俺の呪いをといてくれ | ナノ


▼ 65 不安と安心 -クレッド視点 回想4-

十一歳になった頃、十四歳の兄との関係は以前とは変わっていた。
俺は相変わらず子供のままで、兄貴に構ってもらいたくて仕方がなかったのだが、兄貴は違った。
背がぐんと伸び、声も低くなり、急に大人びた兄貴は、段々と素っ気ない態度を取るようになっていた。

同じ騎士の道を歩まなくなっても、ずっと一緒にいる。自分の中で何度も反芻した兄貴の言葉が、次第に揺らいでいくのを感じ始めたのも、この時期だった。

「兄ちゃん、開けていい?」

その夜、俺は枕を手に兄貴の部屋の前に立っていた。扉を叩いて声をかけると、中から眠そうな顔をした兄貴が出てきた。もともと毛先が跳ね気味の黒髪に、さらに寝癖がついている。

「なんだ。クレッド」
「もう寝てたの? 俺も一緒に寝てもいい?」

当時、ただでさえ四六時中魔術の勉強を行う兄貴に対し、好きな時に話をするのもままならなかった俺は、こうして定期的に兄貴の部屋を訪れていた。

「あのな……お前もう十一歳だろ。一人で寝ろよ」
「嫌だ。一緒に寝たい」

正しい指摘を無視して主張すると、肩に手を置かれて深い溜息を吐かれた。
深緑の瞳に久しぶりに真っ直ぐと見つめられ、わくわくと次の言葉を待つ。けれどそれは、残念ながら俺の期待したものではなかった。

「お前最近背伸びたよな。俺もだけど。もうベッド狭いんだよ。分かるだろ?」
「兄ちゃんのベッド俺のより大きいし、まだ余裕あるでしょ。全然平気だよ」

兄貴はぽかんと口を開けて俺を見た。
この頃の自分はさらに口が達者になっていて、兄貴も相手をするのが大変だったと思う。でも俺は当時からしつこい性格で、自分の要求を飲ませる為ならば簡単に引き下がりはしなかった。

「……今日だけだぞっ」

頭を掻きながら言い放ち、結局我儘を許してくれた。俺は喜び勇んで、すぐにベッドの定位置を占領した。
ぶつぶつ言いながら添い寝をする兄貴に色々と語りかけるのだが、すぐに目を閉じられてしまい再び寂しさが募る。

「兄ちゃんもう寝ちゃったの……?」

寝息を立てる兄の頬を押してみても、一向に起きる気配がない。けれど途端に幼い顔立ちに見える、その寝顔を眺めているだけでも幸せだった。
心のどこかで、それがいつまでも続かない予感はしていたし、その事実は俺の焦燥をさらに加速させていった。


翌日、俺は学校で親友のカナンに自分の悩みを相談していた。
俺と同じく兄を持ち、何かと共通の話題が多く何でも話せる間柄だった。

春の陽気に包まれた庭園の前で弁当を広げながら、椅子に座り昼食を取る。飲み物を両手に包み、俺は憂いの溜息をついた。

「ねえカナン。最近兄ちゃんが素っ気ないんだよね。この年で兄ちゃんと一緒に寝るのって、そんなにおかしいのかな」
「うーん、人によるね。ていうか、クレッド。お前まだ一緒にお兄ちゃんと寝てるの?」

妙に上から目線で言われた言葉が気になり、俺はじろっと奴を見た。半笑いの親友がさらに小馬鹿にするような表情を浮かべている。

「カナンだってそうだろ。キシュアと仲良いじゃないか」
「俺はもう一緒に寝てないよ。つうか、兄ちゃんの方がベタベタしてくるからね。うざいよホント」

バンにかじりつきながら、淡々とぼやき始める。
やけに大人びた雰囲気を醸し出す同い年の友に、一瞬殺意が湧いた。兄から構ってもらえるというのに、うざいと言うなんて。なんて贅沢な奴なんだろう。当時の俺は本気でそう思っていた。

「でも、俺もそう思われているのかな……面倒くさいとか」
「はは。大丈夫じゃない? セラウェお兄ちゃんって優しいし。お前のこと好きじゃん」
「えっ、そう思う?」

俺はカナンの言葉に目を輝かせた。我ながら単純だと思う。
けれど兄の気持ちが離れていくことがそれだけ不安だったのだ。二年前のあの日の言葉を、俺は人知れず深く記憶に刻みつけていたのである。

