▼ 41 純粋だった頃
「今日からお世話になります、師匠!」
精一杯体を折り曲げてお辞儀をした魔術師見習いの俺は、まったく歓迎する様子のない男の仏頂面にも、けっして臆することはなかった。
偉大な妖術師から手とり足とり教わる日々が始まるのだ。興奮しないわけがない。
対して玄関先で立ちはだかる師匠は、呆れたように俺の全身に目を配った。
「なんでお前そんなボロボロなんだ? きったねえな、顔にも泥ついてんぞ」
「すみません。住所聞いておきながら師匠の家が全然分からなくて、見つけるのに三日もかかってしまいました。その間野宿してほとんど飲まず食わずで……」
「……よく生きてたな、お前。弱そうに見えて結構しぶといのか?」
ぶつぶつ言いながら踵を返す師匠の後を追う。
天井の高い木造の大きな一軒家は、当時一人で住むには広すぎだと思ったが、師匠の場合は研究室を何部屋も所持しており、それぞれが特殊結界の鍵つきで厳重に管理されてる空間だった。
師匠は突然振り向いてニヤリと笑った。
「なぁ、長旅で腹減ってんだろ。飯作れ。あと風呂の準備もな。それと特別にお前にも一部屋やるから、選んでいいぞ」
純朴少年だった俺は師匠の優しさに舞い上がり、すぐに疲労が吹っ飛んだかのように元気よく返事をした。
荷物が詰まったリュックを部屋の中に下ろすと、腕を組み寄りかかる師匠が睨みつけてきた。
「おい。なんで俺の部屋のすぐ隣を陣取ってんだ、てめえ。中々図々しい奴だな」
「え、駄目ですか? でも師匠の言いつけにいつでも迅速に対応出来るようにしたいんです!」
目をきらきらさせながら迫ると、師匠はぎょっとした顔で後ずさった。
気まずそうに目を逸し俺の頭を軽々と掴んで押しやり、「変な野郎」と呟いてどっか行ってしまった。
その日から俺の本当の弟子(奴隷)生活が始まった。
師匠の好みを把握し一日三食献立を考えるのは当然ながら、掃除洗濯、特殊空間に作られたミニ農地で素材の栽培や採取をした。
他にも人体実験に付き合うのはもちろんのこと、なぜか師匠の入浴中にも呼び出されることが多々あった。
「セラウェ。背中流せ」
「はい!」
お湯がぬるいだの熱すぎるだの、口々に文句を言いながら、薄着をした俺に広い背中を洗わせる。
師匠は自らの裸体を晒すことにも何の羞恥もなく、俺はちらと覗いた男の象徴に目を奪われ、この人はあらゆる面で男の中の男なのだと、尊敬の念を浮かべたものだった。
今思えばパワハラかセクハラかといった類のものだが、師匠は弟子を自らの支配下におくことに徹底していたのだろう。
さながら軍隊でまず兵のプライドを粉々にへし折り、従うことに少しも躊躇を持たせなくするかのように。
だがそんな事をしなくても、俺はすでに師匠に惚れ込んでいた。欠点と思える部分もなぜか脳内変換して美点にすりかえてしまうほど、まさに盲目状態だった。
気がつくと俺は家事のエキスパートとなっていた。そしてふと思い返す。何も魔術を教えてもらってない。
よく言うように背中を見て学べとか、欲しい技術は血眼になって盗めとか、そういうものなのかとぼんやり考えていた。
けれど師匠が自分の背を空けるなんて隙は見せないし、焦りが出てきた俺はやはり直談判するしかなくなった。
「師匠、あの……一緒に暮らし始めてもう数ヶ月経ちますし、そろそろ修行のほうをお願いしたいんですけど……俺このままじゃ、師匠の奥さんみたいで……」
「あ? 気色のわりいこと言うな、俺は結婚なんか死んでもごめんだ」
胸ぐらを掴まれ体が簡単に持ち上がり、足をぷらぷらさせた。
そのわりに甲斐甲斐しく世話させてるのはなぜだろうと考えていると、師匠は咳払いと同時に俺をすとんと落とした。
「つうかお前分かってねえな、俺のそばにいるだけで色んな耐性ついてんだよ。実際役に立ちそうな術式はあらかた埋め込んだしな」
