▼ 8 ミハイル
あれから僕は週一回クローデと車で出かけ、夜の草原を駆け回れるようになった。家にいるのも楽しいけれど、焚き火の前で二人で過ごす時間はまた格別なものだった。
そんなある朝、大変なことが起きる。いつものようにクローデを見送った後、玄関わきに彼の荷物が置いてあるのを発見した。
きっと忘れちゃったんだ。最近のクローデは、なぜか珍しいドジをするみたいなことが多かった。
それは狩り道具の装備で、大切なものだと判断した僕は急いでニット帽をかぶり、尻尾が隠れる冬のコートも羽織った。
何度か使ってるし、人の気配もないから大丈夫だろうと油断して、裏口のはしごを使い駐車場に向かった。
でも、クローデの車は発進してしまっていて、あと一歩間に合わなかった。
「ああ〜。どうしよう……行っちゃった」
うなだれると、後ろから何の気配もなしに「どうしたの?」と声をかけられた。
仰天して振り向いたら、金髪のすらっとした人間の男が穏やかな顔で立っていた。
「こんにちは。ボク、こんなところで何してるの? 迷子?」
「……う、ううん。違うよ。えっと……お散歩中」
昼のドラマの人物の対応を真似し、心臓がドクドクいいながら去ろうとした。
でもその青年は上着のポケットに両手を入れて話しかけてきた。クローデは着ていないけど、それは部屋にあるのと同じハンターの制服だと気づいた。
「君、名前なんて言うの? 俺はミハイルっていうんだ」
「そうなんだ。僕はオルヴィだよ」
人間のふりをしてつい自己紹介をしてしまった。彼は笑みを浮かべ「へえ。素敵な名前だね」と言う。嬉しくなった僕は重ねてヘマをした。
「ありがとう。クローデがつけてくれたんだ。僕、気にいってるんだ」
そう返して、青年の顔色が変わったのを知り、しまったと思う。
だが彼の緑色の瞳は、穏やかに変化し僕を眺めていた。
「クローデか。君、彼と一緒に住んでるんだよね」
「……えっ!? えっと……違うよ、友達なんだ。だから…」
「隠さなくていいよ。誰にも言わないから」
彼は短くウインクをして、片手を出して僕のニット帽に触った。クローデ以外の人間の手にびっくりして身をすくめると、彼は笑って謝り、誰もいない後ろを振り返った。
「ああ……もう行ったほうがいいよ。そこの裏口から。今度は見つからないように気を付けてね」
「……うんっ。ありがとう、……えっと、ミハイル」
彼は片手を振り僕は素早く走り出す。二階まで登ってこっそり振り向くと、後から来た違う人間と喋っていた。相手は金髪の坊主頭で、厳つい体をした怖そうな人だ。
たしか僕が初めてここに来た日に、クローデと喧嘩していた人。
「ふぅ。危なかったぁ」
僕は危機一髪だと胸を撫で下ろしたが、すでに知らない人間に見つかり会話までしてしまい、クローデとの約束を破ってしまうという大変なことをしたのに、まだあまり危機感がなかった。
夜になり、帰宅したクローデにこの話を教えようかと思ったが、なんとなくずるいことを覚えた僕は、秘密にしていた。彼が怒るんじゃないかと考えたからだ。
「クローデ。今日、荷物忘れてたよ。大丈夫だった?」
「ああ。途中で気づいたが、間に合わなかった。平気だ」
彼が僕を手招きするような仕草をしたから、古びたソファの隣に座って、体を寄せた。僕はまたキスしてもらえるかなと思って、時々横を見上げる。
しかし、目が合った黒髪の男の青い瞳は、少し動いたあと、僕の頬へと移動した。
そのまま、ほっぺたにちゅうをされる。
「わあっ。どうしてそこにするの?」
「どうしてって……気分的なもんだ」
素っ気なく言う彼が普段は見ないテレビに向かい、片手はリモコンを取って番組を変え始める。
「ふうん。でもほっぺたもいいね。くすぐったいけど、気持ちいい!」