「……あれ? ちょっと、見ろよクレッド。あそこにいるの、お兄ちゃんじゃない?」

俺の体に肩をぶつけてきた友の声は、急に真剣味を帯びていた。すぐさま同じ方向に視線を向けると、ちょうど噂をしていた兄貴の姿が目にとまった。
しかしその隣には、見知らぬ女の子の姿があった。唖然としている俺の横で、カナンが驚嘆の声を上げた。

「うわ! 女といる! 誰あれ、やばいぞクレッド!」

興奮状態でわめく親友の言葉もろくに耳に入らないほど、俺はとてつもない衝撃を受けていた。
同じ敷地内にある普通学校の中等科にいる俺達と、高等科に通う兄貴とキシュア。
広い校内で出くわすことはめったに無かったが、その日は不運にも兄の姿を偶然見つけてしまった。

「なんだろう、あの子……」

俺は呆然として呟いた。兄貴と会話をしながら歩いてたのは、ブラウンの長い髪を持つ大人っぽい雰囲気の子だった。年は兄貴と同じ位で、やけに体を寄せて親密そうに見える。

「ねえねえ、もしかして彼女かな? お前なんか聞いてないの?」
「……聞いてない。普通の友達だろ、たぶん」
「そうかなあ。お兄ちゃんって女の子の友達いなそうじゃない? 今まで見たことないよ」

奴の言う通りだった。俺が知る限り、当時の兄貴はキシュアを始めとした、学校の男友達としかつるんでいなかったように思えた。

「分かった、じゃあ帰ったら俺の兄ちゃんに聞いてみようぜ! 何でも知ってそうだし!」

カナンは面白がっている様子だったが、俺は内心ぐるぐるしていた。
出来ることなら、直視したくない光景だった。三つ年上の兄が一気に違う世界の人間のように思えたのだ。
その気持ちが何なのか、当時の俺はまだはっきりと分かっていなかった。


放課後、俺達は別れることなく、カナンの家へと向かった。
当時俺はすでに剣術の師匠に師事していたのだが、その日は幸か不幸か、ちょうど稽古が休みだった。

シヴァリエ家は自然豊かな高台の上に建つ白い屋敷を所有し、代々芸術家が続く家柄だった。キシュアとカナンには他にも兄姉がおり、皆両親と共に同じ家で暮らしていた。

屋敷に入り、ひとまず三階に位置するカナンの部屋へ向かった。ここへはよく来るが、その日の目的を考えると、やたらと気分が落ち着かなかった。

「あれ、兄ちゃんアトリエにいるのかな〜」

廊下に出て兄の部屋を確認してきたカナンが戻り、俺を連れてキシュアがいるであろう場所へ向かう。
屋敷の隣に併設された木造の家は、たくさんの絵画が収納されたアトリエとなっていた。
中へ入ると、大きな額縁や画材道具が並ぶ空間の奥に、ぽつりと人影が見えた。

「あ。いた! ただいま、兄ちゃん!」
「…………あー、おかえりカナン」

後ろ姿のキシュアは画板を前に絵のデッサンを行っていた。集中して黙々と鉛筆を走らせ、俺達の様子をほとんど気に留めてなかった。
話しかけられる雰囲気ではないように感じたが、カナンは何も考えずキシュアの前に飛び出した。

「ねえねえ聞きたいことあんだけど!」
「何だよ、後にしろ」
「いやだ〜今聞きたい!」

気色の悪い甘えた声を出す弟に、キシュアが大げさに肩を落とし鉛筆を置いた。

「はいはい分かったから。ちょっと待ってろ」
「やったあ〜」

昼間は兄がべたべたしてくると文句を言っていたのに、どう見てもカナンのほうがはしゃいでいる様子だった。
立ち上がり、布巾で手を綺麗にしているキシュアが俺に目をやる。

「お、クレッド。お前がここに来るの珍しいな。セラウェもたぶん後から来るぞ」
「えっ、そうなの?」

兄貴の名前を聞き、ぎくりとして思わず驚嘆の声を出す。
すると俺の顔色から何か感づいたのか、キシュアがにやりと笑った。褐色が混じり合う独特の髪色に映える、薄い灰色の瞳が見透かす様な目つきを向ける。

