▼ 61 筋トレしてみる
自宅での風呂上がり。体を拭いてパンツを履いた後、いつもは鏡なんか見ないのに何気なく視線をやった。
……ん? あれ?
映された自分の上半身を見て、なんだか脇腹が以前よりぷよっとしている気がした。
急いで横向きに立ってみると、下腹が若干ぽこっと出ていた。
「う、そ……なにこれ……」
ちょっと待てよ、俺もしかして太ったんじゃないか。
前まではそんな事出来なかったのに、指で簡単に肉が掴めた。無情な現実を突きつけられ愕然とする。
「ああああ゛っ!!」
「マスター開けますよ〜。もう、お風呂から出たなら早く来て下さいよ。ご飯冷めちゃいますってーー」
勝手に洗面所のドアを開けてきた弟子のオズとの間に、しばしの気まずい沈黙が流れた。
だがすぐにオズの童顔が不気味な薄笑いを浮かべた。
「何やってんですか、お肉つまんだりして。……てゆうかマスター、なんかちょっと太りました?」
悪気無く放たれた言葉に俺は目をひん剥いた。
どうしてそういう傷つくことはっきり言うの? この弟子。
「うっうっ、うっせえ! 別に太ってねえし! ちょっと気抜いちゃっただけだからッ」
「まあまあ、隠さなくても。ダイエットすればいいことじゃないですか。あ、それともマスターの場合慢性的な運動不足だから、筋トレとかの方がいいかなぁ」
微笑みながら上から目線でアドバイスしてくる弟子に、物凄くイラッとした。
大股で足音を鳴らし、オズの前に立つ。すかさず奴のTシャツをぺろっとめくり、腹をチェックした。「ひゃあぁっ」と変な声が聞こえたが気にしない。
「なにすんですか! 自分の変態趣味に俺を巻き込まないでくださいよっセクハラですよ!」
「……え。お前結構、腹……割れてない? なんで……?」
震える声で尋ねると、ぼわっと赤面していたオズはいそいそと服を直し、すぐにまた小憎たらしい笑みを浮かべた。
「そりゃあ俺はマスターと違って運動好きですから。こっそり鍛えてますし。そうそう、教会入って騎士さんとか周りを見ているうちに、肉体派の魔術師もいいかなぁって思い始めたんですよね。あ、お師匠様とか♪」
なに、なになに?
今日のこいつは太って傷心の俺をさらに痛めつける気か。ひどすぎる。何故よりにもよって師匠が出てくんだよ。
「へえ……お前鍛えてんだ。初耳だわ。この……裏切り者! お前だけは俺と同じ普通体型グループだと思ってたのにッ」
「なんですかその不名誉な組分けは。……はあ。体型が気になるなら、自分も鍛えたらどうですか? 良い場所紹介しますから。そこで頑張ればマスターもいつしかムキムキですよっ」
目をキラキラさせて弟子が俺に迫ってくる。
良い場所って……なんだそれ。
怪しく思いながらも、このぷよついた腹をなんとかしないといけない、じゃなきゃクレッドに嫌われちゃうかもーー
すでにそんな悩みを、俺は頭の中で抱え始めていた。
*
翌日になり、さっそく俺は弟子の情報をもとにある場所へ向かった。
騎士団本部のすぐ隣の建物内に存在する、騎士専用のトレーニングルームだ。剣術の訓練場とは違い、体力や筋力を鍛えることが目的の場である。
ちなみに今日の服装はオズが用意したもので、タイトなTシャツとハーフパンツ、首にはタオルという完璧な出で立ちだった。
分厚い扉を抜けると、だだっ広い空間に様々な訓練設備が備えられており、ほぼ半裸の騎士達が汗だらだらで唸り声を上げながらトレーニングしていた。
えっ。俺もしかして、完全に場違い?
