▼ 58 別れまで
シスタが十三になった時、父親は亡くなった。三十六歳だった。
本人の頑張りや皆の献身あってか、想定よりも長く生きられたとはいえ、一人息子のシスタには計り知れないほどの悲しみをもたらした。
彼は葬儀でも泣かず、立派だった。
でも墓場を後にする時エハルドが近づくと、シスタは二人きりの中で嗚咽をもらして泣きじゃくった。
幼馴染のエハルドには心がえぐられる思いだった。
そしてそんな少年の姿がいつか自分になるんじゃないかと、勝手なことを思ったりもした。
シスタの環境の大きな変化はもう一つあり、それは母が家を出たことだ。
介護をする中で心を病み、彼女は村から出て暮らしたがった。しかしシスタは引っ越すことを嫌い、結果的に母と別れることになったのだ。
幸い資産は多く、使用人を雇っても困ることはない。
父との最後を過ごした屋敷は辛い思い出とはならず、不思議と痛みを癒やした。
それにシスタはエハルドと離れたくなかった。初めて出来た、最も親しい友人と。
「シスタ、ちゃんと食ってるか? ほら、これ。お前の好きな魚の煮物、母ちゃんから。執事のじいさんの分もあるからよ」
「ああ、ありがとうな。いつも。とても美味しくて好きなんだ、助かるよ」
すっかり大人びた顔つきの黒髪の少年は、片手を伸ばして受け取った。しかし、やけに鍋がずっしりときてもう片方の手で支える。
「どうした?」
「いや、なんでもない」
右手の指先に違和感があったが、親友に話すことはなかった。胸の中でじわじわと広がる不安を口にして、本当になってしまうのが怖かった。
シスタの病魔はゆっくりと身体を蝕んでいく。
そんな中でも二人は年頃の男子らしく、一緒のペースで学校以外の時間を共に過ごした。
すでに高等学校に通っていたエハルドは十七歳になり、背も伸び筋肉質でたくましく、色気づいてもいた。
夜はシスタに休めといい、自分は村の女の子や、隣村の女の子と遊んでもいるようだった。
「この前、喫茶店でお前の悪口を言っている女子を見たぞ。もてあそぶのはやめておけ、紳士的じゃない」
「はぁ? 誰が弄んでなんかーーつうかお前は堅すぎだろ、ほんとにまだ中坊か? もっと遊べよ、俺が教えてやるから」
玄関口でお喋りをしているときに、ふざけて肩を組んでくる。
シスタは煩わしかったが、自由奔放で異性にモテるこの男が羨ましかったりもした。同じになりたいとは思わないけれど。
最近の自分は弟子入りしたエハルドの師に、本格的に魔術を教わっている。
色恋よりも鍛錬のほうが重要だし、楽しいと思っていた。それに親友が遊んでいる間に、三歳の差と実力差も少しは埋められるかもしれない。
そんな心はつゆ知らず、エハルドだってただ何も考えず過ごしているわけではない。
エハルドは当然、シスタの身体のことを考えている。見逃してしまいそうなちょっとした変化にも、目を配っていた。
そしてそれを、シスタが隠そうとしていることにも。
十三歳から十八歳までの間は、症状は穏やかだった。
だから二人共、心の底ではこのまま同じような感じでゆっくり年を取っていけるんじゃないかと思っていた。
だが、シスタが十八歳になり成人した年、突然症状が強く発現し始めた。
「……おい、シスタ……? 大丈夫か!」
中々約束の時間に現れない親友を心配し、エハルドは屋敷の階段に勝手にのぼっていく。執事は買い物中で、室内にはシスタだけだった。
彼は階段の踊り場で尻もちをつき、起き上がろうとするがよろめいていた。
「だっ……大丈夫だ」
「無理すんじゃねえよ! なんで言わねえんだよ、馬鹿!」
「馬鹿じゃない。まだ出来る。……くそっ、……杖が必要か、やっぱりーー」
シスタはため息を吐き、こめかみには汗を滲ませていた。
自室にあるすでに用意していた杖をエハルドに取りに行ってもらい、ようやく立ち上がることが出来た。
二人は途中の長椅子に座り、しばし沈黙が流れる。
悲痛な顔をしていたのはエハルドだった。なんて声をかければいいのか分からない。
けれどシスタは笑い混じりに、きっと強がって呟いた。
「なんでこんな目に合うんだろう。この私が。見ろよこの手、まだ震えてるんだ。馬鹿馬鹿しい」
「そんなことねえよ」
エハルドはその手を握り、自分の膝の上に乗せて握る。
「……嫌だよ、エハルド。もう嫌だ。これからもっともっと、動かなくなっていく。父様のように。ああやって私は……」
消えていくんだと、シスタは弱音を初めて吐いた。
エハルドは前を向いて歯をくいしばる。
「大丈夫だよ、シスタ。なんも怖くない。お前はこんなに元気だろ? 歩けるし、こんなにお喋り出来るし、俺がいつもそばにいるんだ。だから怖がるんじゃねえ。絶対大丈夫だ! な?」
振り向いた顔ににこっと明るい笑みを向けられて、シスタは目を丸くした。
いつも隣にいる親友にそう断言されると、不思議と張り詰めた気持ちが和らいでいく。
「……ああ、そうだな。わかったよ……」
ささやかな声だがこくりと頷いた。それはこのとき、二人の約束でもあった。
それ以来、シスタは杖なしでは移動出来ないようになり、まだ片足を引きずる程度だったが、車椅子を使うことも検討し始めるようになった。
毎週のように医者が屋敷に訪れて、二人で出かける頻度も驚くほど減った。たった数ヶ月でここまで悪くなると、エハルドも現実を認識し恐れるようになる。
彼の前ではいつでも前向きに、明るく振る舞っていたけれど。
