Undying | ナノ


▼ 17 接触

シグリエルは早朝の森を走っていた。術の訓練をした後は、こうして体力をつけることも怠らない。だがアディルにとっては珍しい光景だったらしい。

「お疲れ。兄貴も走り込みなんてするんだな」
「……ああ。普段研究で籠ってるからな」

弟にタオルを渡され顔を拭く。軽装の兄を眺めたアディルは、自分も軽く体操をしながら伺いを立てた。

「あのさ、俺もちょっとした運動ならもうしていいか?」

以前ならばすぐに駄目だと言う流れだったが、シグリエルは少し考えたあと頷いた。弟の体は最近頑強になってきており、外の空気に触れても感染や綻びの恐れは減っている。

「いいぞ。ただし何か違和感を感じたらすぐに中止して俺に教えてくれ」
「おう! おっしゃ!」

アディルは白い瞳を輝かせすぐに走り出した。唖然とする兄を置いて、元気爆発といった風に森の中に消えていく。
ここは結界つきの私有地で危険はないものの、シグリエルは軽くため息を吐いて近くの丸太に座った。

しばらくして弟が帰ってくる。当然汗ひとつなく、最後までスピードも落ちていない。

「やっと帰ってきたか。どこまで行った?」
「崖近くの小川までだ。途中鹿と遭遇したんだが俺のほうが全然速かったぜ」

上機嫌な弟にシグリエルも感心する。アディルは想像よりも身体能力がさらに強化されていた。
だがひとつ懸念していたことを、すぐに思い知らされる。

「こんな感じだったら、俺も戦えるんじゃないか?」
「……何と戦うんだ」
「そんなすぐ仏頂面になんなよ、俺も兄貴の助けになると思ってな。ほら、もう悪霊でもなんでも怖がったりしねえから。慣れておかないとな!」

急にやる気に溢れ出した弟に対し、もちろん良い気はせず頭を抱える。

「前向きでいてくれるのは嬉しいが、俺はお前に戦わせるつもりはない」
「だからもしもの場合だって。あんた依頼とか受けて仕事してるって言ってたよな」

元傭兵だからか、不屈の魂を持った弟を本当なら褒めてやりたいが、シグリエルはそんな事を望んでいなかった。
アディルを座った姿勢からじっと見つめる。そして心の中で静かにこう語りかけた。

『お前が大事なんだ。危ないことはしないでほしい』
「えっ?」

声を出したのは弟で、呆気に取られた顔をしている。シグリエルは立ち上がり、弟を間近で見下ろした。紫の瞳は普段よりも強い力を放って見える。

「な、なんだ今の」
「念話だ。ある程度の距離にいればお前の頭の中に語りかける事ができる。こういう言い方は嫌だが、契約上お前は俺が使役する対象だからだ」

シグリエルは説明をした。妖術師エルゲがイリスに行ったように、使役する不死者には言霊で命じる目的があるのだ。
だがアディルは、命令を聞かせるために覚醒させたのではない。

「だから、俺はーー」
「すげえ!! もう一回やってくれよ兄貴! そうだ、もしかしてイリスみたいに、あんたの言葉で俺もその通りに動けたりすんのか? それで二人で戦えたらかっこよくねえ!?」

興奮する弟を前に後ずさる。どうしてこうなってしまうのか。
アディルは昔の弟とはまるで別人なのだと思い知った。

「言う事を聞け……」

そう恨みがましく見つめて頬に手を伸ばす。そのまま唇を奪おうかとも考えたが、気が変わった。そんな悪戯をしてしまうぐらいに、シグリエルは追い詰められていた。

『俺にキスをしろ。アディル。……こういう事が続くんだぞ?』

真剣な顔で立っている兄の前で、アディルは体がびくりと強張る。そして自動的に、一歩前に出て顔を傾けた。少し背伸びをし、シグリエルの唇に自分のが重なると、赤く染まった表情が離れた。

「……なっ、なにやってんだよ! そういう使い方すんじゃねえよっ」
「うまくいったな。この命令ならやってやる」

しれっと述べるシグリエルに地団駄が響く。
大人気ない事をしたと分かっていても、弟からの口づけは忘れがたいものだった。





遊んでいる場合ではない。
最近鍛錬を強化していた理由がシグリエルには明確だった。
その日の午後、兄弟は違法組織の頭であるラノウの屋敷を訪れることになっていたのだ。

何度も拒絶を考えたが、当主に送ったはずの魔法鳥は黒魔術師サウレスによって汚染され、おそらく居所もバレてしまっていた。
奴の通告は変わらない。「屋敷に来い。さもなくば押しかける」と。

