▼ 26 本心
ジオと暮らし始めて、ひと月が経過した。「番になりたい」と言われ警戒していたが、彼は僕に夜くっついてくること以外、何もしてこなかった。
この壮年の雄の本意を知ることは難しいと思い、僕は自分の鍛練を開始した。狩りも再開して、体力をつけるために肉も食らう。
水辺に映る自分を見ると、肩や足腰に筋肉もついて、体格も前より良くなった気がする。
ジオはそんな僕を歓迎していて、中型の獣の狩りに挑戦するときも同行してきた。
「よくやったな、オルヴィ。小鹿を獲れるようになるとは大したものだ」
「そうかな。ジオがかなり助けてくれたよ」
「ふふ。だが最後の一撃は君の手柄だよ。誇っていい」
彼は満悦した様子で僕を褒めた。仲良しになるつもりはなかったけれど、自分の成長は実感していた。
ここを出ていくためには、ジオを利用してでも、強くならなければならないーー。密かにそう考えるようになった。
特訓は獣人化した姿でも続いた。雪の上で寒いのに、褐色の男は僕に格闘の仕方を教えてくる。
拳を突きだし、殴り方や蹴り方、攻撃の避け方、ほかに組手なども教わった。
「はあ、はぁ……喧嘩は嫌いだよ、僕……」
「私だって好きじゃないさ。だが、この方法で戦うほうが勝てる場合もある。我々はせっかく人化出来るのだからね」
平原で冷静に指南する男を見やった。彼は物凄く強いからてっきり戦いを好んでいるのかと思ったら、違ったようだ。
その後も僕は毎日、樹木を相手に格闘訓練を行い、ときにはジオと実践的な手合わせもした。
すべてはクローデと再び会ったときに、一人前になっている為だ。
そう心に決めて僕は弱音も吐かず、ただ無心で自分を鍛えた。
そうして二ヶ月ほどが経つ。
気がつくと、僕は泣かなくなっていた。夜が来るともちろん寂しいし、恋しくて胸がきゅっとなる。
しかし、そばには銀髪の褐色男がいて、断りもなしに僕の体を背中ごと抱えて眠っている。
そんな温もりに知らずと身を預けていたのだろうか。
最初は煩わしかったが、今はもう拒否するのも面倒で好きにさせていた。
でもこれは、裏切りなんじゃないか。
クローデはいま、何をして、何を考えているんだろう。
「オルヴィ」
「……なに?」
「眠れないのか」
「どうして分かるの」
「すぐに分かるよ。君の寝息は心地いい」
ジオは、夜になると暗闇の巣穴で、ざらりとする低い声で囁いてくる。そのことが僕の神経を時々逆撫でた。
「僕の寝息なんか、聞かないで」
昼よりも更につれなく答えるのに、ジオは気にしていない様子で体を半分起こす。
彼の顔は年齢よりも若く見えて、青年のようだ。カエサゴは皆そうなのだろうか。
「最近、泣いていないな」
肘をついた体勢で、柔らかい声音が降ってくる。本当は手で払いのけたかったけれど、僕はうんざりしながらも素直に認めた。
「悲しくないわけじゃないけど、泣いたって仕方ないから。僕は早く強くなりたいんだ」
彼のほうを向いて告げると、ジオもまた僕の瞳を見透かすように見つめてきた。
「彼のためか?」
「そうだよ」
二人の視線がしばらく交わる。彼がまるで逸らさないため、大人の雄の深い緑の目に緊張してきた僕は、さっと目線を落とした。
すると彼が僕の手を握る。驚いたけれど、もう小さいサゴじゃないのだと思い、また彼を見た。
「……ジオは、番はいないの?」
そう尋ねたとき、彼の目元がぴくりと動く。
僕は彼のことを知りたい思いで尋ねたのだが、彼は答えることなく完全に起き上がった。
以前の僕と同じように、今度はジオが何も言わず巣穴を抜け出す。
僕は呆気にとられ声をかけられなかった。
だが出口に消えていく彼を目で追い、はっとなって起き上がる。
敷いていた白い毛皮を持って外に出たジオを探した。
雪が薄く積もっていて、月明かりが灯る夜。
少し歩いた先の湖に、ジオはいた。樹木のそばの岩の上に、座っている。
彼の褐色肌の広い背中が、なんだか物憂げに見えた。
「ジオ、あの……風邪引いちゃうよ」
僕の気配に気づいたはずだが、前を向いたままの銀髪の男の背に、白い毛皮をかけた。
すると彼は振り向く。緑の目は透明で遠くを映しているようで、いつもの彼と違った。
「おいで、オルヴィ」
そう呟いて、毛皮を羽織った肩を開き、僕のことを招いた。
断れずに僕はそこに身を寄せる。そして彼の横顔を見上げた。
「その……さっきはごめん。……言いたくないこと、聞いちゃったかなって…」
尋常ならぬ彼の静けさに僕は素直に謝った。
だがジオは、月の映る湖面を見つめたまま、口を開いた。
「番はいたよ。彼はもう、亡くなってしまったが」
ジオは突然そう告げた。僕は胸をぐっとつかまれた感覚に陥った。
