ハイデル兄弟 | ナノ


▼ 87 実験の夢の中(ローエン視点)

「……んぐっ!」

腹の上に飛び乗ってきた重みと、自分のうなり声で目が覚めた。
まぶたを擦り、サイドテーブルの眼鏡を片手で探り当てる。

急にはっきりした視界に映し出されたのは、真っ黒な俺の同居人だった。
ぺろぺろと頬を舐められ、されるがままで終わるのを待つ。

「おはよう、ミーシャ。起こしてくれてありがとうな」
『ミャ〜』

ベッドから立ち上がり、彼の餌を小皿に準備した後、自分も身支度を整える。
洗面所へと向かい、水を出してバシャバシャと顔を洗ってから気がついた。

「あ……眼鏡つけたままだった。……久々に失敗してしまったな。防水で良かったが…」

一人暮らしの為自然と独り言が多くなる。
特殊加工を施した眼鏡はいったん装着すると、つけている事を完全に忘れるほど全身になじむのだ。

しかし今日の俺は、どこか落ち着きが失われているのかもしれない。
その後も朝食のパンを焦がしたり、カップに注いだ珈琲がどばどば溢れてしまったりと、普段はしないミスを朝から連発してしまった。

「ああ、急がなければ。今日は大事な約束があるんだ……セラウェとの…」

片付けを終え、玄関先で素早く靴を履く。足元で寂しそうに顔をすり寄せるミーシャを優しく撫でた。

最後に出かける前の儀式に取りかかる。右腕の袖を捲りあげ、黒い紋様を浮かび上がらせる。
口早に詠唱を行い、パン!という破裂音とともに室内に結界を張ると、下から短い悲鳴が聞こえた。

「これでお前が動き回っても大丈夫だ。じゃあ行ってくる、ミーシャ。夜ご飯は一緒に食べような」

相棒に別れを告げ、俺はアパートメントの階段を軽快に下りていった。






リメリア教会が有するソラサーグ聖騎士団領内へは、いつも徒歩で向かう。
結界師という仕事柄、任務では肉体を使った戦闘よりも、敷地や建物内の調査が多い為、嫌でも体がなまりやすい。

筋力トレーニングは行っているが、早朝の散歩が好きだという事もあり、自発的に体を動かすようにしているのだ。

教会へは二時間弱かかった。
同僚のセラウェは領内に住んでいるが、彼は寝坊をするのが趣味らしく、約束の時間も「午前10時以降」と言われたのでちょうどいい。

俺は浮足立つ気持ちを抱え、魔術師専用の別館にある訓練ルームへと向かった。

がらんとした防音防護の結界ホールの中で、あぐらをかいて精神統一すること三十分。
周囲から人の気配がした。しかしなぜか、複数の様子だ。

「お〜ローエン、はよー。ごめんごめん、ちょっと遅れちゃった」
「やあセラウェ、大丈夫だ。今日は俺の実験に付き合ってもらってすまなーーん?」

眼鏡をこらすと、はねっ毛の黒髪の男の後ろに、背の高い金髪の男が立っていた。青い制服に四本の襟章が入った、聖騎士団の団長だ。

「ハイデル。なぜ君がここに……何かあったのか?」
「ああ。これから何かがあるんだろう。お前の妙な実験に兄貴が付き合わされると聞いてな、俺も参加させてもらうぞ」

ぴりりとした空気を放ち、整った顔立ちに真っ直ぐ見下される。
隣のセラウェは「へへ、すまん」と若干汗のにじむ微笑みを浮かべていた。

そうか。
兄への思いがひときわ強く、その上度を越した心配性と名高いハイデルのことだ。
俺を警戒しているのかもしれない。前科持ちならばなおさらだ。

「構わない。むしろ団長のハイデルが居てくれれば心強いな。なんなら君の守護力も俺で試してみてくれてもーー」
「断る。さあ実験の準備をしろ。兄貴を貸すのはきっかり一時間だ。いいな」
「……え。ああ。本当は二時間ほどを予定していたが、仕方ないか。次に持ち越すとしよう」

