▼ 21 二人きり ※
その日悪魔は青年を誘い出そうとした。
するとなんと、向こうから声をかけてきたのである。丸い手さげの籠を持って。
「ベルンホーン。今日時間があるなら、ピクニックに行かないか?」
「ぴ、ピクニック?」
「ああ。弁当もある。安心しろ、私の手作りじゃない。料理長に頼んで作ってもらったんだ」
悪魔は感動した。自分の想いのほうが遥かに強いことは知っていたから、青年が自ら何かしようとしてくれていることに。
「シスタ! お前はなんて愛しい奴なんだ。もちろん行きたいぞ、楽しみだ! どこがいい? 山か海か湖か」
「……海に行けるのか?」
そう尋ねた時の表情でベルンホーンは行き先を決定した。これはまったくの偶然だが、ちょうどいい。
実は近いうち、連れていこうと思った場所があったのだ。
転移魔法で直接飛ぶのも味気ないので、高速の馬車を手配して二人は出かけた。
昼頃やって来たのは冥界の海辺だ。
郊外の屋敷から二時間ほどの、南端にある白い砂浜には人っ子一人いない。
見渡す限り青紫色の海で、静かに波が打ち寄せている。遠くに崖が連なり、ここは隔離されたビーチのようだった。
「すごく綺麗な場所だな。海も神秘的で絶景だ」
「そうだろう? ここは俺のお気に入りなんだ。さあ、座って食べよう」
敷物を敷いてくれたベルンホーンに、籠から色々取り出して渡す。二人は酒で乾杯をし軽食を楽しんだ。
「美味いか?」
「そりゃうまいよ。俺はお前の手作りのほうが好きだけどな」
にっと笑う悪魔を青年は照れくさく見やる。もう少し練習してからまた作ると約束した。
サンドイッチを片手に海を眺める横顔は見とれるほどだが、やはりこの男の気さくさは長所だと感じた。
「あっという間になくなってしまったな。もっと頼めばよかった」
「平気さ。夕飯は俺が用意してやる」
「え?」
「今日はここに泊まるぞ、シスタ。朝まで他に誰もいない二人っきり。最高だろ」
ベルンホーンは突然振り向き、砂浜に向かって手を伸ばした。
彼は軽やかに呪文を唱える。すると前面がガラス張りの木のコテージが現れ、シスタは仰天する。
「これは……ここにあったのか。空間魔法で隠していたのか」
「その通りだ。この浜は俺が買ったものでな、時々訪れている。ほら、見てみるか」
立ち上がり、青年の手を引いて一階建ての家屋に入った。ビーチが映るガラス窓のすぐそばに、クッションが並ぶ大きなベッドがある。
開放的で素晴らしいが、なんだかシスタにはいかがわしく感じられた。
「なるほど。こうやって連れ込んでるのか」
冗談ぽく呟くと、ベルンホーンはじっと顔を覗き込んできた。
「連れてきたのはお前が初めてだよ。シスタ」
「えっ? ……そうなのか、悪い」
素直に謝ると悪魔は妖艶に笑う。本当なのか途端に疑わしくなるが、別にそんなことは気にしていない。
とにかく非日常的な出来事には密かに胸が踊っていた。
まるで別荘のように何でもそろった部屋を見た後、少し手持ち無沙汰になった。
着替えはあるようだが、本もないし悪魔と二人きりで何をしたらいいか分からない。
すると突然ベルンホーンは開けっ放しのガラス戸の前で、服を脱ぎ始めた。
彼は海で泳ぐつもりらしく、腿をあらわにした下着姿で、引き締まった長身体型が準備運動をする。
「お前も早く脱げよ、気持ちいいぞ」
「い、いや……私はいい。肌寒いだろう」
「ならあったかくしてやる」
ご丁寧に体がぽかぽかする魔法をかけられる。
ベルンホーンの肉体はたいていの寒さや暑さに耐性があるようだった。
逃げ場のなくなったシスタも下着になり、海に飛び込む男にゆっくりとついていく。
ぬるま湯のような青紫色の水につま先をいれた時、すぐに引っ込めた。
「おい! まるで恥じらう女子のようにお前はいったい何をしてるんだ? 早く来い、シスタ!」
「…………泳げないんだ!」
そう叫ぶとベルンホーンは目を白黒させた。
