▼ 40 体温
前の奴隷のことを聞いて以来、シスタは胸の中が妙にざわめいていた。
ベルンホーンはああ言ったが、自分への執着は過去があったからではないか。
本当は彼のことを愛していたんじゃないか。手に入らないのなら殺してしまうほどに。
そして自分も本当の意味で信用されなければ、いつか同じ道を辿るのではないかと。
切々と考える中、黒い制服姿のユーゲンと出くわした。出勤日の朝に管理局本部へ向かうと彼が受付にいたのだ。
「おはようございます、シスタ」
「おはよう、ユーゲン」
職員カードを見せた後少し会話をする。上司の彼は事の顛末を気にしていた。
仕事内容をベルンホーンに教えたことを謝られたが、シスタはかえって知らなかった悪魔の過去を知ることが出来た為、礼を言う。
「ベルンホーンが天使を殺したこと、あなたも知っていたのか?」
「ええ、知っていました。しかし当時それが起こったのは地上でのことですし、証拠不十分でしたから。こちらでもみ消す必要もありませんでした。そもそも魔界での堕天使の地位は低く、さらに悪魔の契約に手を出したとあれば、正当防衛だともいえます。……まあ、もう一度同じようなことは起きないほうがいいですが」
彼は意味深に話し眼鏡を直す。
「ユーゲン……その、前の奴隷の男に会ったことはあるか」
話の流れで尋ねると、彼はすぐには答えず興味深そうにシスタを眺めた。
「あなたも彼のことが好きなのですね」
そう一言だけ告げられて、シスタは体が熱くなるのを感じた。間をおいて小さく頷く。
「釣り合わないのは分かっている。ただ、感情はどうしようもない。なぜか気になってしまうんだ。あいつのことが……」
上司に何を喋っているのかと思ったが悶々とした気持ちを抑えられなかった。
「エアフルトさんはあなたを特別に考えていると思いますよ。前の方と一緒にいた時とは、体温が違いますから」
「……体温? どういうことだ」
一瞬何のことかわからなかったが、ユーゲンは嘘か真か、説明してくれた。
なんでも彼が以前ベルンホーンに前の奴隷バイルを紹介されたとき、ベルンホーンの体温は普通だったという。
ある程度の面識をもつ魔族同士にしか感知できないことらしいが、シスタといる時は明らかに彼の体温は上昇しているといった。
「なんだか動物みたいだな……にわかには信じがたい」
そうこぼすとユーゲンは制服の袖をまくり、真っ白な肌の下腕を差し出した。
「さあ、触れてください。これが魔族の平温ですよ」
「……えっ? ああ……冷たいな」
「それでもあなたより少し低いぐらいです。これを覚えて、彼を触ってみなさい」
あくまで真面目に勧められてシスタは戸惑う。
一瞬からかわれてるのではと思ったが、ユーゲンは生真面目な男だ。
ひとまず礼を言い、シスタは彼と別れた。
その日も難民保護区域に向かい、元天使たちが住むアパートに様子を見に行った。
リンデと会うのはあの図書館以来で若干気まずさがある。
白い建物の上階にある整理整頓された部屋で、二人は向き合って座った。
「この間はすまなかった。あなたへの無礼を許してほしい」
シスタが頭を下げると大人の雰囲気をまとう元天使はこう言った。
「謝るのは僕のほうじゃないかな。つい余計な事を言ってしまった」
「いや……結果的には知れてよかったが。……でも、なぜだったんだ?」
「君を見ているとつい、ね。やはり人間が悪魔と一緒にいるのを見ると未だに危機感がわくのかもしれない」
軽く笑ったリンデの言葉をシスタは真剣に受け止める。
「彼は……ベルンホーンは大丈夫だよ、悪い奴じゃないから」
言っていて不自然だとは思うが、シスタが告げると元天使のリンデは少し笑むのみで頭ごなしに否定をしなかった。
ベルンホーンと約束したのは元天使と深い付き合いをするなということだ。
それを破るつもりはない。
