▼ 64 別れ道 -クレッド視点 回想3-
世話役のヴィレに促されて向かった先は、当時めったに入ることのない父の書斎だった。棚にはおびただしい数の蔵書が並び、壁には額縁に入った多くの表彰状が飾られている。
広い書斎机の後ろにある大きな窓の外では、夜の木々が風を吹き鳴らしざわめいていた。
部屋にはソファの真ん中に腰掛ける父と、飲み物を準備する乳母のマリアがいた。皆が勢揃いしているのを見て事の重大さを思い知ったが、何故か母の姿だけがない。
これから父の雷が落ちることを想像すると、優しい母が近くにいない事が余計に恐ろしかった。
父は表情を変えず、静かに怒りを溜めて俺達を見据えている。その様子に震え上がる俺とは対照的に、兄貴はどこか落ち着いているように見えた。
「坊っちゃん達、外は寒かったでしょう。温かいミルクをお持ちしましたよ」
向かいのソファに腰を下ろした俺達に、マリアが飲み物を差し出してくれた。
母より年上の心優しい女性で、いつもと変わらぬ雰囲気で声をかけられ、一瞬だけ緊張がほぐれる。
俺達は礼を言い、おずおずと口に運んだ。その間も父が静かに見ているのが怖かった。
やがて部屋に三人だけが残され、ようやく父が口を開き始めた。
「お前達。一体どこで何をしていた? 要点を話せ、セラウェ」
九歳と十二歳に対するものとしては厳しい口調に思う。睨みをきかせる父の顔は真剣そのもので、まるで騎士の尋問のような雰囲気を漂わせていた。
鍛えられた屈強な体に、見つめられると動きが止まってしまいそうな鋭い青い瞳。子供だった俺達にはまるで勝ち目のない相手に見えた。
「……ええっと、敷地内にある物置小屋の屋上で、二人で流星を見てたんだ。今日はちょうど、十三年に一度の稀少な流星群が現れる日で、絶対に見たくなって……それで……」
初めて聞く情報を添えて話す兄貴は、若干の動揺を見せていた。キシュア達に触れなかったことに俺が驚いていると、父の眉がぴくりと上がった。
「そうか、話は分かった。だがな、こんな夜遅くに弟を連れ出して、何かあったらどうするつもりだ?」
「……はい。ごめんなさい、お父さん」
「お前はクレッドの兄なんだぞ。自分の行動に責任を持ちなさい」
兄貴が再び小さく返事をし、謝罪を口にした。頭をうつむかせ反省する姿に、胸が痛くなる。
てっきり自分も怒られると思っていたのに、兄だけが矢面に立たされ、俺はいても立ってもいられなくなった。
「違うよ、お父さん。僕が見たいって言ったんだ。お兄ちゃんのせいじゃないよ」
「……えっ。おい、何言ってんだクレッド。俺が誘ったんだから、いいんだよ」
焦った様子で俺を見て、余計な事を喋るなとでも言うかのように、大きな深緑の瞳が訴えてくる。二人で互いをかばい合っていると、前から父の溜息が聞こえた。
「クレッド。たとえそうだとしてもな、セラウェは兄としてお前を守る義務がある。自分より弱いものを守るということは、騎士の精神にも通じることなんだ」
父が真剣な顔で言い聞かせるように言う。騎士という言葉を聞いた兄貴の顔が、少し曇ったように見えた。
「で、でも……お兄ちゃんはいつも優しくて、僕のこと守ってくれるし、今日だって大きな野犬から動物を守ろうとしたんだよ」
「ちょ、クレッド! 止めろよっ」
思わず俺が反論すると、兄貴に慌てて口を塞がれた。
すると父の顔が急に険しくなり、俺達の顔を交互に見てきた。よく分からないが、まずい事を言ってしまったと後悔する。
「……野犬だと? どういうことだ。危ない目に合ったのか?」
低い声で問いかけ、突然その場から立ち上がった。怖い顔で向かってくる父に恐怖を感じ、俺はとっさに隣にいる兄貴の肩を掴んだ。すると兄貴が安心させるように、俺の手を握ってきた。
だが父の反応は想像と違うものだった。
「おい! 怪我はしなかったのか!? よく見せてみろ!!」
動転した様子で大きな声を浴びせられ、俺達は目を丸くしていた。
ソファの前にどさっと膝をついた父に体をぽんぽん触られ、怪我の有無を確認されていく。その慌てぶりをしばらく呆然と見ていた俺は、どうやら心配されているのだという事に気付いた。