「え、術式? そういえば、俺で色々実験してましたけど、どんなものなんですか。詳しく教えてーー」
「馬鹿か。自分で解明しろそんなもん。詠唱は覚えてる……わけねえか」
儀式での呪文を思い返すが、おぼろげだ。知らない言語だったのだ。いくら耳で覚えても、理解してないと意味がない。
師匠は小馬鹿にした顔で鼻を鳴らした。
「……修業か。わざわざ苦しみたいっつうなら、課題を与えてやるよ。まあ運動オンチのお前に俺用の鍛錬こなせなんて無理なことは言わねえから、安心しろ」
そう言って地下の書庫に連れてこられた。
本棚の一角を指し、何度も内容を反復し読み込めと言われる。
ずらりと並ぶのは多言語で書かれた分厚い指南書だ。膨大なインプットを要する作業に、目眩がしてくる。
だが師匠は俺が異常なまでの本の虫ということを、この時まだ知らなかった。
「分かりました。頑張ります!」
「ふん。音を上げたら弟子はクビだぞ。まぁ精々やってみろ。あー、だが炊事は最優先にしろよな。お前の飯はかなり美味い。師弟解消しても飯炊き係ぐらいにはしてやるよ」
えっ。
言ってることはシビアだし魔術に全然関係ないのに、師匠崇拝者だった俺は褒められて単純に嬉しかった。
だがもちろん弟子のままでいたい。固い決意を胸に刻んだ。
「はぁはぁ、はぁはぁ、……出来た、終わったぞ……!」
日々の仕事をこなしながら、一週間かけて指定された棚を全部読破した。
その時はすでに深夜になっており、書庫を抜け出しすぐに成果を伝えたかった俺は師匠を探したが、家中もぬけの殻だった。
出かけているのか。いつもは偉そうにどこどこへ行くと宣言するのに、何も言わずに外出するのは珍しいと思い、そのまま夜食を作って起きて待っていた。
もうすぐ夜明けという時分に、ようやく師匠は帰宅した。
静かに開いた扉の前で待ち構えていると、師匠は稀にみるほど驚愕した表情で俺を見下ろした。
「うわッなんだお前、まだ起きてたのかよ」
「お帰りなさい、師匠! ……あれ、髪が濡れてる。石鹸の匂いもするし……外でお風呂入ったんですか? どうして?」
くんくん鼻を体に近づけると、頭を掴まれてしまった。悲鳴をあげる俺に大きく舌打ちをして引き離される。
「馬鹿なのかお前は……どんだけ純粋なんだ」
「へ? 俺せっかく新しいお湯張ったんですけど。あ、でもお腹空いてませんか、夜食に作ったものあるんです」
そういうことが時折起こったにも関わらず、うぶだった俺は師匠が外で何をしていたのか考えつきもしなかった。
師匠は若干狼狽えた様子で自分の金髪をわしゃわしゃと掻き回した。
「飯は食う。つうかセラウェ、本はどの程度進んだ。そろそろ終わってもいいんじゃねえか。……はっ、やっぱお前には無理かーー」
「全部読みました師匠! もう完璧ですよ!」
興奮状態でしがみついた俺は、訝しんで全く信じてない様子の師匠の前で、嬉々として詠唱を始めようとした。
師匠ほどの成果はあげられないとは思ったが、辺りが瞬く間に霧のような紫色の光粒に包まれる。
俺よりも先に唖然とした師匠が、突然打ち消しの呪文を唱えかぶせてきた。
そして再び俺に激怒して凄んでくる。
「てめえいきなり詠唱してんじゃねえ! 危ねえだろうが!」
「えっ。うまくいったんですか? うそ、嬉しいなぁ! あ、すみません、もう気をつけますから」
自分の魔法の成果が出たのが嬉しくはしゃぐ俺に、呆れた目が向けられる。
「……まあいい。体は使えねえが、頭はそんな悪くないみてえだな。しょうがねえ、今度から俺が直々に教えてやるよ」
ようやく師匠から本当の訓練に付き合ってもらうお許しが出て、俺はさらに飛び上がった。
弟子として、やっとスタートラインに立てたと思ったのだ。
それからまた数ヶ月ほど経った頃、自分自身に変化が現れた。
