▼ 80 呼んでほしい -休暇編2-
湖畔の別荘での滞在二日目。珍しく朝早めに目覚めた俺は、隣のベッドでまだ寝ている親友をそのままにして、居間へと向かった。
長い廊下を歩いていると、奥の方から話し声が聞こえてきた。キッチンで何かをしているのか、カチャカチャと食器類の音もする。
「なあクレッド。お兄ちゃんって嫌いな食べ物とかあんの? サラダに色んな野菜とか豆類入れちゃったんだけど、食べれるかな」
「ああ、大丈夫だよ。何でも食べるから。あ、でも兄ちゃんは匂いの強いチーズは好きじゃない」
「あっそうなんだ〜。俺もそれは嫌いかも。チーズって時々ハズレあるよな」
弟とカナンが二人で和気あいあいと喋りながら、何かやっている。話の内容から、こいつらもしかして先に朝食の準備してくれてるのかと気がついた。
優しい弟達だなぁ。…………あれ? でもなんかおかしかったよな、今。
「俺の兄貴もさあ、好き嫌いはないんだけど、いつも味が薄いってうるさいんだよね。何でも濃いソースかけるし。その点セラウェお兄ちゃんはなんか、薄味が好きそうな気がする」
「そうだな。確かに兄ちゃんはあんまり濃い味好きじゃないな。喉が渇くから嫌だって言ってた」
「あはは、何それ。お兄ちゃんらしいっていうか、ウケるんだけど」
ーーやっぱりそうだ。クレッドの奴、何故か俺のこと兄貴じゃなくて、『兄ちゃん』って呼んでる。
嘘だろマジかよ、信じられん。あいつ俺のいないとこでは、違う呼び方してたのか?
ぐるぐる混乱しながら廊下の真ん中で固まっていると、後ろからペタペタと足音が聞こえてきた。
振り向こうとした体を、ガバッと羽交い締めされるかのように抱きつかれる。
「ぐあッ重い、離せキシュアッ」
「セラウェ。なんで俺のこと起こさねえんだよ、薄情者」
「お前一回寝たら人が起こしても絶対起きないだろ!」
「あ? お前だって毎回そうだろ」
首にまとわりつく腕を引き剥がして、親友をきちんと向き直させる。目が据わっていて目つきが悪い。
こいつは起床時はもの凄い低血圧で、起き抜けは機嫌もあまり良くないというか、怖い。小さい頃は奴の家族含め、誰も起こしたがらなかった程だ。
「ああ、ねみい……もう無理」
「ちょっ俺に倒れてくんなッ」
未だ寝ぼけた感じで寄っかかってくるキシュアを必死に支えようとする。
するとその様子を廊下の端で腕組みしながら眺めている、長身の男がいた。
「何やってるんだ。兄貴」
「ちょっと見てないで助けろよ、クレッドっ」
叫びながら助けを求めると、近くまで来た弟がキシュアの首根を掴んで引っ張った。後ろから脇に手を回し軽々と抱きかかえる。
「兄貴にそんな風に触るな。いくらキシュアでも許さないぞ」
「……んん……なんだその台詞……お前相当イッちゃってるな……」
おいおい、本当だよ。クレッドのやつ幼馴染に何言い出してんだ。
変な冷や汗をかきながらも事なきを得た俺は、そのまま二人に続いて居間へと向かった。
「わーすげえ、二人で準備してくれたのか」
食卓には美味しそうなパンやハム、チーズ類にサラダ、香ばしい焼きソーセージやオムレツまで並んでいた。
いい香りに大いに食欲がそそられ、朝から幸せな気分になってくる。
「そうだよお兄ちゃん。あ、クレッド飲み物用意して〜。……つうか兄貴、なんでまたソファで寝てんだよ。朝ごはん食べないのか?」
「……んー……まだいらねえ」
カナンが尋ねると、キシュアは気怠そうな声で返事をした。
隣の席に着いた弟から「はい、兄貴のコーヒー」と笑顔で飲み物を手渡され、俺もにこりと笑い礼を言う。
三人で食卓を囲み、優雅に朝食を取り始めた。
俺がちらちら隣のクレッドを見ると、奴は少し驚きの顔を向けながらも、微笑みを返してきた。
しかし俺は我慢できずに、とうとう腹の中にある気になっていた事を尋ねることにした。
「クレッド、お前さっき俺のこと……兄ちゃんって呼んでなかった?」
じっと目を見つめて、ずばり問いかけると、奴は食べていたパンを急に喉につまらせた。ゴホゴホと咳を数回し、急いで飲み物で流し込んでいる。
「な、何言ってんだよいきなり……!」
弟の顔がみるみるうちに赤くなっている。珍しく目を泳がせて、すぐに視線を逸された。
この慌てよう……やっぱり聞き間違いじゃなかったか。
「なんでそんな照れるんだよ、別にいいだろ。何もおかしい事ないって。俺、お前のお兄ちゃんだし」
「ち、ちが……っ、俺、そんなこと言ってない……っ」
「ん? いや言っただろ。隠すなよ、クレッド」
何故か俺は興奮しながら、人目も気にせず弟に顔を迫らせていた。
なにこいつ、恥ずかしがっちゃって、可愛い……
顔を真っ赤にして反論する弟を見ていると、なんかムラムラしてくるんだけど。俺、もうすでに欲求不満なのかな?
