▼ 71 大切な人 -クレッド視点 回想終-
出発の日の前日、兄貴はキシュアの家に出かけていた。俺は学校からそのまま師匠の道場へ向かい、剣術の稽古を行った。なるべく遅い時間にその場を離れ、家へと帰った。
帰宅してもまだ兄の姿はなかった。居間を通り抜けようとすると、父が酒の入ったグラスを片手に長椅子に座っていた。
「お、帰ったのか。クレッド」
「ただいま。お父さん」
顔が赤く、結構酒が進んでいるのだと分かる。きっと兄が明日居なくなるのが寂しいのだろうと、容易に想像できた。そんなところも俺と同じだ。
「お前がもう少し大きくなれば、一緒に飲めるんだけどな」
「うん、そうだね。楽しみに待ってて」
俺が優しく言うと、父も珍しく柔和な顔つきで微笑んだ。もう一度グラスをあおり、一転して曇りがちの表情を浮かべる。
「なあ。セラウェのやつ、大丈夫だと思うか? あいつ、いつも危なっかしいだろう。俺は心配なんだよ。あいつはうるさい親父だと思ってるんだろうが」
こんなに自分の気持ちをペラペラと話す父は珍しい。兄の前でも素直にそう言えばいいのに、性格上出来ないのだろう。外見も性格も俺のほうが父に近いと思っていたが、本心をあまり出さない所は、少し兄に似ていると思った。
「兄ちゃんは分かってると思うよ。お父さんに対しては、素直になれないんじゃないかな。たぶん照れてるんだよ」
「……そうか? 面倒くさい奴だな、お前の兄貴は」
台詞とは裏腹に、少し嬉しそうな顔になった父を見て、思いのほか単純な男だなと思った。
けれど兄の存在はそれだけこの家にとって、家族にとって大きなものなんだろう。皆が心配して、皆が愛情をかけている。
「おいクレッド。結構時間、遅いよな。お前キシュアのとこに行って来い。明日の馬車の時間に間に合わなかったら、駄目だろ」
「……えっ、俺が?」
「そうだ。お前、弟だろう。兄をきちんと連れ帰って来いよ」
酔っているというのに目をしっかり見て、念を押される。あれほど出発を阻止しようと言っていたのに、俺にそんな事を言いつけることに驚いた。けれど親というものは、そういうものなのかもしれない。
それに、幼い頃は兄らしく振る舞えと兄にうるさく言っていた父が、今は弟の俺に同じような事を言い出すことが、どこか面白く感じた。
「分かったよ。じゃあ、行ってくるね」
俺はそう言って、父に言われたとおり兄を迎えに家を出た。街灯が照らす夜道を歩きながら、本当は今一番兄の顔を見るのがつらいのは自分だと、勝手にそう思っていた。
けれど、誰にも言っていなかったことではあるが、俺は明日の兄との別れに立ち会うつもりはなかった。
だからこうして、おそらく最後になるであろう二人の時間を、選択することにしたのだ。
最後とは言っても、別に今生の別れではない。家族である限り、たとえ望まなくても会う機会はある。
キシュアの家に着いた頃は、だいぶ夜も更けていた。大きな白扉の玄関のベルを鳴らして待っていると、すぐにカナンが現れた。
「うわ、クレッド! お前遅いよ、お兄ちゃん大変なことになってんぞ!」
夜だというのに妙に目が冴えた様子の親友に連れられ、俺はキシュアの部屋へと向かった。そこは暖色でまとめられた落ち着いた空間で、壁には絵画や装飾品が飾られている、いかにも芸術家らしき洗練された雰囲気だった。
しかし大きな白いソファの前にあるテーブルの上には、部屋に不似合いの多くの酒瓶が並んでいた。
そして、そのすぐ近くには、床に手足を伸ばし寝そべっている兄の姿があった。
「兄ちゃん、まさか飲んだのか?」
俺が問いかけても返事は無かった。うつ伏せになっていた体を起こし、仰向けにするとほんのり紅く染まった頬が見えた。気持ち良さそうに何かをむにゃむにゃと喋っている。
この兄は、本気で馬鹿なのかもしれない。人の気も知らないで。
「おい兄ちゃん、いい加減にしろよ。何考えてんだよ」
「うう……」
俺が揺さぶって起こそうとしても、うめき声を漏らすだけで何の役にも立たなかった。
「おお、クレッド。おせーよお前」
新たな酒瓶とグラスを手に部屋の奥から現れたキシュアも顔が赤く、ほろ酔いの表情に見えた。
機嫌が良さそうに、にこっと笑みを向けられるが、無性に怒りが湧いてきた。俺の兄を、こんな状態になるまで飲ませるなんて。