だがやはり博識な異種族で、経験豊富な大人の男リンデはシスタにとって有意義な時間を過ごす格好の相手でもあった。
今日も書類を持参して、彼の仕事探しについて話し合う。
「君はそうやって褒めてくれるけど、僕はもう年だし頭も凝り固まっているから、仕事の面でも若者のほうが適しているだろう。僕は余り物でいいよ。ここも悪い暮らしではないしね」
「そんなことを言わないでくれ。あなたの才能を埋もれさせるのはもったない。学者系はどうかな、リンデ。あなたは知識がすごいから」
「そういう家系だっただけさ。先人以上の知識はないよ」
謙遜する彼はそれでも一生懸命なシスタに好意的で、波長の合う者同士のやり取り自体を気に入っているようだった。
難民の就職は確かに若者から決まり始める。
魔族との摩擦を考えても未経験で従順なほうが好まれる傾向はあった。
「ーー今日はこのぐらいにしておこう。また探して持ってくるから。きちんと見てくれるだろう?」
「もちろん。根気よくつきあってくれて君には感謝しているよ」
柔らかく微笑む彼の部屋を去る時に、シスタはあることを思い出して尋ねた。
「リンデ。いきなりで申し訳ないんだが、よかったら手首を見せてくれないか?」
彼は不思議に思いながらも、言う通りにしてくれた。
すらりと細身だが、しっかり筋肉のついた男の腕だ。
シスタが確かめるように触っていると、リンデはくすぐったかったのか笑い始める。
「一体何をしてるんだい? 君は真面目に見えて、あまり距離感を気にしないのかな」
「え? すまない、気になって」
没頭したシスタが我に返ると、彼は理由を尋ねてきた。
恥ずかしい思いがしたが正直に話す。シスタもまだこの件については疑わしかったのだ。
「なるほどね。魔族は天族よりも温度が低いと文献で読んだことがある。しかし僕には外からまでは測れないな。きっと魔族同士の感覚機能なのだろう。僕の体温は、あまり君と変わらないんじゃないか? ……ほらね」
突然おでこに彼の手の甲で触れられ、驚いたシスタは一瞬身をすくめる。
するとくすくすと声を出された。
「……そうなのか?」
「人間は魔族よりは天族に近いよ。神が僕らに似せて創造した存在だから」
はっきりと言われて言葉に詰まる。
だが元天使のリンデには尊大な態度はまるで見られず、むしろ慈しむ表情を浮かべていた。
「ではね、シスタ。また次の面談で君に会えるのを楽しみにしているよ」
彼の優しい声に見送られ、部屋を後にした。
◇
シスタには人間のときよりも優れた感知能力があったが、体温の違いまでは正直分からなかった。
リンデの体温は確かに自分と似た感じだと思う。
しかし、ベルンホーンをただ確かめてそんなことを感じ取れるものなのか。
「私は何を必死になっているんだ、くだらない……」
屋敷へ帰ってきて、白いローブを脱ぎ居間のソファへ腰掛けた。
頭をうなだれ考えを巡らせた。まだベルンホーンは帰っていない。
「ブルード。いるか?」
最後の手段といった様相で老執事を呼び出した。すると黒のスーツをまとった白髪の男は数秒で眼前に現れた。
「いかがいたしましたか、シスタ様」
「すまない……くだらない用件なのだが…」
「なんなりと」
シスタは立ち上がり、ブルードを見上げた。ベルンホーンほどではないが、彼も自分より目線がかなり上で背が高い。
「少し、かがんでくれ。……いや、やはりそこに座ってくれないか」
命じられた執事は遠慮がちにソファへ腰を下ろす。
姿勢よい彼のおでこにシスタは手をやった。
「冷たっ」
「……さようですね。私は吸血族ですので」
なぜか肩を落としたシスタは彼の隣に座る。とっさに執事は立ち上がろうとしたが、それを制止して居てもらった。
「何かお悩みですか」
「ああ……本当にどうでもよいことなんだが……ベルンホーンは私といる時、体温が……熱いということを聞いて。それが、その……好意を持っているという証になるのかどうか……気になったんだ」