まるで獣の姿になってじゃれ合うみたいに、嬉しくなった僕はクローデの部屋着にまとわりつく。彼は正面を向いたまま「…そりゃよかった」と呟き、僕の肩を抱き寄せてくれた。
なんとなく、最近気づいたことがある。クローデは時々疲れた様子で家では口数が少なめだけど、僕がカエサゴの獣のときと、人化したときでは、少し態度が違うような気がする。
どっちも優しいのは分かっている。でも最近は、ぎこちないというか、少しだけ様子がおかしい。
なんでだろう。僕は、人間の親愛の証である、キスももっとしたいのにな。
また別の朝。カーテンの隙間からクローデが出かけるのを見たあと、駐車場にあの青年が姿を現した。ミハイルだ。
彼はこちらを見て、手を振ってきた。口元が「おいで」と言っている。手には僕の好きな人間のお菓子、チョコレートまで持っていた。
僕はクローデのことを思い出した。この前のことも言ってないのに、今ミハイルに会いに行ったら、とんでもない約束破りになる。
けれど、親切そうなあの青年に呼ばれると、なぜか無視できなかった。
「おはよう、オルヴィ」
「おはよう。ミハイル。……あの、僕、外出ちゃだめなんだ。クローデとの約束が…」
「うん。分かってるよ。少しだけね」
そう言ってチョコをもらったので、僕はその場ですぐに食べた。美味しくて幸せな気分になる。
「君は、クローデと仲がいいんだね」
「……うんっ。ミハイルも、クローデのこと知ってるんでしょう? 仲間なんだよね」
尋ねると、彼は金髪をさらりと掻き上げて笑った。「ああ。俺は一応ここの寮長だから。たまに一緒に仕事もするけど、腕もよくて頼りになるよ」と教えてくれた。
僕は一気に誇らしくなり、とっても嬉しくなる。
ミハイルはクローデのことについて新しいことも教えてくれた。例えば、彼は普段あまり愛想がなく単独行動を好むが、人のピンチのときは危険を省みず助けてくれること。
とくに一番経験のない者のことをよく見ていて、さりげなくサポートに回ってくれるというのだ。
「感情に乏しい面があるから、誤解は生みやすいけどね。いいハンターだと思うよ」
最後の言葉に僕はうんうんと頷きたくなり、話にのめり込んでいた。
「僕もそう思う! 彼はとってもいいハンターなんだ、僕が一番よく知ってるかもしれない。あとねーー」
初めて知り合った他の人間と、クローデについて話すことが、僕は楽しかった。だからついこんなことまで彼に話してしまっていた。
「クローデは確かにあんまり表情が変わらないときあるけど、でも笑ったらとても素敵なんだよ。僕にキスしてくれるときも、すっごく格好よくて、僕はふわあぁって溶けちゃうんだ。人間ってすごいなぁ、でもクローデだけだよね。あんなにすごいキスするの」
興奮して話すと、同じくチョコを手にしていたミハイルが、ぽろっとそれを落とした。彼の瞳が数回瞬きをする。
「ん? 君たち、キスしてるの?」
「うん。してるよ。好きな人同士はするんでしょう?」
反対に大人に対して質問すると、彼は正面を見て考え始めた。少しだけ、顔が赤くなり、気まずそうな顔つきになっている。
「オルヴィ。君はクローデのことが好きなんだね。……そうか」
僕は当然のごとく「うん!」と返事するけれど、彼はその後どことなくこちらを温かい視線で眺めていた。
「さて、もう行くか。俺も仕事の時間だ。ーーオルヴィ、俺達が会ったことは秘密にしような。俺も君のことは内緒にするから」
「……そうだね、わかったよ。ありがとう、ミハイル」
そう会話して、ひとまず僕は新しい人間の友達と別れることにした。
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