「はは。お兄ちゃん、あんまりクレッドのこと虐めるなよ。確かにこいつ、俺と二人のときはセラウェお兄ちゃんのこと、『兄ちゃん』って呼んでるけどさ」
カナンがにやっと愉しそうに笑って弟に視線を向ける。
するとクレッドの眉がピクリと上がり、途端に冷酷な男の顔つきになった。心なしかわなわなと震えだしている。
「お前はほんとに……無駄なことしか言わないんだな、カナン。さすがに俺ももう黙ってないぞ……」
「え〜なんで怒んの? いいじゃん言ったって。ほら、お兄ちゃん喜んでるぞ?」
笑顔のカナンが俺のことを顎で指し示してきた。弟が本気の形相で切れていても、この無邪気な幼馴染にはまるで効いてないらしい。
「そうだよ。実は俺、全然嬉しい。いつでもそんな風に……呼んでいいんだぞ?」
「な、何言ってるんだよ、兄貴は兄貴だろっ」
俺が胡散臭い笑みを向けると、弟はまたサッと顔を赤らめて反論した。ふふ、この話題をすると完全にうろたえてしまうようだ。
これは……使える。その時、俺の中で邪な考えが閃き出した。
※※※
朝食後、一旦休憩してから外出しようということになり、しばらくの間各自自由に過ごしていた。
俺は弟の後をつけ、奴が自分の部屋に入った直後、扉の前で聞き耳を立てていた。
物音はあまりしない。どうせ奴のことだ、また鍵を閉めてないんだろうと考え、思い切って扉を開けた。
「うわッ何!?」
すると室内には着替え中だったのか、シャツをはだけさせたクレッドが驚きのあまり目を大きく見開いていた。
まさか俺が突然部屋に侵入してくるとは思わなかったのだろう。けれど俺だって普通の男だ。色々言いたい事やしたい事もある。
「なんでそんなびっくりしてるんだよ、クレッド。俺がお前のとこ来ちゃ駄目なのか?」
わざとらしく言い寄り、積極的に弟に迫っていく。訴えるように見つめると、奴は無表情のまま俺を素通りしてすぐに扉に向かった。
ーーえ、酷くねえ? 俺のこと無視? さっきちょっと呼び方のことで虐めちゃったからか?
様々な思いが一瞬で駆け巡る中、ガチャリと鍵が閉まる音がした。振り向くと、いつにも増して真剣な表情をした弟が、俺に向かってズカズカと歩いてくる。
目の前で立ち止まるなり、突然がっしりとその腕の中に収められた。
「……ああ、兄貴、来てくれたのか? 俺、すごく嬉しい……」
なんなんだよ、怖がらせんなよ。何か逆鱗に触れたかと思ったじゃねえか。
「お、お前頑張るって言ったくせに、俺のこと全然構ってくれなかったよな」
弟を若干責めるような雰囲気を出して言った。まだ休暇が始まり二日目なのに、その言い分は自分でも苦しいと思ったが仕方がない。
案の定、クレッドは俺の顔を見て焦ったような表情を浮かべた。
「ごめん、兄貴。寂しかったのか? 俺も同じだ……でもあの二人が手強くて……。本当は、ずっとこうしたかった」
そう呟いて、ぎゅっと抱きしめてくる。自然な流れで唇を合わせ、じわりと心地よい熱を与えられる。
ああ、すごく久しぶりに感じる。ずっと近くにいるのに触れることが出来ないというのは、中々きついものだと切に感じてしまう。
「……んっ……ふ……ぁ」
触れるだけかと思ったら、弟の舌がそろっと中に入ってきた。腰をぐいっと抱き寄せられ、体がさらに密着する。
気がつくと、段々とお互いに激しく口を貪り始めていた。
「……んっ……んん、……はぁ」
目を閉じたまま熱い口づけを受け入れ、体中の力が奪われていく。
ぼうっとして、頭がすでにぐらつき始めている。この辺で止めておかないと、まずい。
体をよじらせると、クレッドが服の裾から手を滑り込ませてきた。
「うぁ、だ、だめだ、やめろっ」
「兄貴……静かにして、外に聞こえるぞ」
「……お、まえのせいだろ、離せって……っ」
腕を掴んで止めさせようと思っても、手にもたらされる愛撫が止まらない。これ以上進んだら大変なことになってしまう。
「まじで、駄目だって、クレッド……、俺、今……ちょっと欲求不満だから、やめて……っ」
正直に述べると、弟の動きがぴたりと止んだ。何故か俺のことを、信じられないものでも見るかのような顔つきで、目を凝らして見ている。
「……え? 今何て言ったんだ、兄貴」