若干焦ったが、いやオズだってここ使わせてもらってんだから大丈夫だろ、と落ち着きを取り戻し、何人かの視線を感じつつも邪魔にならないように隅を陣取った。
マットレスをずるずると持ってきて、弟子から教えてもらった筋トレ法でも実践するか、そう決意を固めた時、男達の話し声が遠くから聞こえてきた。
「団長。今日は団長自ら若い騎士達に指導して下さり、ありがとうございます! グレモリー隊長の訓練からこぼれ落ちた不甲斐ない団員達ですが、気合が入り直りました! なあ、お前たち!」
「「はい!」」
「気にするな。これも俺の仕事のうちだ。グレモリーの訓練は殺人的だからな、無理に付き合うことはない。トレーニングにおいて重要なのは、個々の体力や技術に見合ったメニューを継続して行い、その中で徐々に負荷をかけていくことだ。そうすることによりーー」
耳慣れた声が発するもっともらしい文言に、大きく注意を引かれる。
金髪長身で逞しい体の線がはっきりと分かるトレーニング服姿の騎士が、部下達の前で真面目に語っていた。おい明らかに俺の弟なんだが。
呆然と指導ぶりを見ていると、突然クレッドが振り向いた。俺は慌てて顔を下げ、くるりと背を向けた。
やべえ、こんなとこ見つかったらシャレになんねえーー。
「団長、次のメニューはどう致しますか」
「ああ、スクワット20回5セットだ。ちょっと別件を思い出した、続きは頼んだぞ」
「ハッ! お任せください!」
まずい、聞き覚えのある足音が近づいてくる。早く逃げなきゃ…!
そう思ったときにはもう遅く、マットの上にしゃがんでいた俺の背後には弟がいた。
「何してるんだ兄貴、こんなところで。そんなかわいい格好して」
「……えっ。いや。ちょっと筋トレ…」
「筋トレ? 兄貴が?」
恐る恐る顔を上げると、膝をついて座るクレッドが、訝しげに首を捻った。
絶対に信じていない。それもそのはずだ、こいつは俺が大の運動嫌いって知ってるし。でも太ったことをバレるわけにはいかない。
「そ、そうそう。オズにここ教えてもらってさ。せっかくただでジム使えるから良いかなぁと思って」
「……そうか。でも俺は、兄貴の柔らかい体が好きなんだけどな……硬くなったら困るんだが」
はい?
公共の場で何を言い出すんだこの野郎は。
俺は慌てて「バカか変なこと言うなっ」と弟の口を手で塞いだ。すると奴の目元がぽっと赤く染まった。
「でも兄貴が本気なら、仕方がないな。……なぁ、俺が見ていてもいいか? 頑張りすぎて体壊したりなんかしたら、心配だ」
クレッドが真剣な眼差しで申し出てくる。予想外の事態になってしまったが、心配性のしつこい弟をたぶんかわす事は出来ないだろうと俺は早々に諦め、力なく頷いた。
「じゃあ、よろしく頼む……。でも俺あんまりハードなの無理。初心者だし」
「もちろんだ。兄貴専用のメニューを考えるから、俺に任せて」
にこりと微笑む弟に、単純な俺はつられて笑顔を浮かべたのだった。
*
俺はこいつを侮っていた。
クレッドは基本的に俺に甘い。いつも優しいし、一部の行動を除き異常なまでに甘やかしてくる男ーーのはずだと思ってたんだが。
「はあっはあっうああっ」
「兄貴。腹筋あと半分の150回だ、頑張って」
「む、むり、お腹が壊れるぅっ」
マットの上で弟の両手に足首を固定され、腹がちぎれるほどに痛めつける。さすが団長ともいうべきか、こいつ身内にも容赦ない。
「よし、完了だ。次は足腰を鍛える兄貴特別のスクワット10回を3セットな。その次は背筋用のブリッジ、腕立ても必要だ。まずは50回から始めよう」
どんどんメニューを追加され、頭も目もぐるぐるしてきた。
しかも全部において弟の軍隊並みの厳しいカウントがつきまとってくる。
なんでこんなことに……俺ただのダイエット目的だったのに……。
「はぁ、はぁ、クレッド、助けて、もうムリ」
「大丈夫だ兄貴、ラストスパートあと10回だけ、頑張れ!」
ふざけんなこの野郎そりゃ見てる分には楽だろう、脳内で恨みつらみを吐きながら死にものぐるいで行った。
足はぷるぷる震えるしブリッジでは卑猥なポーズを取らされるし、腕立ては五回しか出来なかった。
しかしクレッドの猛攻は止まらない。
「じゃあ最後に全ての筋トレ内容をカバーする懸垂で締めよう。いいか、俺が手本見せるから……あれ、兄貴、大丈夫か?」
「ちょっと、俺、休憩させて。お前ハードすぎ……ついてけない」
弟は目を見開き、すぐさま俺のそばに跪いた。飲み物を手にして、背中を抱きかかえ、心配げな顔で俺の口元に持ってくる。
こくこく喉の乾きを癒やしながら、ふと周りを見るともう誰もいなかった。
「っぷはぁっ」
「兄貴、ごめん。俺もしかして本気でやりすぎたか?」
「……やりすきだよッ体壊れちゃうよッ。俺お前が思ってるより全然体力ないんだからな!」
さっきまで鬼軍曹みたいだった弟の表情が柔らかく変化し、にこりと微笑んだ。
そして突然座ったまま俺を抱きしめてきた。
「そうだよな。じゃあもうこんなこと止めよう。筋トレなんか必要ないだろ? 兄貴には」
汗で張り付いた髪を撫でられ、おでこにそっと奴の唇が触れた。
ん? なんかこいつやけにあっさりしてないか。まさか俺に諦めさせる為に無茶やらせたのか?