「なんだ、どうした。兄貴が来ちゃまずいのか? 喧嘩でもした?」
「し、してないよ。別に」

俺は焦り気味に答えた。この男は昔からカンが良く、洞察力が鋭い。今でもそうだが、中々油断できない相手なのだ。

「兄ちゃん聞いてよ。さっき学校でね、セラウェお兄ちゃんが女の子と歩いてたんだよ。茶髪のロングヘアの子。誰か知ってる?」

俺達の話に構わずカナンが喋りだす。質問を簡潔にまとめてもらい、心の中で感謝した。俺が切り出していたら、きっと動揺を隠せず、おかしな態度になっていたかもしれない。

「いや、知らねえ。……ああ、なんか魔術の研究してる奴らの一人なんじゃないの? あいつ最近そっち方面の連中と話してるみたいだからなぁ。どっから見つけてきたのか知らないけど」

特に驚く様子もなく平然と話すキシュアに、少し面食らった。

「そっか……魔術関係の子なんだ。俺、兄ちゃんがそういう付き合いあるの知らなかった」
「まあ、あいつ秘密主義なとこあるからなあ。なんだよクレッド。兄ちゃんが心配か?」
「うん……心配だよ。だって最近、前よりもっと勉強に打ち込んでて、あんまり一緒に居てくれないんだ」

素直に気持ちを認めるだけでなく、つい愚痴をこぼしてしまう。するとキシュアは頭をくしゃくしゃと撫でてきた。
小さい頃と同じ振る舞いをする男に内心腹が立ったが、邪気の無い笑顔を向けられ何も言えなくなった。

「可愛いなあ、お前。安心しろよ。セラウェに悪い虫がつかないように、俺が目光らせといてやるから。な?」

思わず頼りたくなる様な魅惑的な笑みを浮かべ、俺には決して言えない台詞を口にする。
兄貴より年上のキシュアのほうが、弟の俺よりも何倍も守る力がある。悔しいけれど、変えられない事実だった。

「うん。俺も、出来ることするから」
「俺もする〜! 楽しみ〜!」

真面目な雰囲気だったのに、いつものようにカナンがぶち壊してきた。しかしその後もっと悲惨なことが起きた。

「じゃあさあ、クレッド。代わりと言ったらアレなんだけど。俺の頼み聞いてくれる? ちょっと脱いで」

耳に入ってきた言葉が理解できず、俺は薄ら笑いをする目の前の男を唖然と見つめた。

「なんで俺が脱ぐの? 何するの?」
「デッサンだよ。もうすぐ課題あるんだ。上半身だけでいいから」

途端に鋭い目で見据えられ、画家の顔つきになったように見えた。

「ちょっと、兄ちゃん! クレッドに何させようとしてんだよ。駄目だよそんなの」
「お前は黙ってろよ。この美少年は異常なまでに創作意欲を掻き立てる逸材なんだよ。またとないチャンスだろ」

鬼気迫る顔で弟に説明する様子に、身の危険を感じて固まっていると、カナンが反論を始めた。

「いい加減にしろよ兄ちゃん、犯罪だぞ? あ、分かった。しょうがないなあ、俺がモデルになってあげるよ」
「お前じっとしてらんねえだろっ、描けねえよっ」

二人が兄弟喧嘩を始め、俺はすでに家に帰りたくなっていた。しかし、キシュアの一言にいとも簡単に引き戻されてしまう。

「じゃあセラウェに頼もうかなあ。あいつ優しいから聞いてくれそうだしな」
「えっ兄ちゃんに……? だ、駄目だそんなの。止めてよっ」
「じゃあお前が脱いでくれる?」

俺はまだ子供だったのだ。しかし昔から俺は兄貴のことを持ち込まれると弱かった。自分の弱点だと知りながらも、どうすることも出来なかった。
今では考えられないことだが、口車に乗せられて結局奴の言うことを聞いた。

何故か俺はその後、上半身裸になり妙なポーズと共に椅子に座らせられて、一心不乱に描き続けるキシュアの前にいた。
しばらく経ったあと、近くのソファには疲れて寝てしまったカナンの姿があった。