「だから……なんか、む、ムラムラしてくるから止めろって言ってんだよ。……何だよその顔、お前だって男なら分かるだろ」
半ばヤケクソになって開き直ると、弟は何故か急に思い詰めた表情になった。
かと思ったら、澄んだ蒼い瞳が潤みだして、徐々に欲情をはらんだ色を滲ませている。
「あ、兄貴……ッ」
やべえ。完全に逆効果だったかもしれん。こいつさらに急激な勢いで興奮し始めている。
「おいっもうすぐ出かけるんだぞ、落ち着けよっ」
「無理だ、兄貴が俺を欲しいって言ってくれてるのに、俺が止められるわけないだろ、……それにこんなに近くに居るのに、何十時間我慢してると思って……っ」
いやそんな長い時間でもないだろ。つうか俺そこまで言ってないんだけど。
体をもぞもぞと必死に動かしても、奴の強靭な肉体を引き剥がすことが出来ない。
よし、こうなったら当初の目的に立ち返るしかない。これをすれば弟の興奮状態も治まってくれるだろう。
「……分かった、クレッド。お前の好きにしろよ……。でもその前に、俺のお願い聞いてくれる?」
服の裾をきゅっと掴み、自分でも吐き気がしそうなほど出来るだけ甘い声音を絞り出す。
弟はやや緊張の面持ちで、ごくりと喉を鳴らした。
「いいよ……俺、兄貴の言う事なら、何でも聞く」
「本当か? じゃあ、俺のこと……兄ちゃんって、呼んで」
「…………は?」
部屋の中に弟の冷えた疑問の音が響き渡った。途端に現実に戻されたかのように、赤らんでいた顔がさあっと引いていく。
「な、に……言ってるんだよ。まだその話忘れてなかったのか」
「えっなんで覚えてちゃ駄目なんだよ。なあ、いいだろクレッド、お願い。一回だけ」
いつもやたらと頼み事をしてくる弟に代わり、俺は奴のシャツを掴み上げてしつこく迫った。
「い、嫌だ。恥ずかしいだろ、俺もう子供じゃないんだぞ」
「じゃあなんでカナンの前ではそう呼んでんだよ、ずるいぞ!」
「ず、ずるいって……ただの癖だよ、直らないんだからしょうがないだろッ」
何故か逆ギレ気味に言われ、俺も後に引けなくなってきた。だって俺がお前のお兄ちゃんなのに、カナンが羨ましいだろうがっ。
その後も俺は、普段の弟に負けず劣らずのしつこさで頼み込んだ。何がそこまで俺を駆り立てるのか分からない。
こんな無理やり子供時代のことを思い出させるようなこと、やっぱり駄目かな……とか考えたりもしたが、もはや自分の欲求を止められなかった。
「……そんなに俺に、そう呼んで欲しいのか?」
「うん。だって、すげえ可愛いんだもん」
率直に述べると、クレッドは一瞬言葉を詰まらせた。また恥ずかしそうに顔をうつむかせ、耳まで赤く染め上げている。
しばらく無言で考え込んでいる弟を前に、心の中で葛藤しているのかもしれない、もう少しだーーそう悪魔の囁きを感じ取っていると、顔を上げた弟と目が合った。
奴はどういうわけかそれまでの恥じらいの表情を一変させ、口元を吊り上げ、目元を愉悦の形に歪ませていた。
え、なんか様子がおかしい。一体何が始まるんだ。
「そうか。兄貴は、俺のそういう姿に興奮するのか。……なるほどな」
くくく、と声を漏らし、端正な顔立ちを不気味な影で覆い尽くす。
異変を感じ思わず身震いをする俺の肩をがしっと掴み、自分のほうに引き寄せた。
「お、おい。どうしたんだよ、クレッド。大丈夫か?」
「兄貴の気持ちはよく分かった。……そんなに望むのなら、仕方がない」
「えっ本当に? いいの?」
弟への恐れを抑えながら、思わず尋ねる。するとクレッドはにっこりと上質の笑みを浮かべ、俺の頬にそっと手のひらを添えた。
優しく慈しむように撫でられ、ぽーっとした気持ちになってしまう。
「うん。俺……頑張るよ。だって兄ちゃんのこと、喜ばせたいから。その為なら、俺は何だってするよ」
えっ。なんか口調まで変わってるんですけど。まるで少年時代のクレッドみたいになっちゃってる。
俺もしかして弟の心に潜んでた、叩いちゃいけない扉をこじ開けちゃったのかな……?
襲い来る恐怖と興奮の狭間で揺れ動きながら、俺は知らず知らずのうちに、弟の邪悪な瞳に吸い込まれそうになっていた。
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