「大丈夫だよ、お父さん。俺達どこも怪我してないから。な? クレッド」
「うん、そうだよ。僕たち全然元気だよ」
「……本当か? 嘘じゃないな?」
目を見開いたままの父に対し、改めて二人でしっかり頷く。
すると父は珍しく眉を下げ、途端に威厳のない顔つきになった。いきなり俺達を大きな腕の中に包み込み、いっぺんに抱き締めてくる。
「ああ……まったく、あまり俺を心配させるな。気が気じゃなくなるだろう……」
耳慣れない弱々しい声に驚いたが、隣にいる兄貴はこんな父の姿を知っていたのだろうか、少し呆れ気味の顔をしていた。
力強い抱擁は苦しくなるほどで、父の金色の髪が頬に触れて少しくすぐったくなった。
普段は騎士らしく堂々とした態度で振る舞う父が、実はわりと心配症であるという事実を知ったのは、この時だった。
そのまま温かい雰囲気で終われば良かったのだが、その直後再び事件が起こる。
父が我に返ったかのように立ち上がり、咳払いをした。威厳を取り戻そうと思ったのか、再び険しい顔を作り始める。
「……まあ、なんだ。セラウェ、お前も来年騎士学校に入るんだからな。これからは騎士らしい振る舞いを考えなければ駄目だぞ」
その一言は、何気なく発せられた言葉に聞こえたが、大きな波紋を呼ぶことになる。
俺は恐る恐る兄貴に目をやった。一連の反応を見ていると、兄貴の騎士に対する関心が低いことは気付いていたからだ。
「お父さん、俺は……」
意を決したように立ち上がった兄貴が、自分よりも遥かに背の高い父を下から見上げた。その横顔は、凛として真っ直ぐに父を捕えていた。
普段からぼうっとする事の多い兄貴の能動的な行動に、俺は目を奪われた。けれど次に紡がれた言葉に、さらに意識を持っていかれる。
「俺は、騎士学校には入らない。騎士になるつもりは、ないんだ」
決意の表情を浮かべる兄貴の口から、はっきりと発せられた言葉。
それを聞いた時、俺は正直ショックを受けた。どこかで分かっていたはずなのに、実際に耳にすると、現実を突き付けられた気になったのだ。
「何を、言っているんだ……お前は」
父の顔からはさっきまでの人間らしい表情が、完全に消え去っていた。眉間に深い皺を寄せ、さらに鋭い眼光が容赦なく自分の息子を睨みつける。
子供の俺がすぐに逃げ出したくなる程の、本気で激怒した顔だった。
「俺の聞き間違いか? もう一度言ってみろ、セラウェ」
「……騎士にはならないって言ったんだ。俺は違うことがやりたい。叶えたい夢があるんだ」
「夢だと? なんだそれは」
「俺は、魔法使いになりたいんだ」
そう言った瞬間、父が文字通り硬直した。思考が止まったかのように無表情で微動だにしなくなった父を、兄貴が真っ向から見つめている。
「ま、魔法使い……? どういうつもりだ、お前」
「お父さん、俺は本気だ。お願いだ、認めてほしい」
「ふざけるな! 俺がそんな事を認めるはずがないだろう!」
完全に我を失った父の怒鳴り声が、部屋中に響き渡る。予想通り、魔術に反感をもつ父は激昂していた。
しかし俺達兄弟と母だけの秘密だった「魔法」の存在を初めて父に明かしたことに、俺は兄貴の本気の気持ちを切に感じていた。
おろおろしながら二人が言い争う様子をそばで見ていたが、やがて書斎の扉がトントン、と軽く叩かれた。
程なくして開かれた扉の先に現れたのは、心配そうな面持ちをした母だった。その場がしんと静まり、空気が変わったことを肌で感じる。
「ルフリート。もう私も入っていい?」
「……まだ話が終わってないんだが。俺が先に話すと言っただろう。イスラ」
穏やかな母の問いかけに、父が打って変わって落ち着いた声で答える。困り顔の母を目にした父の怒りの炎が、瞬時に静まったように見えた。
構わず入ってきた母はソファの近くまでやって来ると、俺に手招きした。場の雰囲気が変わり安心した俺はとっさに立ち上がり、腰の周りに抱きついた。
俺を脇に抱えながら、母は兄貴の目を見て優しく頬を撫でた。