銀色の髪が色っぽくぬれる美男子が近くに来て不思議な様子で見下される。
「本当に?」
「本当だよ。情けないだろう。だが昔から、練習する時間がなかった」
病弱だったシスタは水の中で泳ぐ機会がなく、それを自分でも少し恥じていた。
ベルンホーンは笑うと思ったが、そうしなかった。
「俺が教えてやろうか。それとも怖いか、見ているか?」
「怖くはないが……出来ないと思う」
シスタは昔、元気に水中を泳ぎ回る親友をそばで眺めていた。想像の中で自分も挑戦したが、原理が分からず自信は生まれなかった。
ベルンホーンにそう伝えると、彼は微笑みシスタの手を引く。
「じゃあまずは浮いてみろ。俺が持っててやるから大丈夫だよ」
まるで小さい時の親切なお兄さんのように、それから練習が始まった。シスタは素直に言う通りにする。
正直、海に初めて入ったため浮く感覚が新鮮だった。
「すごい、浮いてるぞ!」
「はは。お前はなんて可愛いんだ」
手足を伸ばし波に漂う。それだけで素晴らしい気分だった。
冥界の日照りが幸せで、魔人になって初めて生の実感が強く広がった。
「あれ…? ベルンホーン、どこだ!」
そのまま目を閉じて漂っていた青年は、開いた時に視界に海しかなくてパニックに陥った。結構流されていて岸から遠い。
一瞬溺れるかと思いきや、脇の下をがっしりとしなやかな腕に抱えられる。
「俺はずっとお前の後ろにいたが」
なだめるように言ったベルンホーンは、青年の束の間の恐怖を感じとったようで、抱えて泳ぎ海から上がった。
「大丈夫か? 気持ちよく泳いでるように見えたんだ。お前は無事だぞ、一緒にいるから」
「ああ……ありがとうな。あまりに気持ちがよくて調子に乗りすぎたかもしれない。……お前がいてよかった」
浮いていただけで泳ぎは全く習得していないが、冷や汗が残りながらも、海を教えてくれた悪魔に礼を言う。
さっきは大げさでなく命の恩人に思えた。
ベルンホーンは青年にタオルをかけ、しばらく寄り添っていた。
また悪魔の優しさを知ったシスタは、地上での彼とのギャップを思い出す。
やはりこれも確かに彼なのだと。
「シスタ。お前は俺のようにこれが好き、あれが嫌いとあまり言わないだろう? だからもっと教えてほしい。お前のことが知りたいんだ」
手を握られ、水滴のついた肌ではにかまれるとシスタは柄にもなくどきりとした。
「わかったよ。私はあまり好き嫌いはないが……考えておく。そうだ、もっと泳いできたらどうだ? お前の楽しみを中断させてしまったな」
「何を言ってるんだ、俺の一番の楽しみはお前なのに。色んな表情が見れるのが嬉しいのさ。ーーではまあその為にも、もう一度海に入るか」
青年の顔に疑問符がついたがベルンホーンは一人でひと泳ぎしにいく。
その際しばらく姿が見えなくても心配するなと言われ、シスタは了解した。
彼は呼吸も長そうだから素潜りでもしてるのかと思った。
すると信じがたい姿で海から上がってくる。
両手には恐ろしい牙つきのヒゲの長い大魚を持っていた。
「なっ、なんだそれは! 捨てろ!」
「ひどいこと言うなよ、俺達の夕飯だ。待ってろ。あとで焼いてやるからな」
この男は綺麗な見た目をしてかなり野性的な行動をする。
約束通り、日が落ちた後はコテージの外でグリルをし、獲った魚を焼いてくれた。
「ベルンホーン。自分で作ってみてから余計に確信したよ。お前の料理はすごく美味い」
「ははっ! それは嬉しいが。俺のはいつも簡単さ。ほら、これもただ焼いただけ」
皿に取り分けてくれて、ホクホクの魚を食べる。奴隷への振る舞いとは思えないが、有り難く平らげた。
ゆったりした時間が流れる。手慣れた彼は本当に時々この場で一人の時間を楽しんでいるのだと想像できた。
段々と夜になる。空が暗くなり、濃い紫色が広がる。
自分達の住む場所とは違い、より多くの星の光に照らされて輝いていた。
ベルンホーンはシスタを浜辺に誘う。
昼夜異なる景色を一日で楽しめるのは贅沢の極みだった。