ぎろりと蒼い瞳に睨まれ、心地よい緊張感をひしひしと感じる。
素晴らしい。今日の実験は、また一味違った結果になりそうだ。

俺はセラウェに促され、つるつるの床へと寝転がった。手足を投げ出し、リラックスをする。

「ローエン。今回も俺の禁止魔法のうちのひとつ、制限魔法をかければ良いんだよな? こっちも少しはレベルアップしてるからな、お前の自由を完全に奪い、前回よりもキツく縛り上げてやるつもりだ。フッ」
「……兄貴。こいつにそんな事してたのか? 危険過ぎる、何が起こるか分からないだろう。急に襲いかかられたらどうするんだ」
「えっ。いや大丈夫だって。こいつの反応そーゆー系じゃないから。お前も見りゃ分かるよ、クレッド」
「本当か? なんか嫌な予感がするんだが。まぁいざとなったら俺が押さえ込むけど…」

俺の真上で兄弟がぺちゃくちゃと喋っている。当人なのに置いてきぼり状態だが、自身は準備万端なため、異様に興奮が募っていく。

「では君の最大威力の制限魔法で頼む、セラウェ。俺も前回よりさらに耐性値をパワーアップさせてきた。楽しみにしていてくれ」
「ふふふ……じゃあ始めるか。勝負だローエンっ」

同じ緑の瞳をかち合わせ、やる気を見せる魔導師と頷き合う。
眼鏡をクイッと上げて気合を入れた俺は、ゆっくりと目を閉じた。

団長の監視のもと、セラウェの柔らかな詠唱が響き渡る。

この全身を大きな魔力で包まれる感覚は、勇気をもって魔法実験の被検体となる者にしか分かり得ない。
何度経験しても、美しき唯一無二の神秘体験なのだーー。


気がつくと、俺は真っ暗闇の空間にいた。
肉体はなく、目も開いてるのか閉じてるのか分からない。ただ感覚的に、その場との一体感がある。

ふわふわと流れを漂っているような浮遊感。魔力の川のようなイメージだろうか。

しかし無音なはずの空間に、ある二人の声が響いてきた。

『……もう三十分経ったぞ。こいつどうやって起きるんだ、兄貴』
『さあ……。この前は……動かしても無反応だったんだよな。まぁ変な反応はしてたけど……時間は…どんぐらいだったっけか…』
『二時間だ。そう言っていた』
『え、そうだっけ。お前よく覚えてんな、そんな昔のことーー』

セラウェのへらへらした笑い声が響く。
これは何なのだろう。肉体から隔離されたはずの俺の意識に、兄弟の会話が流れ込んでくるとは。

いや、しかし現実なのだろうか? 前回も俺は自分で作り出した妙な夢を見ていたし、これも俺の想像だという可能性は十分にある。

『暇だな……。クレッド。お前もう仕事戻っていいぞ』
『は? 戻るわけないだろ。この為に昨日残業して用件ひとつ終わらせておいたんだから』
『お前何やってんだよ、俺の実験に合わせんなよわざわざ』
『いや合わせるだろう普通に。心配だし。……あと兄貴の顔見たいし』
『……ば、バカかお前! 今そういう事言うんじゃねえっ』

二人が仲良く喋っている。しかし、その後少し雲行きが変わってきてしまった。

『昨日の夜だって会っただろ、……いや今日の朝もか』
『そうだな。でもすぐ部屋出たからあんまり時間なかっただろ。朝のキスだけだよ』
『……そっ、おま、何言い出してんだこのッ! 同僚の前だぞ!!』
『兄貴声でかい、こいつが起きるぞ。俺まだ二人でいたいのに』

!!!???

何だ?
キス?
兄弟でしているのか?