ゆえにシグリエルは諦め、敵地に捨て身で乗り込むことに決めた。
魔術師は用意周到で疑い深く、屋敷に着くとすぐに兄弟を離れ離れにするつもりだった。

「なんかドキドキするな。久しぶりだ。皆、俺の体については大丈夫なんだよな?」
「そうだ。当然事実は隠しているが、事情は分かっている。心配するな」

白い邸宅を囲む巨大な鉄格子の前を歩き、門で止まる。
アディルは黒い保護眼鏡をかけているが、もう真っ白な肌は隠さずに筋肉質な上半身は半袖を着ている。

武器を携帯した門番の二人は新入りだった。ラノウによれば同僚の裏切りのあと、組員の素性は全員洗い直し、警護も強化したようだ。

「あんたらか。ラノウがお待ちだ。入ってくれ」
「おう。どうもな」

顔色ひとつ変えない傭兵だったが、黒装束を着ているシグリエルのことだけはちらりと目に入れた。サウレス以外の魔術師はここには入れないため、警戒しているのだろう。

「やあ君達、僕が出迎えにきてやったよ。アディル、君はさっさと行け。部屋でラノウが会いたがっている。シグリエル。お前はついてこい」

偉そうに命じる白髪の男に聞こえるように舌打ちをする。
連れられたのは一階の玄関近くにある取り調べ室だ。

「服を脱げよ」
「ふざけるな」
「そんな口を聞いていいのか? 僕の機嫌を損ねたらまたこの間のようになるぞ」

少し目線が下の青いローブ姿の男を睨みつけ、シグリエルは外套を脱いだ。薄着になって丸腰かどうか確かめられる。

「へえ、いいナイフ持ってるな。儀式にも戦闘にも使える。自分で作ったのか?」
「そうだ。これを取り上げるなら俺は帰る」
「わかったわかった。子供じみた奴だな。それは持ってていい。ここは屈強な男達がいる魔窟だからな。お前のような陰気な魔術師には必要だろう」

いちいち人をいたぶるのが好きなサウレスは、その後シグリエルの体の結界を勝手に解いた。がくん、と膝の力が欠け、眩暈が襲う。ゆっくり目線を上げた先には、屋敷内にはびこる数多の死霊達が泳いでいた。

「お前は……最低なやつだ」
「ありがとうよ。これでも警戒してるんだ。悪魔つきはこれぐらいやらないとな」

無防備になったシグリエルは気力を出してその場に立つ。
そして本能では避けたかったが、嫌々口を開いた。

「お前に頼みがある。アディルに呪詛のことは言わないでくれ」
「ああ、あれか。なんでそこまでこだわる? 誰がやったんだ。お前のせいなのか?」

サウレスはいやらしく黒目を細め、相手を見つめた。
シグリエルは固く口を閉ざす。どんな些細な情報もやりたくなかった。

「ははっ。まあいい。お前達は一泊するんだもんな?  吐かせてやるさ」

余裕の眼差しで述べ、再びじわじわと追い詰めるのだった。



解放された後は、シグリエルはラノウの部屋へと向かった。
建物内の間取りは熟知していて、アディルを見つけた時は豪勢な書斎で楽しそうに当主と喋っている最中だった。

「あ、兄貴。どこ行ってたんだよ。早く来いって」
「よおシグリエル。お前ももう俺達の仲間だ。我が家のように過ごしてくれよ」

派手なシャツと上着を着たラノウは、これまでのいざこざを全て思わせぬように笑み、組員の兄を快く受け入れた。
反吐が出るのを抑えながら、シグリエルは大人しく正面の一人がけの椅子に座る。

「こいつの事情はサウレスから聞いた。側近以外の組員には話してないけどよ、不死者だからなんだ。アディルはアディルだ。俺は受け入れるぜ。お前も大したもんだ、弟を蘇らせるとは。根性があるじゃねえかよ」

自分の陣地だからかソファにふんぞり変える髭面のラノウは、長めの茶髪をもったいぶったように掻き上げた。離れたとこに立つスーツ姿の男に目線をやり、顎で命じる。
側近の男が持ってきたのは、大きな手持ち鞄だった。

「金はいくらあっても困るもんじゃねえ。使え」

アディルは一瞬顔をしかめたが、珍しいことではないのだろう。すぐには反応せず、ゆったりと座っている。
対してシグリエルは不快感をあらわにした。

「いらない。金はある。お前は弟をどうするつもりだ? またここで働かせたいのか」
「そう過剰反応するなよ。体のこともあるし、前と同じようにさせようなんて思っちゃいねえ。まああれだぞ、俺はこいつにはかなり甘かった。成人するまでは野蛮なこともさせなかったしな」

