▼ 85 だらしない弟 T
休日の朝、俺はいつもと違う場所で目覚めた。ふかふかの布団に顔を埋めるクレッドを微笑ましく眺める。
きっと仕事の疲れが溜まってるのだろうと、弟を起こさずに先にベッドを抜け出た俺は、居間へと向かった。
ここは騎士団領内からやや離れたとこにある、弟の自宅だ。
閑静な住宅地にある三階建の一軒家で、普段よりも更に「二人で暮らしてる感」が募ってくる。
「ふふ……。今日は俺が朝ごはん作るかぁ。あいつゆで卵好きだからたくさん茹でよっと」
朝から妙なやる気を見せ、持参したエプロンをかけてちゃっちゃっと取り掛かる。
珈琲も入れて、食卓も準備OKだというのに、なぜか待っても待っても奴が起きてこない。
おかしい。
これほど寝坊することなんて、普段の弟ならばありえないはずだ。
しびれを切らし腰を持ち上げた時、廊下に人影が現れた。
ぬっと出てきた長身の男が、大あくびをしながらTシャツの中に手を入れお腹をかいている。
「えっ? クレッド…? おはよう」
「……あー……おはよう、兄貴……」
ものすごいゆっくりとした動きで食卓に近づいてきて、覆い被さるように上から抱きしめてきた。
「ぐっ、重いぞお前、どうした眠いのかよ」
「うん……眠い」
構うことなく体重をかけられ、俺はうなりながら一生懸命奴を立たせようとする。なんとか真正面から向き合った瞬間、唖然とした。
クレッドの頭はボサボサだし、かろうじて上は着てるものの、下は完全に下着の短パンのままだった。
「珍しいな、お前家族の前でもいつも身なりとか凄い気にすんのに……まあいいけど。顔洗ったか?」
「まだ。めんどくさい……」
「はぁ? ちゃんと準備してこいよっ」
俺はぐだくだしている弟を洗面所に押しやった。
奴はのろのろと顔を洗った後、だるそうに壁に寄りかかり歯を磨いている。
なんか変だ。なんというか……あの何でもきっちり完璧にこなすクレッドの姿が、今日は消え失せている。
はっきり言って、動作も遅いしものすごいだらしない。まるで普段の俺と入れ替わってしまったようだ。
気を取り直して二人で朝食を取る。
「美味しいか? 今日はお前の好きなもん作ったぞ」
「うん。美味しい。ありがとう兄貴、愛してる」
「……はっ?」
何でもない時にそんな事を言われたことが無いため、俺は固まってしまった。
しかし弟はぼけっとした表情で俺の顔を覗き込んできて、一瞬だけニコリと笑ったのだった。
「な、何言ってんだ、嬉しいけど…っ。俺も、愛……っていうか、お前なんで今日は俺のすぐ隣に座ってんだ? なんか変じゃねえ!?」
照れ隠しに大声でわめいてしまう。
普段は真向かいに座るのに、やたら近くて落ち着かない。テーブル広いのに。
「近いほうが安心するし。だめ?」
「……駄目じゃねーけど。まぁいいよ別に…」
そわそわ落ち着かなくなってしまったが、なんとかご飯の時間を終えた。
午前が過ぎ、俺は久しぶりに訪れたこの家の掃除や、洗濯物などをしていた。
いつもなら俺にまとわりついたり、なぜかすぐ側に気配を感じるはずの弟が、いない。
不思議に思い居間を通り過ぎると、奴はソファの上に寝そべり、ちょうどゴロっと寝返りを打っていた。
「あー…だる…」
しかもまた大きなあくびをし、しまりの無い表情を晒している。
なんだ。そんな気怠げな弟の姿なんて、見たことない。
「おいクレッド。大丈夫か? お前また熱とか出してんじゃ……」
「……あ。兄貴。洗濯ものおわった? じゃあ一緒にごろごろしよう」
自分の額に当たった俺の手をそっと握り、背中を抱き寄せてきた。「うわっ」と小さく声を上げた俺を、そのままソファに引きずり込む。
「……どうしたんだお前、ごろごろって。俺じゃないんだから」
「たまにはいいだろ?」
「でもお前、週末は天気良いから、どっか行こうとか言ってなかったか?」
「ああ、……そうだったか。兄貴どっか行きたい…?」
がっしり抱きしめられ、肩に顔を埋められたままだと、答えづらい。
それにこいつ、明らかに家から出たくないみたいな声出してるし。
「ううん。俺こうやってお前と過ごすのも好きだから…」
頭をぽんと触りながら正直に言う。どっちかというと俺のほうがインドアだしな。