意識だけなのにも関わらず、俺は完全に混乱に陥っていた。
いやこんな事、あるはずがない。二人の距離の近さを目の当たりにしたせいで、夢に影響してしまったのだろう。

どことなくハイデルの押しが強いような気はするが……ああ、俺は無意識に何を考えているんだ。

『兄貴、する…?』
『はっ? バカこっち来んなっ』
『そんなこと言って……顔は嫌がってないけど』
『うるせー! それとこれとは別だッ』
『じゃあ嫌ではないんだな? してもいい? 一回だけ…』

俺は、俺は、一体なんという破廉恥極まりない想像をしてしまっているんだ……最低だ……!!

早く起きなければという思念を全身に巡らせ、久々に本気を出して術を解くことに専念した。
すると徐々に体の強張りがとけていく。

「…………ぐっ……」

「……っあ……は、あ……はぁっ」

俺はやっとのことでぱちりと目を開けた。
すると寝そべったままの自分を、ハイデルとセラウェがじっと見下ろしていた。

「……あ! ……ええとーー」
「おー、ローエン。ちゃんと起きたか。良かった〜。……ん? お前なんか顔赤いぞ。どうした?」

しゃがみこんだ同僚の魔導師に、不思議そうに瞳を覗き込まれる。
二人ともまるっきり普通の態度だ。なぜか俺の全身が熱くなった。

「いや……何でも、ないんだ」
「そうか? 茹でダコみたいに真っ赤になってるけど。実験の影響かな。つーかどうだったんだよ、なんか変わったことあった?」
「え……」

言えない。兄弟の淫らな妄想を作り出してしまった事など。自他問わず実験・分析マニアの俺でも、さすがに口に出来ない。

「おい結界師。怪しいな、お前。まさか人に言えないような体験をしたんじゃないだろうな、しかも兄貴に関わる何らかのことで」
「ち、違うぞハイデル。そんな事はけっしてーー」

俺はごまかすように慌てて立ち上がった。術の余韻が残ってるせいか、若干足がふらつき、まだ頭がぼうっとしている。

心配げに「大丈夫かローエン、まだ休んどけよ」と言うセラウェに礼を述べ、その場を立ち去ろうとした。すると急に膝の力がガクッと抜け、彼に覆い被さるようにもたれかかってしまったーーところを強引にハイデルに背中を掴まれ、引っ張られた。

「……く、あ!」
「おい貴様、なんのつもりだ。そんな不自然な興奮状態で兄貴に近づくな」
「ちょ、クレッド、離してやれよ。なんか疲れてんじゃねえか、ローエンのやつ。どんどん赤くなってメガネも曇ってきてるぞ、まじで大丈夫かよ?」
「ああ、平気だ……あんまり見ないでくれ、二人とも……」

全身に広がる熱を感じながら、まじまじと眺めてくる兄弟に懇願した。
そういえば俺は、普段は冷静であまり動じない性格なのに、なぜか刺激に弱い体質なのだ。
前回とは違い、意識が戻っても感覚過敏な状態が持続している。

よく分からないが、一人になりたい。兄弟と面を合わせるのが異様に恥ずかしい。
そう思ったら、身体の力がするっと抜けてしまった。

「おい……! ……なんだこいつは……兄貴どうするんだ、このおかしい奴」
「あー、気失ってるな。クレッド、医務室に運んでやってくれ。頼む」
「ええ……しょうがないな。俺は兄貴以外の人間を抱き上げたくなんかないんだが…」

何の力も出ないが、耳にはまだ二人の会話が届いていた。ハイデルは渋々俺の体を持ち上げ、軽々と肩に担いだ。

「じゃあ兄貴、さっきの話の続きなんだけどーー」
「なんだよ続きって。おまえしつこいぞ、仕事しろよ!」
「今してるだろ。……出来たら、実験に付き合ったご褒美が欲しいな」
「お前が勝手についてきたんだろ! まぁ助かったけどっ。……何がいいんだよ!」
「さっき教えただろ? それがいいな」
「はぁ……。一回だけだからなっ」

…………。
やはりセラウェの制限魔法は恐ろしく稀有な術式だ。
俺は、いつになったらこの不埒な夢の中から抜け出せるんだ……!?



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