二十歳ほど年上のラノウは、貫禄のある面持ちで葉巻をくゆらせる。
シグリエルは金をじっと見つめ、どんな汚い手で稼いだものなのかと考えただけで吐き気がした。

無論、自分にそんなことを言う資格はないと分かっているが、弟が関わらざる得なかった世界だと考えると憎しみすら湧く。

「ラノウ。ありがたいけどいらねえよ。俺今、兄貴と静かに暮らしてるんだ。いいとこだぜ、深い森の中で。仕事はまあ……いつか戻りたいけど、まだこんな状態だからな。でも絶対あんたに恩は返したいと思ってる。……兄貴にもな」

照れくさそうに兄を見やった弟を見て、シグリエルは急激に胸が締めつけられた。
アディルのこうした純粋さだけは、変わらずそこに在るままだ。

「ああ、アディル、アディル。お前ってやつはなあ……。分かるだろう、兄貴よ。こいつは危ういんだよ。必死こいて良い体作ってきた好青年だが、中身も本当に愛すべき可愛い男だ。だから俺はそばに置いておきたい」
「…………殺すぞ」
「オイオイ、物騒なこと言うんじゃねえよこの俺に向かって。てめえサウレスに完敗したんだろ? 少なくともこの屋敷では大人しくしとけって。全員敵に回す気か?」

口元は下劣な笑みを浮かべるが、端正な目元は笑っていない。
シグリエルは当主を睨みつけたまま動じずにいた。元々友好など互いに期待していないのだ。



それからは、兄弟はラノウに夕食に招かれた。組からも親しい者達が同席し、サウレスも加えて大理石の食卓が十人ほどの席で埋まった。

外国籍の使用人らが料理を運び、皆にぎやかに口に運ぶ。シグリエルのもとには、挨拶として当主の妻であるイグノヴァがやって来た。

「ふふ。こんにちは。あなた、うちの若い人達と空気が違うわね。色男だけど怪しい感じーー。これ、私のお店の名刺。良い子たくさんいるから興味あるなら来てちょうだい」

シグリエルは目線だけやり無言だったが、女はシャツの胸ポケットにそれを差し込んできて、微笑みを浮かべ去った。

隣にいるアディルが耳打ちをしてくる。

「あの人夜の店やってる奥様なんだ。当主の前でもお構い無しでとくに新入りに声かけてくるんだよ。派手で俺は苦手だけどな。兄貴も気をつけろよ」
「……ああ。問題ない」

互いに料理に手をつけることなく、前を向いて話していると遠くの正面にいるラノウが声を出した。

「おい兄ちゃんよ、うちで用意した飯は食えねえか? 叔父夫婦の店でこの日のために用意した鳥獣の肉料理だ。良いワインもある。今日は楽しめよ」
「……俺は肉も酒もやらない。サラダを食べてるから構わないでくれ」

シグリエルが告げると男達の馬鹿笑いが響く。グラスの酒を一気飲みして絡んできたのは、最も大男のロニーだ。

「サラダぁ? 女みたいな奴だな! だからそんなひょろっちいんだよ、俺達を見てみろ! 強い男に必要なのはな、酒、女、筋肉だ! ハハハッ」

男に呼応するように他の笑い声が充満する。シグリエルにはそんな話はどうでもよく、大男が背負っているたくさんの水子の霊にしか目がいかなかった。

「うるせえ! 兄貴はお前より強いよ、見た目で判断すんなウスノロが!」
「ああ? 無理すんなよ病み上がり。お前ら兄弟より、こいつらのほうがやれるぜ。なあハンガー!」

斜め前で黙々と食べていた二人を指差し、大男は気分よくまた酒を飲み干す。
シグリエルは優しい弟の肩をそっと触ったあと、その兄弟を確認した。

この場にいる者は皆、死霊による調査とアディルから聞いていた話により詳細は知っている。

名指しされたハンガー兄弟は五年ほど前から傭兵として在籍する青年達だ。アディル同様孤児院あがりだが、腕っぷしは秀でていた。

とくに好戦的なのが弟のヘンスで、体中の入れ墨は筋骨隆々で坊主頭が目印の男だ。

「へっ。お前に言われるまでもねえ、ロニー。……アディル、お前も有望株だったのにな。なんだその生っ白い肌は。色素欠乏になっちまったのか? 残念だな、民族の誇りまで失ってよ」

嘲笑の台詞はアディルだけでなくシグリエルも憤怒させる。弟の外見は弟のせいではない。机の下で指文字を作り、奴を懲らしめてやろうと考えた。

しかし、遠くに座っていたサウレスが首を振る。一瞬躊躇った隙にアディルが俊敏に立ち上がり、その男のもとに向かった。

「なんだとこの野郎、生まれは関係ねえ!」
「じゃあそのメガネはなんだ? 獣みてえな金目も隠すんじゃねえよ」
「ーーやめろ、ヘンス。お前はいつもそうやってアディルに絡んで。まだ具合がよくないんだぞ」

