▼ 7 終
朝、カウンター前で珈琲を飲んでいるタージの背に、ケイルは抱きついた。
「おはようございます、タージさん」
「ああ。おはよう」
カップを置き振り向いて、正面から抱きしめてもらえる。
少し前まで想像できなかった、ほのぼのとした光景に朝から心が暖まっていく。
「大好きです」
ワイシャツに腕を回したまま、ケイルは日々強まる思いを伝えた。するとタージが背を屈め、顔を覗き込む。
「俺に慣れてきたのか。懐いてくるようになったな」
口調は冷静だが、親指で頬を撫でる仕草はやさしく、顔もどこか微笑んで見える。
タージもケイルの変化を、内心喜びしっかり受け入れているようだった。
まだ部屋着のケイルは身支度をする、スーツ姿のタージを近くでうろちょろと見ていた。
「もう行っちゃうんですか? 寂しいです」
心を許してしまったせいで、素直すぎる思考をもらしてしまうが、タージは動きをとめて振り返った。
突然彼に腰ごと軽々抱き上げられ、カウンターの上に乗せられた。
びっくりしたその口を塞がれ、向き合ってキスが始まる。
「は、あ…………」
吐息がもれると、ケイルは半ば強制的に静かになった。
だが、次の言葉で我に返る。
「仕事場に来るか?」
「……えっ。……あ、そんなつもりじゃ、すみません!」
いつも話を聞いてくれるタージに悪いことをしたと即謝る。
だが会社社長の側近として働く彼は、異なる思惑でそう尋ねたらしい。
「お前さえよければ、俺の手伝いをするか」
なんと、彼は仕事の誘いを突然申し出てくれたのだ。
こんな自分に何かできるのだろうかと、途端にケイルの腰が引ける。
今も仕事は探しているけれど、タージによく調べて慎重になれと心配されていた。
「俺に、出来るでしょうか?」
「出来るさ。俺にも出来たんだ。お前は頭も悪くないし、性格もいい。大事なことだ」
頭をくしゃりと撫でられ、信頼するタージにそう断言されると、不思議と勇気が湧いてきた。
◇
行動の早いタージに連れられ、ケイルは早速その日会社へ一緒に到着した。
なるべく綺麗な服を着てきたが、屋敷とは違い初めて入る高層ビルは近代的で洗練されていて、受付からオフィスまで知らない世界のようだった。
エドガーが先代から受け継ぎ、社長を務めるこの企業は、主に船の部品の輸出入を扱っている貿易会社だという。
タージは社長のスケジュール調整などを行う秘書的役割だが、つきっきりではなく、在庫管理等の仕事も任されていた。
二人は最上階にある社長室へ向かった。
すると仕事用に金髪をセットした美形の青年が、足組したまま視線を投げる。
「ん? ケイルじゃないか。どうしたんだ二人共、仲良く揃って俺の部屋にくるとは」
声色は明るいものの、まだ引きずっている様子のエドガーは側近をじろりと見る。
「さてはお前、仕事の出来る自分を恋人に見せびらかそうという魂胆か。いつも無表情のくせにそういう奴だったとはな」
「社長。ケイルを俺のアシスタントにしたいんですが」
会話を流し、上司の前で堂々と主張する部下に、エドガーは悔しそうに唸る。
「ははっ。そう来たか。お前、俺の宝物を寝取っておきながら、公私混同する気か」
それには反論する術がないのか、側近は真摯に頭を下げる。
「以前から探していたんですが、こいつなら的確です。真面目な男なので。お願いします」
家にいるときとは違う、部下としてのタージが真っ直ぐ分析をし、自分のためにここまでしてくれている。ケイルの背筋もびしっと正された。
自分に役割が与えられるのは初めての経験で、緊張しながら願い始めていく。
「はぁ。ケイル。お前は本当にやりたいのか、そんなことが。遊びじゃないんだぞ。うちは給料も高い。自慢じゃないが、社員の満足度もナンバーワンだ」
矛先が当人に向けられると、ケイルは勇気を出して口を開く。
「……そうなんですか? 俺、余計に頑張ります! タージさんのもとで働きたいです……! 社長の、この会社の役に立てるように一生懸命頑張ります、よろしくお願いします!」
出したこともない大きな声で、頭を垂直に下げて頼み込んだ。
社長も鬼ではなく、むしろ反対する目論見も最初からなかったらしい。
「そうか、ではやってみるといい。僕は本当に優しい男だな。……くそぅ! 羨ましいぞ! どうして手放してしまったんだ、結婚さえしなければ!」
机を叩き、本気の後悔が室内に充満する。
用件が終われば早い。
二人は礼儀正しく挨拶し、その場をタージに連れ出された。
こうしてケイルの働き口が無事に決まった。
自分に一体何が起こっているのか。
一から十まで、どうやってお礼を言ったらいいか分からない。
翌週からケイルが出勤するため、週末にはタージとともにスーツを仕立てに行った。
社長命令で、側近の助手なら身なりをよくする必要があるらしい。
「わあ、こんなとこで試着するんですか? ホテルのお部屋みたい」
二人は行きつけの仕立て屋の個室に案内され、ケイルは色々なスーツを試したあと、従業員に体のパーツも測られた。
人形のようにされるがままで、椅子に腰掛け様子を見ているタージが気になる。
筋肉が張った体躯で、スーツでもなんでも着こなすタージは格好いいが、自分は着せられてる感じになる。
「なんだか変な感じです。俺、屋敷ではひらひらした服着てたしな…」
個室に二人きりになり、自信のなさから呟くと、はっとなる。
タージと目が合い、すぐにごめんなさい!と謝った。
彼は気にしていない様子だったが、ケイルには今更、前していたことが蘇ってくる。
あのときは何も考えてなくて、むしろいいことだと思っていた。でも全部この人に見られていたのだと。
「あの、タージさんは、ほんとに俺が隣にいていいんですか? 嫌になりませんか? 前は社長のものだったし……」
尋ねると、タージは立ち上がり、一緒にソファに座るように促した。
長い足をうつむき加減に見ていると、隣から彼の気持ちを聞かされる。
「たまに考えることはある。外で待っていると、お前の声が聞こえてきた。考えないようにはしたが、どこかに残っていた。甘い声が、ずっとーー。だが、社長と過ごした後も、お前は俺の手を借りなかった。今ではよかったと思う。……あのとき手を出していたら、二人共ここにはいないかもしれないからな」
ふふ、とタージが小さく笑う。
過去を振り返る仕草に、ケイルの胸がとくとくと音を出し始め、いても立ってもいられなくなる。
「お前が好きなんだ。……一緒にいたいと思う。いてほしい。……いてくれ」
タージはケイルの華奢な手を握り、まっすぐと告げた。
自分を見つめる黒い瞳は、屋敷にいた時から、本当は変わっていなかったのかもしれない。
けれど今では、互いに心を開き、引き寄せられ、不思議にぴたりと形合わさっている。
「はい。一緒にいさせてください。俺もタージさんのことが、大好きです」
飾り気のない素直なケイルの返事は、いつも無表情だった側近の男の、初めての笑顔というものを引き出したのだった。
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