「もう20年も前の話だ。君が生まれた森に、私は大陸を渡ってたどり着いた。私の種族は定住せず、流れ着いた場所を転々とする放浪癖のような習性があってね。……だが彼と出会って、私はしばらくそこで暮らすようになったんだ」
昔の話をつれづれと話すジオに、黙って耳を傾ける。
それは彼の秘められた、大切な過去の物語だった。
「彼はまだ若い雄で、私よりも年下だった。明るくて無邪気な性格だが、どこか危なっかしくて、狩りもあまり上手くない。だが彼は、私と同じように、いつも一人でいた。家族や番でなければ、カエサゴは普通群れたりしないからね。……そんな彼を見て、私は少しずつ助けるようになった」
その人の話を聞いていると、まるでどこかの誰かみたいな気がしたが、僕は話の結末に近づくにつれ、胸がきりきり痛んでいた。
二人は雄同士だが、やがて親しくするようになったらしい。孤独は嫌いではなかったものの、今よりもさらに冷静で冷たかったというジオに対しても、天真爛漫で心優しいその雄に、彼は惹かれていったのだ。
「孤独なはずなのにいつも笑顔でいて、一生懸命に生きている彼を私は好きになったよ。それにつれて、彼がとても心配になった。大切な存在が出来たのは初めてで、絶対に危ない目には合わせたくない、自分がどんなことからも守ってやりたいと、そう思うようになった。……だが、野生に住む雄にとって、そんな考えは邪魔になるだけだ。結果的に私は、自分の庇護欲を満たすために、彼のすべてを奪ってしまった」
そしてジオは話してくれた。ある夜の逢瀬の際、恋人が約束の場所に現れなかったことを。大きな痕跡はなかったのだが、おそらく密猟者に捕まり、それ以来彼のもとに帰ってくることはなかったのだと。
僕はジオの過去の話を森で出会ったおばあさんから、前に聞いていた。その時は仲間を失ったのだと思っていたけれど、本当は大切な番だったんだ。
事実を知って、行き場のない悲しみに拳を握り、口元が震える。
「ジオのせいじゃないよ。違うよ……」
そう言うのが精一杯だった。
恋人を亡くすなんて、そんなのはあんまりだ。僕だったらきっと、悲しくて死んでしまう。
あの時のクローデを思い出し、頬が濡れていった。
「ようやく君が泣き止んだのに、私のせいでまた泣かしてしまったな」
彼は申し訳なさそうに言って、僕の涙を拭き取った。
「ーーだから、私は大事な相手を失うつらさを知っている。クローデから君を引き離したことも、悪いと思っている。しかし、それでも君には、彼のようになってほしくないと思ってしまった。……お節介なことは重々承知だ。だがクローデには、私と同じ轍を踏んでほしくなかった」
僕にはジオの思いがようやく分かった気がした。
僕に対してこれだけこだわっていたのは、彼なりの理由があったのだと。
森で二人の姿を見て、もしかしたら自分達と重ねていたのかもしれない。
僕は立ち上がり、ジオに向き直った。彼はこちらを見つめ、僕の手をそっと握る。
「大丈夫かい? 風邪を引いてしまうよ、オルヴィ」
「……ジオ」
何と言っていいか分からず、僕は彼の首に腕をまわし抱きしめた。
変なことをしているのは気づいていたが、彼の銀色の髪が僕の首もとに当たり、さらに抱擁を強くする。
「ありがとう、ジオ」
そう呟いて、しばらくじっとしていた。
彼の腕が僕の背をそっと包む。やがて顔を上げられ、見つめられる。
「私は君に酷なことをしたんだ。今だって、自分勝手なことをしている」
「……それでもだよ」
確かに僕は彼に怒っていた。恨んだりもした。
だが、今は過去を打ち明けてくれた彼に寄り添いたかった。
ジオが辿ってきた人生に思いを馳せると、胸が苦しくて、自分でも何か共感を示したかった。
「君は優しいな。……クローデが羨ましくなるよ」
ジオはぽつりと呟くと、その場に立ち上がる。僕の顔が彼の胸元にうずめられた。
僕は彼からの抱擁も受け入れた。前よりも二人の距離が縮まった証だ。
「さあ、もう中に入ろう。体を冷やしてはいけない」
そう話す彼の体は、雪の中でもじんわりと熱を持っていた。
僕はその熱が伝わるのを、今までとは違いただ静かに受け入れていた。
そんなことがあって、彼との暮らしに月日が経つ。
僕は森での生活により、かなり野生に順応するようになっていた。
そしてジオの匂いを覚えるようになった。
年上の、僕とは違う成熟した大人の雄。
時が過ぎるにつれ、記憶が薄れることが怖くなる。
クローデの声……匂い。笑顔。僕を触る優しい手つき。
今、どうしているんだろう。
いつも考える。
違う雄の温もりに包まれているときも。
彼に会いたい。抱き締めてほしい。
僕を、抱いてほしい。
もう忘れてしまうかもしれない。僕のことなんて。
早く会いに行かないと。
僕は、クローデのことが大好きだって、伝えに行かないと。