「あーそいつか? 俺は止めたんだけどな。全然言うこと聞かなくてさあ。ほんと馬鹿だよなこの野郎」
「そうだよ、セラウェお兄ちゃんやばかったぜ。ずっとお前の愚痴ばっかり言ってて」
好き放題言う二人を無視して、俺は兄を起こそうとした。自分で歩く気は無さそうで、体をだらんとしている。
背におぶって帰るしかない。心の中で淡々と、そう決心した。
今度は別に記憶が無くなってもいい。忘れてくれるなら、むしろ好都合だと思った。
「兄ちゃん、帰るぞ。俺の背につかまって」
「んー……」
カナン達に別れを告げ、俺は兄のことをおぶって、来た道を帰ることにした。夜空には兄の好きな星がたくさんある。
まだ小さい時、四人で見た流星のことを思い出した。兄が俺のことを自分のコートに入れてくれて、温めてくれたこと。お父さんに怒られ、兄が騎士への道を選ばず魔法使いになると言い出したこと。
その日の夜、一緒にベッドに寝て「ずっと一緒にいる」と二人の約束をしたこと。
まだその気持ちは変わらない。本当はずっと一緒にいたい。絶対に離れたくない。
兄を背におぶって、懐かしい温もりを感じながら、そんな事を考えていた。
「……なあクレッド、俺重くない?」
「起きてたのか。別に重くないよ」
「そっか。お前、やっぱり力強いな」
「兄ちゃんが弱すぎるんだろ」
その時の俺は、二人きりで会話をするのが精一杯で、つい意地悪く言葉を返していた。兄貴は珍しく反論もせず、黙って背に掴まっていた。
一緒にいるのはつらいはずなのに、明日別れが来るからだろうか、ずっとこうしていたいと思ってしまった。
「ちょっと飲み過ぎちゃったよ、俺……」
「馬鹿じゃないのか? お父さんまだ起きてるぞ」
「……まじで? じゃあゆっくり歩いて。俺まだ帰りたくねえよ」
俺も同じだった。まだ帰りたくない。この時間が永遠に続けばいいのに。そうすれば、ずっと一緒にいられるのに。
「だってさ、お前来なかっただろ。弟が来なかったら、普通寂しいだろ。もう最後なのに」
兄貴がため息混じりに、けれど急に饒舌に語りだした。
どうしてこの兄は、そういう事を言うんだろう。俺はきっとその何百倍も寂しいと思っている。
忘れようと決心しても、出来るわけがない。こんなに大切な、大好きな人のことを。
「兄ちゃん、新しい生活が始まるんだろ。余計なこと考えてないで、頑張れよ」
「なんだよその言い方…………まあ、頑張るけどさ。だからお前も頑張れよ、クレッド」
言葉尻はすごく優しく、それは兄として弟を気遣う言葉に聞こえた。いつも優しい俺の兄は、照れくさそうにしながらも、こうして欲しい時に欲しい言葉をくれた。
だから俺は、それ以上を望みたくなってしまう。兄の全部が欲しいと思ってしまう。
弟であることは嬉しく、幸せなことだ。でも弟である限り、兄の全てが手に入らない。
「うん。ありがとう兄ちゃん」
そう言うと、兄は俺の首に回していた腕に、ぎゅっと力を込めた。
ああ、大好きだ。何度でもそう思ってしまう。
きっと忘れることなんて出来ない。こんなに長く想い続けたんだ。これからもずっと好きでい続けるんだろう。
兄はこれから誰かと一緒になるのだろうか?
隣には、どんな人がいるんだろう。
その人は兄のことを、幸せにしてくれるのだろうか?
それが俺だったら良かった。兄が好きになってくれる人が俺だったら、俺はきっと全てをかけて兄のことを大切にする。
一生をかけて守り抜くと、心に誓う。
それぐらい、どうしようもなく兄のことが好きだった。
「兄ちゃん、寝たの?」
静かになった兄に問いかけてみる。どうやら眠ってしまったらしい。
俺は結局我慢できずに、ある言葉を呟くことにした。これで最後にしよう、そう心に決めて。
「好きだよ、兄ちゃん。ずっと好きだ」
返事がもらえなくてもいい。この想いが叶わなくても、俺が兄のことを好きな気持ちは変わらない。
そう思ったのに、後ろから小さな声が聞こえた。
「俺も……好きだよ、クレッド」
寝ぼけていたのかは分からない。でも確かに俺の大好きな声が、耳に届いた。
すぐに寝息がして、兄貴は眠りに落ちてしまったみたいだった。
あとはただ、全てがぼんやりと幸せな夢の余韻に包まれていた。
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