シスタの顔が赤らんでいく。
ブルードは驚いた表情を見せず、納得の素振りをした。
「そうでしたか。確かにベルンホーン様はあなたといる時、体温が上昇しております」
「……本当か?」
「本当でございます。魔族は怒った時や感情に狂いがあった場合も同様になりますが、シスタ様と仲良く会話をなさっている時でも心が熱く灯っているように感じられますよ。私は自分の体温が低いので余計に分かるのです」
シスタはその話を聞き、確証を得た。
ユーゲンに加えて長命の執事の言葉ならば信憑性がより高まる。
若き主人の表情が明るくなっていくのを、ブルードも微笑ましく見つめていた。
しかし老執事はきれいな所作で立ち上がり、シスタに深く頭を下げる。
「申し訳ありません、シスタ様」
「なんだ? もう少し座ってくれてもいいだろう?」
「いえ……ありがたいお誘いなのですが、ベルンホーン様が私達を見ております」
「な、なんだってっ?」
素っ頓狂な声を出した瞬間、居間の連なるガラス戸の前に銀髪の男が現れた。
腕を組み、二人をじっと不機嫌そうに見下ろしている。
「ふん、間近に来ればさすがに察知されるか」
「ベルンホーン様、いつから透明になっていたのですか」
「シスタがお前の額を触っていた時から外で見ていた。こそこそと何をしていたんだ?」
「……え、ええと……別にやましいことはしていないぞ」
珍しくしらばっくれようとするシスタを見兼ね、執事は口を開いた。出過ぎた真似だとは分かっているが、恥じらう彼を思いやったためだ。
「シスタ様は私とあなたの体温を比べようとなさっていたようです。なぜだかはあなたにも分かりますね?」
「え? なんで?」
「魔族の体温ですよ、ベルンホーン様」
再度告げられても鈍い悪魔は首を傾げる。
自分だけが見当もつかない状況に痺れを切らしたベルンホーンは急にシャツを脱ぎ上半身裸になった。
「ちょっ、何をしてるんだ!」
「お前はひんやりした男の肌のほうが好きなのか。俺の熱く広い胸は嫌いか?」
そう言って無理やりソファに入り込み、押し倒す勢いで青年を胸板に抱きしめる。
急速に熱気に包まれたシスタは顔を真っ赤にし、瞳を伏せた。
「嫌いじゃない、好きだ……」
「……本当か? 顔が赤いぞ……どうした、シスターー」
顎をそっと持ち、瞳をのぞきこもうとしたとき。
怒りの形相でベルンホーンは背後を振り向く。
「おい。いつまでそこにいるつもりだ。早く行け」
「申し訳ありません、少し心配で。では失礼いたします」
気配薄く佇んでいた老執事は丁寧に礼をし、その場を若者二人きりにした。
シスタは何も言えず黙っていたが、このままでは二人に申し訳ない。だから恥を偲んで明かすことにした。
今こうしていると当の悪魔はやはり温かく感じる。
しかしそれは自分の体温も熱いからではとシスタは悩む。
「……なっ、俺の体温が気になってたのか? 俺はそんなに熱くなってるのか。言われるまでまったく気づかなかった」
「私もだ。だから気になって……誤解を招くような真似をした。すまない」
「シスタ!!」
「わっ、なんだよ!」
今よりももっと強く抱きしめられ、恐る恐る見つめる。
ベルンホーンは明らかに大きな感動に包まれていた。
「つまりお前は、俺の気持ちが気になったんだな? ああ……お前のような可愛い男は見たことがない」
「……笑えるだろう、私だってこんなこといつもはしないんだ」
「本当か? 笑うものか。ならば俺はもっと嬉しくてたまらないな。お前にとって特別だという証になる」
悪魔はにこりと笑み、顔を傾けてちゅっとキスをした。
シスタはこの甘いムードに耐えられず、彼の肩口に横顔をくっつけている。
「それで? ブルードは冷たすぎて参考にならなかっただろう」