師匠は俺のレベルに合わせて所有する魔術書を開放し、暇なときにぐちぐち小言を言いながら指導をしてくれた。
まだこの男を崇拝していた俺に大きな文句はなかった。
しかしとにかく人使いが荒く、段々要求する度合いが強くなってくる。
少しでも反論しようものなら、「お前は俺の弟子だよな? 師の意向に逆らう気か」と脅され、俺はめっそうもないと口を閉ざした。
師匠に嫌われたくない、役に立つと思われたい。
そう思っているうちは自分の成長もいつか途絶えてしまうと、今なら分かるのだが、少年だった俺は必死に従順な日々を過ごしていた。
ある日、転機が訪れる。師匠の知り合いという一人の男が家を訪れたのだ。
短めの黒髪で怪しげなスーツに身を包むその青年は、俺の姿を見た途端驚きに顔を歪めた。
「よおメルエアデ。こいつはなんだ、とうとうガキにまで手を出したのか。しかも男って」
「……殺すぞ。こいつは俺の弟子だ。一応な」
弟子と聞いて男は爆笑していたが、俺は内心むっとしながら師匠と親しげなその知人に挨拶をした。
軽薄そうな顔にじろじろ見られて負けじと下から見つめ返す。間近で大きな魔力を感じることから、魔術を扱う同種の人間なのだと分かった。
「君、外見はぼうっとして平凡だけど、雰囲気可愛いね。きっと未経験だろう」
「……はい?」
「俺ね、副業で娼館をやってるんだ。キレイなお姉さんと良い経験がしたくなったら、特別に安くしてーーぐあぁぁッ!」
俺に迫りわけの分からない事を喋りだした男の首根っこが、師匠のぐわっと開かれた大きな手に鷲掴みにされた。
怒りの形相で見据え、辺りがびりりと殺気立つ。魔術と関係ないとこで俺は師匠から初めて感じる気迫を見せつけられ身震いした。
「こいつにそういう話すんなって言ったよな? てめえのちっちぇえ耳は飾りみてえだ、意味ねえから取っちまおうか?」
「や、やめろって痛え! 冗談に決まってんだろーがッ」
耳を引っ張られはあはあ涙を浮かべる男を見て、一瞬ぷっと笑ってしまった俺はわりと性格の悪いガキだったと思う。
普段暴言を浴びせる師匠もそういう色気づいた話の一切から、なぜか俺を遠ざけた。
俺はずっと純粋な少年のイメージのままだったのか、成長して独り立ちしてからもそれが変わることはなかった。
だからこそ師匠は俺と弟との関係を知った時、あれほどまでに面食らい、動揺したのかもしれない。
男の用事はもちろん世間話だけじゃなかった。
「いてて……くそ、馬鹿力め。せっかく頼まれた調査してきたやったのによ。ほら、依頼の品だ」
「遅えんだよ、ったくいつも無駄話しやがって。こっちは高額な金払ってるっつうのに」
差し出された書類をひったくった師匠が、急に真面目な顔で考え込む。
俺が後ろから覗き込むと、横っ面をぐいと押しやられた。
「師匠、それなんですか。何かの……地図?」
「ああ? そうだよ。こいつに遺跡のルート開拓を頼んでおいたんだ。まあ天才の俺には本当はこんなもん必要ねえが、今回はお前みたいな足手まといも一緒だ。最短時間でいかねえと目当てのお宝が遠ざかっちまう」
なぜか上機嫌で述べる師匠に一瞬ぽかんとする。
だがすぐに俺もはっとなり、目を輝かせた。
遺跡、お宝ーー。
俺も師匠の冒険に同行していいんだ!
「よし。じゃあ早速明日から出発するか。準備しとけよ、セラウェ」
「はい、任せてください!」
好奇心を顕にする俺たち師弟に対し、知人の男は「あーあ。一緒に帰って来られればいいけどね」などと不穏な言葉を言い残して立ち去った。
今思えば予言めいて聞こえるそれは、完全に的を射たものというわけではなかった。
しかし翌日には実際に、俺から師匠への崇拝がさっぱり消え去ってしまう事件が起こったのだった。
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