、トロイエを諦めません。生涯をかけてでも彼をこの世に呼び戻してみせます。だからどうか、あなたにも僕に力を貸してほしいのです、お願いします!」
深く礼をしたトロアゲーニエに驚くこともせず、ベルンホーンは身軽に立ち上がった。彼のもとへ行き、肩に軽く手を置く。
「ああ、わかっているさ。心配するな、俺に手がある。この事態は俺の一生にも深く関わってくることなんでな。見過ごすことはできない。……シスタを呼んでこよう。お前はここで待っていろ」
「……えっ!? しかし、彼はきっと激しいショックを受けるのでは……」
「どのみち隠しておくわけにはいかないだろう。それに俺達は今、あいつの力が必要なんだ」
ベルンホーンは邸宅を一旦去り、そう時間がかからないうちにシスタを連れてきた。
◇
この夜はベルンホーンにとって、最も難しい夜だった。
事態を告げたときの青年の顔は一生忘れることは出来ないだろう。
そして、この見るに耐え難い姿も。
「……エハルド……? エハルド! あぁ、戻ったんだ、お前に! なぜ寝ているんだ! 起きろ、起きろってばッ!」
寝台にひざまずいたシスタはみるみるうちに青い瞳に涙をため、ぼろぼろと零し始める。
手を握りしめ、親友の胸に突っ伏して叫びにも近い泣き声をあげた。
「いやだ、嫌だ!! もうお前を亡くすなんて、私には出来ないんだ……起きてくれよ、馬鹿野郎、お前はどうしていつも、約束を破るんだ……あぁっ、ああああぁっ!!」
子供のように泣きじゃくる青年の姿は想像もつかなかったもので、悪魔二人は言葉が出なかった。
ただ一人感情をあらわにする人間を、呆然と見ているだけだった。
たまらずトロアゲーニエも涙をすすり、事態を詫びる。
「ごめんよ、シスタ、全部僕のせいだ、僕が彼をこんな目にっ」
「……トロアゲーニエ卿、頼む、エハルドを助けてくれ、お願いだ、まだ生きられるだろう? 死んではいないはずだ、だからーー」
「僕も助けたいと思っているよ! 出来ることは全部するつもりだ、僕の一生をかけて、約束するよシスタ!」
涙で話にならない二人を見かねたベルンホーンは、そっと手を差し伸べて落ち着かせようとした。
シスタの肩を支えると、びくりと反応し振り返る。
冷静な顔立ちは消え失せ、真っ赤に腫らした目が痛々しい。
「……っ、シスタ」
ベルンホーンは思わず躊躇した。そんなことは初めてだった。
もう自分のことは眼中になく、拒否される恐れも湧いた。
しかしシスタは彼にすがるように両手を伸ばす。
それを驚きとともに受け取ったベルンホーンは、しっかりと自身の胸に抱き寄せた。
「ベルンホーン、うぅっ」
「シスタ、大丈夫だ、泣くな。奴は死んでいない」
「で、でも、どうして、エハルドは…っ、起きない、起きないんだ」
「大丈夫だ、なんとかする。お前もしっかりしろ、俺がそばにいるから」
情けなくも、気休めにもならないと感じながら励まそうとすると、シスタは涙を堪え、必死に頷いたのだった。
こういう思いをしたのは二度目で、悲しみは何度もシスタを襲ってきた。トラウマがまた蘇るのも当然で、絶望感で足もすくむ状況に思われた。
「ベルンホーン、どうか……助けてくれ。私に出来ることならば何でもする。エハルドだけは、頼む……」
またこぼれ落ちる瞳を切なく思いながら、悪魔は青年の目元を何度も拭ってやった。
「そんなふうに俺に請わなくていい。お前の大事な存在だ、無視はできない。いいか、けれどこいつを救うにはお前が必要なんだ。魔術師としてのお前がな。だからよく聞け。まずは冷静になるんだ、シスタ」
落ち着いて伝えられて、シスタの目の色が変わる。少しずつ確信が広がっていった。ベルンホーンには、なにか策があるのだと。
トロアゲーニエも藁にもすがる思いで、二人して彼の話をじっくりと聞く。なんとそれは、シスタをエハルドの精神世界に潜り込ませるという計画だった。
「私が、こいつの中に……? そんなことが可能なのか」
「お前の得意技だろう。今のトロイエの状態は特殊だから、俺たちの助けは必要だがな。悪魔が無理やり入り込むと、人間の精神は崩壊する可能性がある。けれど親しいお前なら……奴の記憶は混濁してるかもしれないが、呼び戻せるチャンスがある」
シスタの震える手が、徐々に強い力を帯びて握られる。
深い混沌のなかに落ちて眠ってしまっているエハルドの心を、直接起こすというのだ。
それは自分にしか出来ないと思った。
「わかった……やらせてくれ。絶対に成功させる。目覚めさせるにはそれしかないと思う。……ありがとう、ベルンホーン」
「おいおい、礼はうまくいってからにしてくれ。それに厳しいことを言うが、万が一なにか異常が起きたら、俺はお前だけでも連れ戻すからな」
悪魔ははっきりと告げた。これは精神を別の場所に移す危険な術であり、保証はないのだと。
シスタは頷き、悪魔の意思を受け入れた。
彼の言うことはわかっている。当然の決定も。
それでも力を貸してくれることに感謝していた。
どんな時でも、こうして自分に寄り添ってくれることに。
だからこそ失敗はできない。自分は何度だって、エハルドに会いに行く。もう二度と大事な親友を離したりしない。
そう決意をして、術の準備が始まった。
研究室の寝台には二人の体が並ぶ。
大柄なエハルドと細身のシスタは隣り合い、瞳を閉じた。
幼馴染の手を握り、しっかりと繋げる。
「大丈夫か、シスタ」
「ああ。準備は出来ている」
「よし、いいぞ。そのまま何も考えず力を抜いていろ。トロアゲーニエ、お前はトロイエの身体を安定させ、維持しておけよ。時間がかかるぞ」
「はい、任せてください!」
こうして慎重に、人間一人の意識を呼び戻す施術が開始された。
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