もし本当にシスタがこんなにも早く死んでしまったら。
エハルドはまだ若く脆い彼の心が、完全に壊れてしまう気がした。
ある日、屋敷の門から出てくる白髪の医者にエハルドは詰め寄っていった。シスタの状況を尋ね、なにかひとつでも前向きな見解はないのかと必死に探ろうとした。
「いいや。申し訳ないが、ここからは悪くなるしかない」
「なっ、あんたそれでも医者かよ! 希望を話せよ!」
そう問いかけても白衣姿の男は、「希望はない」と首をふった。
エハルドは怒りと悲しみに襲われる。それから何ヶ月も、何人もの医者に会った。見つけ出した白魔術師にも話を聞いた。
しかしすべて無情な答えだった。
自分にも、誰にも親友の病気は取り除けない。運命を変えることは不可能なのだと突きつけられる。
藁にもすがる思いのエハルドは、師を探した。
しかし彼は魔物を倒しに行くといって消息不明で、今度はかなりの大物だと言っていた。
頼ることが出来なくとも諦めることはなく、師匠の隠れ家に忍び込んだ。
そこは長い事使っておらず寂れていて、エハルドの魔術でも侵入のために結界を解くことができた。
「どれだ、どれだよ、なんでもいい、シスタ……あいつを助けるんだ」
おびただしい本棚の書物を漁り、気が触れたように読みふけった。
そこでついに禁忌を見つけるのだ。悪魔召喚という方法を。
「悪魔……代価を支払い、自らの願いを叶えさせる……」
ぶつぶつと没頭しながらも、鼓動が不規則な音を立てていく。
これしかないと考えた。神が病人を見放し、人間も助けることが出来ないなら。
悪に魂を売ってでも、親友の命の長さを引き伸ばすしかない。
けれど、このことはシスタに悟られてはいけなかった。だから決行の日まで、エハルドは普段通りを貫いた。
シスタはエハルドが最近研究に没頭していることには、なんとなく気づいていた。周りとの交際も減らし、一人で思案するような姿を見ることもある。
でも彼はシスタにはいつも通り優しく、冗談も言うし、むしろより穏やかな目つきで接していた。
だからまさか、あんなことを考えているなんて、思いもしなかったのだ。
「シスタ、明日久しぶりに裏山行かないか? 十年に一度の満月がすげえ綺麗に光る日なんだってよ」
「満月? お前、月に興味などあったのか。情緒的だな。女性に振られでもしたか」
「ちげえよ。俺がそんなことで感傷に浸るか。ただお前と見たいだけだって」
はは、と笑う姿が少しだけ儚い雰囲気だったが、シスタは親友の誘いに乗った。
体が本格的に自由を失う前に、自分を連れて行ってくれようとしているのかもしれないと。
時期は秋で、夜は涼しい風が拭いていた。
周りは木々の開けた場所で焚き火を起こし、二人で持参した酒を酌み交わす。
「たまにはこんなのもいいな。お前も成長したじゃないか、エハルド」
「あのなぁ、俺は三個年上のお兄さんだぞ、少しは敬えよ」
けらけらと笑うシスタの表情は珍しく、エハルドの胸がしめつけられた。
だからこそ彼の覚悟は固い。
夜になりシスタがうとうとして目を閉じようとしてしまった頃、エハルドは急に荷物から本を取り出して立ち上がった。
「ん……? なんだよ、急に。勉強会でもするのか…?」
「シスタ。俺と約束しろよ。ちゃんと生きて、好きなことするって」
台詞が唐突すぎて、酔っているのかと顔を上げる。
エハルドの横顔は満月に照らされ、やけに凛々しく見えた。
「おい、どうして立ってるんだ。こっちに来いってーー」
エハルドは答えず、本を開き妙な呪文を唱えだした。
するとシスタはようやく何かおかしなことが起きていると気付き、体を起こそうとする。
彼のそばへ行こうとして、暗闇の中で杖を探した。
気づけば焚き火が消えており、それなのに地面から霧が沸き起こるように何かが近づいてくる。
「エハルド、これはなんだ、おい、やめろ!」
これは魔術だ。不気味な気配に鳥肌が立ち、あたりを見回すと黒い影が立ち込める。
それはエハルドの周囲を取り巻き、彼を覆い尽くそうとする勢いだった。
「ーーああ、そうだ。俺の親友を、シスタの病気を治してくれ。一生歩き回れて、体も自由で、幸せに生きていけるように。……トロイエ、っていうのか。俺の願いを聞いてくれてありがとう。……ああ、シスタは、俺の一番大切な親友なんだ。だから、悪魔のあんたに助けてもらいたい」
シスタの鼓動がうるさく打ち付け、止まらなくなる。
離れていってしまう、そのことだけが無情に自分を急き立てていく。
「何を言ってる、エハルド、やめてくれ、馬鹿野郎、こんなことするな!」
「……シスタ。俺はお前が好きだ。死ぬのなんて見たくない。ちゃんと生きろよ。……いいか、お前は体が悪いふりをしたまま、村を出ろ。約束しろ、いいなーー」
彼はそう言って、真っ黒に染まった瞳で振り向き、最後に柔らかな笑みを見せた。
そのあと、その場に膝から倒れ、もう戻ることはなかった。
「エハルド! エハルドッ!!」
暗い山に身が裂けるようなシスタの叫び声が響き渡る。
「どうして、一緒にいるって言ったじゃないか、ずっとそばにいるって、約束したじゃないか……馬鹿野郎!!! あぁ、あああぁああぁ!!!」
そばへすがりつき、もう瞳を開けることのない青年を腕に抱きしめる。
怒りと悲しみ、とめどなくあふれる苦しみにシスタは瞳を泣き腫らし、激しく慟哭し続けた。
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