「そろそろだ。向こうの空を見てみろ、シスタ」
二人は砂浜に座り、水平線から南の方角をじっと見た。すると二つの曲線が長く伸び重なる。ひとつは白くキラキラと輝き、もう一つは薄い緑がかったラインだった。
「あれは魂の川と、冥界二層三層につながるトンネルが交差した線なんだ。ここから見る姿が一番美しいんだよ。……魂の川は少し、俺達にとって苦い思い出かもしれないがな」
ふっと笑い、初めて喧嘩らしきものをした時のことを思い出しているようだ。けれどシスタは首を振る。
「とても綺麗だよ。命の最後の輝きだ。ここに連れてきてくれてありがとう、ベルンホーン」
前を向いていたら、彼の顔が近くにあった。
唇を求められ、重ね合う。
夜風が気持ちいいだけでなく、やけにベルンホーンの表情が優しく見えた。
自然に押し倒され、何度か顔を傾けてキスをされる。
シスタは空と、悪魔を交互に見つめながら受け入れた。
◇
室内に戻ると、シスタは砂糖菓子をいつまでも味わうような甘い雰囲気の中で抱かれた。
だがそれは堅物の青年にとっては、必ずしもいいことではない。
「もう、勘弁してくれ、ベルンホーン」
互いの指をきつく絡ませ、男の上にまたがり腰を動かす。
なんとも恥辱的な体勢で、強引に犯される方が遥かにマシだった。
「ああいいぞ、至上の眺めだ、俺のために動け」
下にいても支配的な男は、月明かりに浮き上がる青年の裸体を楽しんでいる。
「んっ、くっ、疲れてきた、お前がやってくれ…っ」
「そうだな……可愛くお願い出来たらいいぞ」
無理難題を示す主人に対し、早く終わらせたい思いでいっぱいのシスタは、上体をかがめて彼の胸に密着させ、耳元に吐息を聞かせた。
「頼む、ベルンホーン……お前ので、私を気持ちよくしてくれ」
すると悪魔の顔が瞬時に沸騰し、赤らんだ恍惚状態になる。
きっと興奮しすぎて、今敵が襲ってきたら自分達以外焼け野原にしてしまうだろう。
銀髪の悪魔は青年を抱えて起き上がり、ぎゅっとしたまま座位で腰を下から打ちつける。
「あっ、あ、ぁあっ、んっ、んん! ベルンホーンっ」
口を閉じてられず、振動に揺らされるだけだ。
最高の気分のベルンホーンは一心不乱で尻を浮かしシスタの中をペニスで突く。
「いっ、イッて、しまう!」
「いいぞ……俺のでいけ、シスタ……絶頂を味うんだ……ほら!」
背をのけぞらせ、腰裏に手を伸ばされて支えられる。
びくびくと熱い全身でシスタは達した。
飽き足らず悪魔は押し倒し、青年を思いのままに愛したのだった。
濃厚なセックスだったが、二回で終わる。この前の指摘を気にしてるのか悪魔にしては控えめだ。
シスタは事後も意識があり居心地が微妙に感じた。
ベルンホーンはこちら向きに横たわり、まどろみの中で黒髮を撫でている。
「寝たらどうだ、ベルンホーン」
「お前が先に寝ろよ。寝顔が見たい」
そう言われても目は冴えている。いつもと違う雰囲気で緊張してるのかもしれなかった。
間が保たないと感じたシスタは質問をすることにした。
「ところでお前に聞きたいんだが……母親はどんな人なんだ?」
「ベッドで親の話をするとは。変わってるなお前」
「……確かに、すまない。さっきの話じゃないが、私もお前のことを知りたくなってな」
この間、あれだけ広い生家の屋敷で一人も女性を見なかったことが、なんとなく気になっていた。
するとベルンホーンは気兼ねなく教えてくれた。
「俺と兄上二人の母親は同じ人で、もう亡くなっているんだ。体があまり強くなくてな。綺麗な人だという思い出はあるが、うちの家系は男系で、男同士の繋がりのほうが強い」
彼らにとって母親はたまに会う人で、それが普通だったという。
下の弟も二人ずつ異なる母親で、末子のルニアも違う母親だといった。
あの父親のルフォードは全部で四人娶ったというから驚きだ。
魔族の高貴な家では、たまに女系と男系が色濃く出る場合がある。そうするととくに男系はその血筋を守り結束を高めるため、婚姻は別として、女性をあまり関わらせないようにするのだそうだ。