「オルヴィ」
「なあに?」
僕を呼ぶのはジオだ。
彼は最近顔つきが柔らかくなった。訓練の時は厳しくてあまり甘さはないけれど。
僕が寂しがりやだと思っているのか、相変わらず眠るときは人化してくる。
けれどその日は、一人で過ごそうと思っていた。
あることを見破られたら困ると気を張っていたからだ。
「今日は、私と眠りたくはないのか?」
「うん……ごめんね、ジオ」
よそよそしさに少し罪悪感はあったが、仕方ないと思っていた。
冬は繁殖の季節で、最近若いカエサゴといえるようになってきた僕にも、容赦なく発情期は襲う。
僕は人知れず、ショックを受けていた。
クローデがいなくても、夜になると体が熱くなってくる。
きっとジオと人型で眠っているせいだ。
出来ればやめたかったけれど、なんとなく言い出せず、僕は最初の頃より彼を邪険にできなくなっていた。
暗い巣穴の端と端で、僕らは眠る。
土壁を見て、久しぶりに温もりから離れ、僕は毛皮にくるまっていた。
しかしジオの視線は感じた。
彼は眠らないのかという疑問が湧くぐらい、なんというか、僕に様々なことを「合わせて」いる気がする。
彼はその習性を直したいと思っているようだが、僕はあまり強く言えないでいた。彼のことを少なからず、知るようになったから。
僕は降参して寝返りを打った。
「ジオ。正直に言うと、発情してるみたいなんだ。だから悪いんだけど、ちょっと外にでてほしい…」
そう言うのは本当に恥ずかしかった。暗に一人でしたいのだと伝えたためだ。
だがジオは言うことを聞いてくれなかった。
それどころかまた近寄ってきて、僕の肩に鼻を寄せ、匂いを確かめてきた。
「…………っ」
「そのようだな。つらいだろう? オルヴィ」
匂いでそんなことまで分かるのかと、獣同士の感覚には驚いた。
僕を見つめる、鋭い、じりりと焦がすような目つき。
彼は今までそんな素振りを見せなかったが、僕は雄々しい肉体をもつ彼の、欲情を察知した。
同時に身をすくませる。
「交尾をしようか」
「……えっ?」
すっとんきょうな声を出しても、ジオが距離を縮めるのは止まらず、彼は僕の首の下に腕を差し入れ、腕枕をしてきた。
横たわる僕を見下ろし、色気のにじむ瞳で、じっと見つめてくる。
「お、怒るよ」
動揺しつつキッと眼差しを強めて反抗をした。
彼はようやく瞳を細めて微笑む。許可もなしに僕の前髪と、垂れた獣耳を撫でてきて、体がびくりとなった。
「私は本気だよ。君に求愛しているんだ。……彼に悪いと思うのなら、獣の姿でもいい」
甘い声で信じられないことを囁いてくる。
僕に番がいても、獣にとって交尾はそれほど容易にできることなのだろうか。
それとも、彼は僕を本当に求めているのだろうか。
ふと、僕はジオの大切だった雄に重ねられているのかもしれないと思ったが、それはとても繊細な事柄のように思えて、聞けなかった。
「ジオ……僕のことが、好きなの?」
尋ねると、彼は逃げたり表情を変えたりもせず、柔らかい笑みを見せて頷く。
「好きだよ。君のことを、クローデに返したくないと、思ってしまうほどにね」
ジオが僕の頬にもどかしげに触れて明かす。
体温が伝わり、鼓動が大きくなった。
あの時ジオは、寂しくはないと言っていた。
けれど僕は、皆同じなのだと思う。クローデも僕もジオも、手の届く誰かを求めている。愛し、愛してくれる存在を。
「……僕……僕は……」
恐れることなく彼の瞳を捕らえ、打ち明ける。
「ジオはとても優れた雄だと思う。強くて優しくて、本当はあたたかくて……。でも、あのね、僕は……心の中にずっと、決めた雄がいるんだ。だからごめんなさい、ジオ」
胸がずきりと痛むのを感じながら、本心を伝えた。
彼はひどく悲しむ様子は見せず、少しだけ笑みを浮かべて、僕の頭を優しく触った。
「謝ることはないさ。私は自分のしたいことを伝えた。君の気持ちはもう分かっていたのに、ね」
僕を逆に慰めるような手つきが、くすぐったくも切なく感じた。
「だがやはり、駄目か。誘いを断られたのは初めてだ。複雑な気持ちになるな」
彼は真面目な顔でこぼし、ふっとため息をつく。
僕は顔を上げて、彼の腕に掴まって尋ねた。
「そんなに色々誘ってるの? 遊び人なんだ、ジオは」
「いいや。多くはないよ。本気でほしいと思ったのは、君で二人目だ」
純粋な顔つきで笑む大人の雄に、僕はたじたじになる。
ジオの気配や温もりに、居心地のよさを無視できなくなっている自分。
それと同時にクローデへの想いは、日に日に強くなって、ちぐはぐな僕をいっそう彼のもとへと向かわせた。
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