「ねえキシュア、俺もう体が痺れてきたよ。動いていい?」
「もうちょっと待て。すぐに終わるから」
「さっきからそう言ってるじゃないか。もういいでしょ?」
「分かった分かった。あと少しだけな……」

押し問答を繰り返し、仕方がなく言うことを聞いている俺は、わりと律儀なタイプだと思う。けれどそれは兄への思いがそうさせているのだ。子供ながらに冷静に自分を納得させていた。

すると予期せぬことが起きた。渦中の人である兄貴が、この奇妙な空間に突然姿を現したのだ。

「キシュア、悪い、遅くなった!」

扉を勢いよく開けて入ってきた兄貴は、俺を見てすぐ最大限に目を見開いた。
体を硬直させ、しばらく時が止まったかのように、瞬きさえも忘れている。

「に、兄ちゃん……」
「おー、セラウェ。もうすぐ終わるから待って」

今度も見向きもしないで描き続けるキシュアに向かい、兄貴がドスドスと足を鳴らしその肩をがっしりと掴んだ。

「てめえッ!! 俺の弟に何してんだよッ!!」

聞いたこともない怒鳴り声で胸ぐらを掴み上げる。兄貴の激昂する様子は初めて見た気がした。

「何って絵のモデルだよ。見て分かんだろ」
「ふっざけんじゃねえぞこの野郎! ……お、お前じゃなかったらぶん殴ってるぞ!!」

そう吐き捨てた後にキシュアを離し、俺のもとに向かってきた。すごい剣幕で、普段の優しい顔立ちは精一杯の怒りを表していた。

「クレッド、何やってんだ! 馬鹿かお前! こんな事しちゃ駄目だろ!」
「ごめん、兄ちゃん。そ、そんなに怒んないで……」

いつも気怠そうにぼんやりすることが多い兄の、感情むき出しの姿は新鮮に映った。
俺に服を被せて再びキシュアを睨みつける。

「悪かったよ、セラウェ。俺も素晴らしい逸材を前にすると止まらなくなっちゃってさあ」
「うるせえ変態ッ! 今度やったらただじゃおかねえぞ!!」
「もうやんねえよ。そんなカリカリすんな。昔皆で風呂入った仲だろ?」

反省する様子のない親友に向かい、兄貴が聞こえるように舌打ちをした。

「うるさいな〜、何の騒ぎ? ……あ、セラウェお兄ちゃん! 来てたんだ!」
「カナン……お前も止めろよッ。クレッドが大変なことになってただろうがっ」
「ええっ、俺は止めたんだよ? でも兄ちゃんが『脱がないとセラウェを脱がす』とか怖い顔で脅したから……」
「ちょ、お前すぐ裏切んなよカナンっ」

兄貴は深い溜息をついて俺の肩に両手を置いた。
いつもと違う兄の態度を目の当たりにし、そんな何気ない動作にも俺はドキドキし始めていた。

「クレッド。あいつの話を鵜呑みにするな。いいか、俺の為にこんな事するんじゃない。お前は可愛いんだから変態に狙われやすいんだよ」
「え……俺、かわいい? 兄ちゃん……」
「ああ。可愛いよ。自分で分からないのか? 鏡見てる?」

久しぶりに兄貴に可愛いと言われ、一瞬で舞い上がりそうになる。何気ない言葉だったのかもしれないが、当時の悶々としていた自分には、すごく特別に響いた。

「分かった。俺、気をつける」
「よし」

言い聞かせながら頭に手を置いて撫でられる。こんな時なのに俺は、兄貴の関心が再び自らに強く向けられたことが嬉しかった。今思えば、どれだけ頭の中がこの兄に占められていたのかと、自分でも驚くほどだ。

「良かったなあ、クレッド。……俺もお前との約束守るから安心しろよ?」
「ああ? なんだ約束って!」
「ん? 俺達の秘密だから教えない」
「なんだとてめえ! 教えろよ!」

その後も二人の言い合いは続いていたが、ほんの少しだけキシュアに感謝したくなったことは、絶対に兄貴には言えないことに思えた。

当時から俺の気持ちは兄貴に左右されていた。距離が離れそうになると不安になり、近くに来てくれると安心する。それの繰り返しだとしても、その頃はまだ十分幸せだった。



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