それにクレッドが言うように、たまにはこの完璧人間だって、だらけたい時があるのだろうーーそう考えた時だった。
あれ。
そういや昔もこんな事があったような気がする。
実家に暮らしていた時だ。なぜか年に一度だけ、クレッドは周りが普段との差にびっくりする程、無気力になる時があった。
遅く起きてきて、ぼうっと身支度も整えないまま、とくに何をするでもなく居間でダラけていたっけ。
「あーそうか。今日がその日なんだな。お前変わってないなぁ」
「……なにが? 兄貴」
顔も起こさずのんきに尋ねられ、なんだか子供みたいだと急に可愛く思えてきた。
「いや、じゃあ今日は休めよクレッド。お前いつも働きすぎだし」
背中を撫でなから、ふと邪な考えが思い浮かぶ。
今こいつはまったく、何のやる気もない状態だ。
そんな弟に、この質問をしてみたら、どうなるんだろう。という魔導師としてなのか何なのかもはや分からない、俺の好奇心が疼き出す。
「なあ……外出ないんなら、さぁ……俺と一緒に……ベッド行く?」
怪しげな雰囲気を醸し出し、精一杯男らしく誘い文句を吐き出した。
まあ冗談のつもりだけど、結構勇気出したぞコレ。
でも今、こいつやる気ないんだもんな。元気もないしーー
「行く」
しかしクレッドはすぐさま顔をバッと上げて、真剣な眼差しで返事をした。
は? お前そっちのやる気はあんのかよッ。
「いや冗談だから。こんな真っ昼間から……我慢しろよ!」
「我慢ってなんだ。兄貴が誘ったんだろう。俺は一度聞いた言葉は忘れないぞ」
「何急に滑舌よくして活力も戻ってんだよ!」
急に迫りだした弟に恐れをなしたその時ーーブルルルッと玄関からベルが鳴り響いた。
え。こんなタイミングで、誰か来たらしい。
クレッドがのっそりと上体を起こす。
「……誰だ。面倒くせえな……」
低い声で眉間に皺を寄せ、言葉遣いもちょっと荒くなっている。
どきどきしていると、奴は起き上がり、大きな声で「今行きます」と来客に伝えた。
そのまま玄関先へ向かおうとするので、俺は慌てて止めた。
「ちょ、おい。お前まだ髪ボサボサだし、服もだるついてるぞ、いいのか?」
「へっ? いいよ。大丈夫」
「でもびしっとしたイメージとかさ……そうだ、俺が出ようか」
「兄貴が? いいな、それ……」
なぜかクレッドが頬を赤く染めて、照れだした。
結局ここで待ってるように言われたが、心配になった俺はこっそり後をつけた。なんか前にもこんな事あったような…。
しかし以前とは違い、玄関扉の外に現れたのは少し変わった訪問客だった。
「どうもこんにちは、ハイデルさん。あらあら、今日はいつもと雰囲気が違うわねえ。お休みのところごめんなさいねえ」
「お隣のホルツさん、こんにちは。大丈夫ですよ。お元気そうで何よりです」
老婦人らしき女性に、弟が普通に受け応えしていてホッとする。
「私は元気なんだけど、実は主人が最近入院しちゃって。それはまあいいんですけどね、庭先でちょっとした問題が起きてしまったのよ。お時間があれば、ハイデルさんのお力を貸して頂けないかと思ってねえ。力持ちの騎士さんなら何とかなるんじゃないかと思って…」
「……なるほど、そうですか。分かりました。僕もなにか手伝えるかもしれません。では五分後にお伺いしますね」
そう告げて、礼を述べる老婦人と別れ、扉がパタンと閉められた。
途端にクレッドは「はぁ~」とため息をつき、すぐに「ああ……ツイてないな」と呟いて頭を掻いた。
普段は騎士として品行方正(?)で正義感の強い弟の、率直な反応が新鮮に映る。
後ろから見ていた俺はクレッドに駆け寄った。
「なあ大丈夫かよ。手伝いに行くんだよな。俺も行こうか?」
「……えっ。兄貴も? いいのか…? 嬉しいな」
にこっと微笑み、また抱きしめられる。
なんだか珍しく素直に頼られてる気がして、こそばゆく感じた。
「じゃあ行こうぜ。とにかく服ちゃんとしろよ。あと髪もセットしてやるから」
「うん。ありがとう、兄貴」
まだ俺を抱擁したまま立っている弟の手を引き、俺も隣家に向かう準備を始めた。
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