理性的で大人しい外見の兄、エルキが立ち上がり止めようとする。だがヘンスが無理やり保護眼鏡を取ろうとした時、思わずアディルは彼の腹を肘で勢いよく払い除けた。

ヘンスの筋肉質な肉体は一瞬で数メートル離れた石壁に叩きつけられる。大きな衝撃音がし、男達は皆静まり唖然とした。

「……ぐうッ……い、っって……ッ」

背中を強打したヘンスを、兄が駆け寄り助ける。
アディルは自分のやらかした事を悟りすぐに「……あっ、すまん!」と謝った。

皆が食事の手を止め、ざわつき始める。

「今のはなんだ? どこからそんな力を出した? こいつ一瞬浮いてたぞ」
「おう、お前なんかおかしいぞ……仮死状態から奇跡的に生還したって……その体、改造でもしたのか?」

口々に尋ねられ、騒然とした状況にアディルは答えられなかった。シグリエルが弟の近くに歩み寄り肩を引く。この者達に明かすつもりはない。魔術に疎い男達はそもそも不死者の存在など信じないだろう。

「アディルは魔術師襲撃で深傷を負った。それはお前達も知っているはずだ。体を戻すには様々な施術が必要になる。過程で神経が不安定に陥るのも無理はない。奇異な目で見ないでくれ。弟は今も昔も変わらない、心の優しい正義感の男だ」

シグリエルが語ると、黙って様子を眺めていたラノウがこれみよがしに拍手を始めた。男達はそれ以上追求することはせず、思い思いの表情で席につく。

陰で弟のヘンスを説教したエルキも納得をしていた。

「その通りだ。アディルのことを言うのはもうやめよう。彼も俺達の大事な仲間だろ。どんな姿でも、どんな状況でもな」

アディルはそう言われて若干申し訳無さを浮かべつつ感謝していたが、ヘンスはまだ悪態をついていた。

シグリエルは冷静に俯瞰する。
弟は一番若く、主要な傭兵の中では歴も二年と新参だ。それなのに当主による寵愛を受けている。

あの裏切り者の古参までとはいかないが、きっとそのためによく思っていない者もいるのだろう。
シグリエルは尚更こんな血気盛んな男達の間に置いておきたくないと思った。




ようやく就寝時間になり、屋敷の者は各々帰宅したり、寝泊まり組は個室や警備の場に戻っていった。
シグリエルも泊まる部屋を与えられ、アディルは自分が使っていた私室へ戻る予定だった。

「兄貴、さっきはありがとな。それに嫌な思いさせて悪かった。居心地悪いだろ、あんたみたいな人には」

自分より人のことをまず気遣う弟に、穏やかに首を振る。

「俺は平気だ。お前こそ、新しい体で親しんだ人々に会うのは緊張しただろう。不具合があったら俺を頼れ」

そういう意図ではなかったのだが、シグリエルの台詞はアディルの眉をぴくりと動かした。

「不具合ってな。あんたいつも俺の体のことばかりだけどさ。俺の気持ちも少しは優先しろよ…」

呟いた弟に対し、首を傾げる。

「アディル? 何かしたいことがあるのか?」
「なんでもねえ」

素っ気なく答え踵を返そうとした弟の腕をそっと掴む。

「待て。まだ行くな」
「……………」

アディルは兄の瞳をじっと見て、黙っていた。
そしてようやく口を開く。

「俺の言ってることは伝わらないんだな。あたりまえか」
「念話か? それは残念なことだ。……なんて言ったんだ?」

その低い声がじわりとアディルの耳に響き、甘みさえ漂わせる。
弟の言葉をも奪ってしまい、シグリエルは密かに困った。

だからほのかに体温のある体を抱きしめる。
アディルも手を背中に回してきて、安心した。

「俺の部屋にいろ、アディル。一人にしたくない」
「……だめだよ。俺もそうしたいけど、ラノウが許さねえ」

当主の名前を出されると頭に血が上るが、なんとか堪えてアディルの額に唇を添えた。

「じゃあ好きなときに来い。……いや、数時間後にしてくれ」

少しやることがある、と声には出さないでいると、弟は怪訝な顔をした。
名残惜しい一時の別れを終えて、シグリエルはアディルを解放する。

そして自室に入り、ベッドに横たわった。
互いの部屋は同じ階にあるが、遠く離れている。

一眠りする前に、まずサウレスによって解かれた自身の守護結界を復活させる。
悪霊を見すぎて頭がズキズキしていた。

それから短時間、シグリエルは眠りに落ちた。

だが、ある時間になると覚醒する。
予定通りだ。午前二時、異なる呪文を自分にかけて、シグリエルは幽体離脱をした。

意識だけの集合体になり屋敷を探索するために。



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