「そうなのか……独特な世界だな。寂しくは感じなかったか」
「ふふ。教育熱心な使用人が大勢いたからな。日々忙しくてそんな暇もなかったよ。お前のお母さんやお父さんはどんな人なんだ?」
「私は……両親とはあまり折り合いがよくなかった。父は早くに亡くなったが、母は父の看病に疲れ、家を出ていったよ。私は時々会っていたが、正直心の中では恨んだこともあった。なんであなたたちはこんな私を産んだんだとね」
仕方のないことだと分かっていたものの、少年だったシスタは他の誰にもぶつけられず苦悩していた。
親友の前では強がり、この思いを孤独に抱えていたシスタは、なぜか悪魔の前では明かすことが出来た。
「シスタ……苦しかったんだろう。その頃のお前を思うと胸が痛む。俺がそばにいれば、すぐに連れて行ってやったのに」
過激な台詞に青目を見開いたシスタは、思わず笑ってしまった。
「冥界にか? 不謹慎なことを言うな。さすが悪魔だな」
「そうさ。今はもう痛みはないだろう? ここに」
胸に手を当てられて、シスタはなぜか急に涙腺が緩んだ。
長く一人ぼっちだったが、この世界では違う。親友と、ベルンホーンが連れてきてくれた。
結果論ではあるけれど、そう悪いことではなかった。
青年の手がぎこちなく悪魔の腰に伸ばされる。
シスタはよく分からない感情のまま、ベルンホーンの上半身に寄り添った。
「……おおっ? シスタ……? まさか俺にハグしているのか」
「別に、気分的なものだ」
さっきと違い、一度潜りこんでしまった胸は心地良い。
「ああ……お前ほど愛おしい者はいない。もっと俺になついてほしいな」
そう抱きしめられるとなんだかペット扱いを受けているような気分になったが、さっきの話で少し気になった。
「なあ、お前もいつか結婚をするんだろう?」
「俺か。ああ、するよ」
あっさりと悪魔が答え、顔を上げる。
やはり自由に見えても、家のことをきちんと考えているのだろうか。
「お前は?」
「……私が? 無理だろう。誰が格下の魔人と婚姻など……」
「俺だ」
ベルンホーンが即答し、思わず青年は呆けた声を出した。
まったく理解が追いつかなかったが、銀髪の男に夢心地の目つきで見られている。
「シスタ。俺の伴侶になる気はないか」
すごく気軽に告げられ、混乱を極めた最中で青年は
「ない」
そう答えた。
悪魔は正面から一撃を食らった表情になる。
「……えぇ!? おい待てよ、俺は初めて求婚をしたんだ。お前はいま断ったのか?」
「もちろんだ。お前は魅力的で、強く美しく、性格も悪くない。だから然るべき身分の者とするべきだ」
驚愕する悪魔に対し青年も真面目に答える。
しかしベルンホーンは納得がいかないようで、段々シスタも埒が明かなくなる。
「わかったぞ、私を何人目かの配偶者とするつもりだろ。それでも間違っている、転生したばかりの元人間をそんなふうに簡単にーー」
「俺は一人としか結婚しない。お前以外にするつもりはないんだよ。それに簡単に決めたんじゃない。すでに心に誓って確信しているんだ」
ベッドの中で、いったいどんな状況になっているのだろう。
こんなつもりではなかった。
「お前はおかしい、変わっている、ベルンホーン」
「俺のことが好きじゃないか? シスタ」
また甘い声で、その大きな体で覆いつくそうとする。
この前はっきり言ったのに、今ははっきり言えない。
「好きだよ、どちらかといえばな。でもそういうんじゃない」
「ふふっ。いいさ、すこしずつ前進しているな。お前に好きだと言ってもらえた」
前向きに微笑み、唇を寄せてキスをする。それは段々と深まり、燃料を得たベルンホーンの熱は再開する。
青年にはそんな悪魔の止め方がもう分からなかった。
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