疑り深い目で見やるが、弟はさっと目を逸した。
確かにもう逃げ出したいが、俺には止められない理由があるのだ。
「いや、やっぱもうちょっとやる。一度決めたことだからな。俺だって男だ、簡単に諦めたりしねえよ……」
「……そんな……兄貴!」
ふらふらと立ち上がった俺は、心配するクレッドをよそに、それからも悲痛な叫びをあげ続け、激しい筋トレにより己の体に鞭打ち続けるのだった。
*
トレーニングを始めて一週間が経った。
弟の監修のもと、筋力だけでなく走り込みや食事制限も行い、自分でも驚くほど肉体改造にのめり込んでいった。
そしてある日、俺は自身の体に劇的な変化を認めることになる。
「……あ、あーーっ!!」
「え、なに兄貴。どうしたんだいきなり」
「見てみて、クレッド! 俺の腹だよ、薄っすら線入ってねえ!?」
弟の部屋で起床した後、ふとベッドの上で寝間着をめくり気がついた。
そばに立っていたクレッドが身を屈め、真剣な顔が俺の腹にぐっと近づく。うわそんな至近距離でじろじろ眺められたら恥ずかしいんだが。
「うん……んん? そう、だな……」
顎をさすりながら言葉を選んでいる様子だ。そこは大げさに褒めてくれてもいいんじゃないか、相変わらず身内にも厳しい奴だ。
「あーよかった。これでもうお腹気にしなくてもいいや…」
「……兄貴。やっぱりそんなこと心配してたのか?」
安堵から何気なく出てしまった俺の呟きに、クレッドが顔を覗き込んできた。
「や、やっぱりってなんだ。お前もしかして、気がついてたのか?」
「うん。当たり前だろ。俺は兄貴の体のことは熟知している。寸分の変化も見逃さないぞ。……まぁ兄貴が焦りだしたのはわりと後だったが」
真面目な顔で語る弟を前に、やたらと羞恥が募ってきた俺は、奴の胸を思いきり掴んだ。
「お前……っ、じゃあ教えろよ! 太ったままなんて恥ずかしいだろ!」
「全然太ってないよ、そんなの誤差の範囲だ。兄貴はすぐに体型戻るしな。それに俺は柔らかいのが好きって言っただろ?」
いけしゃあしゃあと述べる弟を前に脱力する。
じゃあ俺は何のために……。
「俺、お前に幻滅されたくなくて、鍛えようと思ってたんだけど」
「え。そうなのか? そんなかわいいこと考えてたのか……幻滅なんてするわけないのに。自然な兄貴が一番だよ」
ベッドの下に膝をついて俺の手を握り、弟は顔を赤らめさせた。
そう言われるとこちらも照れてしまう。
でもまぁ別に無駄じゃないよな、あのままぷよぷよになってたら大変だし。
「あ、ありがと。とにかく付き合ってくれて助かったよ、クレッド」
自分らしくない一連の頑張りを思い出し、微妙に気恥ずかしい思いをしながら、俺は両腕を広げた。
間に入ってきた弟を珍しく自分が抱きしめる形で、ほっと一息つく。
そうだな。正直もうやりたくはないが、そんなに悪い経験でもなかったかもしれない。こいつの優しい?気持ちも知れたしな。
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