「ああ……でも、ユーゲンとリンデにも確かめさせてもらったから、なんとなく分かったよ。やっぱりお前のほうが温かいとーー」
「待て、あの二人にも同じことをしたのか!?」
大きな声を出されて目を瞬かせる。
言うべきでなかったと悪魔の怒り心頭な顔で気づいた。
「いや、悪かった。そういうんじゃなくてだな、私はただ身近なところで……その、エハルドは今日仕事だったから他に人が……」
「お前は……それはわざとか? 俺に嫉妬させようとしているなら逆効果だぞ。お前の周りは明日全員いなくなってるかもな」
怖い顔で脅されるが、シスタは落ち着いていた。
やましい気持ちはまったくなく、純粋に調べようとしたからだ。
「悪かったよ、ベルンホーン。私は今日一日お前のことが気になっていた。だからこんな事をしてしまった。もうしないよ」
シスタは悪魔の頬に触れ、お詫びのつもりで軽くキスをした。
慣れない行いだが、ベルンホーンが恍惚と見つめてきた為、彼の唇にもする。
甘ったるいムードが二人の間に漂い、シスタはまた気恥ずかしくなった。
「……やっぱり、正直に言おう。私は前の奴隷だった男のことを、気にしてしまっている。無駄なことだと分かっているが、同じ立場だったから余計にな……」
「同じじゃないさ。まったく違う。ああシスタ……お前の可愛い姿を一日にそう何度も目にしてしまったら俺は死んでしまうぞ」
まだ上半身裸のベルンホーンがそう漏らし、大きな手で青年の黒髪をとかす。
「前の奴隷のことは何も気にしなくていい。あれはもう終わったことだ。俺の心の底に沈んだ、苦い思い出さ。俺はお前を愛しているんだ。こんな風に誰かを強く想ったことはない。だから……早く俺と結婚しろ。そうして二人で、俺達を永遠に安心させようじゃないか」
「結婚……? お前はまだそんなことを……」
「お前が頷いてくれるまで俺は言うぞ。なぜ俺としてくれない、俺はお前の理想にはなれないか?」
いつもは自信満々な男の瞳がもどかしげに細められる。
「私はお前が好きだ。でも結婚は……私など……目を覚ませ、ベルンホーン」
「見ろ、目ならはっきり覚めている。お前は結婚を深く考えすぎだ。今と何も変わったりはしない。ここに二人で住めるし、お前が望むなら新居を建てよう。それにな、時々は親戚の集まりがあるだろうが、俺も嫌いだから大抵は避ければいい。あとはーー」
勝手に一人で話し始め、シスタは頭をさらに悩ませていく。前の自分なら、ありえないと一刀両断だっただろう。
気持ち的には今も同じだが、愛をまっすぐに伝えてくれるベルンホーンに冷たい言葉を投げることは出来なかった。
「私はお前が好きなんだ。それだけは信じてくれ」
「……ああ、信じるさシスタ。けれどな……そうだ、前向きに考えると言ってくれ。答えは急がない。十年でも百年でも俺は待ってやる」
シスタは顔を上げる。
何気なく放ったベルンホーンの言葉は、これまでで最も青年の心に刺さった。
「……え? お前はそんなに長くかかっても待つつもりなのか」
「そうさ。百年などあっという間だ。結婚したら俺達はもっと長く一緒にいるんだぞ」
そんなに長く過ごす未来があるのだろうか。奴隷の自分に。
悪魔からの言葉を聞き、シスタの瞳はうっすら濡れていた。
「おい、どうしたんだ」
「お前がそんな先のことを考えてるなんて、知らなかった」
「これほど求婚しているのに?」
「……求婚よりも、私との未来を語ってくれるほうが、私は嬉しいんだ」
今知ったことを伝えると、はっとなった顔のベルンホーンに抱きしめられる。
「そうだったのか? 俺はずっとそのつもりだった。もちろん何百年も共に生きるんだ、シスタ、お前と。だから安心していい」
なぜか優しすぎる声音と腕の中にしまわれて、小さく頷くことしか出来ない。
自分も出来るだけ長くこの男と一緒にいたいのだと、シスタが自覚をしてしまった瞬間だった。
prev / list / next