目の前に立つ大きな父を見上げる小柄な母の目はどこか鋭く、いつもは柔らかい薄緑の瞳が力強い輝きを放っていた。
「もう。そんな風に脅すような言い方して、あんまり私の子供達をいじめないで」
優しい音色を持つ話し方だったが、その発言からは強い意志が垣間見えた。現にそれを聞いた屈強な父が、一瞬のうちに怯んだ様子だった。
「わ、私のって……俺の子供でもあるだろう?」
「……そうね。まだ」
「えっ? おい、イスラ? どういう意味だ?」
味気ない返事で冷ややかな顔を向ける母に、父は完全に焦っていた。
そんな夫の様子を気にも留めず、母は黙っていた兄貴に向き直った。
「セラウェ。騎士学校に入らないって、本当なの?」
「……うん。普通学校に通いながら、魔術の勉強続けたいんだ」
「まだそんな事を言ってるのか。俺は認めないと言ったはずだ」
「ルフリート。この子を責めないで。魔法を教えたのは私なのよ。こんなに本気に夢を持つまでになるとは、正直思ってなかったけれど」
優しい眼差しを兄貴に向ける母に、父が深い溜息を吐く。腕を組み、難しい顔でしばらく考え込んでいた。
「それは知っている。俺が君の動向を見逃すはずがないだろう? ……だが魔術師になるということは、容易なことではない。予測不能な危険がつきものなんだ」
「でもそれは騎士だって同じでしょう? あなたが心配するのは分かるけど、私だって夫も二人の息子も皆騎士になっちゃって、毎日無事でいます様にって必死にお祈りしてるんだから」
子供のように頬を膨らませた母を前に、父は言葉を詰まらせた。険しかった顔から、みるみるうちに覇気が無くなっていく。
「ああ、イスラ。そんなに可愛いことを言うな。君は俺をどうしたいんだ?」
「セラウェのことを認めてあげて。ゆっくりでもいいから、見守ってあげましょうよ。それに四人のうち三人が騎士になれば十分じゃない。あなたは色々望み過ぎなのよ」
「……な、何を言ってるんだ。……それとこれとは話が別だろう……」
そう呟いて、うろたえた様子の父がぐっと口をつぐむ。じとっとした目を向けられた母は、全く動じることなく落ち着いた表情をしていた。
幼い俺がこの二人の実際の力関係を目の当たりにしたのは、この時が最初だったように思う。普段は溢れ出る威厳を振りまく父だが、本気になった母を前にすると途端に弱くなるのだ。
「ねえクレッド。あなたは騎士になりたいのよね?」
「うん、なりたいよ!」
にっこりと笑った母の突然の質問に、嬉しくなった俺は素直に返事をした。
ほら見なさい、と言った顔で父に目線を向けた母に対し、中々考えを変えない父が、今度は俺に矛先を向けてきた。
何か悪巧みをするような顔つきで、俺は怪しさを感じた。
「だがクレッド、お前もセラウェと一緒に騎士になりたいよな?」
自分の父ながら狡猾さが見え隠れする手口だったと思う。だが俺はその手には乗らなかった。
幼い年ながらも、兄の気持ちのほうが大事だったのである。
「……ううん。お兄ちゃんは魔法が好きなんだ。僕はそんなお兄ちゃんも好きだよ」
言いながら、少し胸がズキリとしたのは事実だった。本当は一緒に騎士になりたい、なると思っていた。
けれど兄の関心が剣にないことは気付いていたし、この日はそれを痛切に感じた日でもあった。
兄の心のうちを知った俺は、自分の気持ちはこっそり胸にしまうことにした。
「クレッド……?」
皆が俺の言葉に目を丸くする中、それまで一人静かに皆のやり取りを聞いていた兄貴は、とりわけ驚いた顔をしていた。
俺は何故か急に兄の温もりが恋しくなり、母のもとを離れ、兄貴の体に勢いよく抱きついた。「うわッ」と小さな叫び声を上げた兄貴だったが、すぐに俺を抱きしめ返してくれた。
「……ありがとな、クレッド」
頭上から聞こえてきた声に安心しながら、その腕の中に収まる。俺はやっぱり、兄貴にこうされるのが一番好きなんだと思った。
幸せな顔を見れるなら、自分の寂しさは少し我慢するしかない。当時の俺はそんな風に思っていた。
結局父が完全に諦めることはなかったが、母の登場と俺の加勢により、少なくともその場は丸く収まった。
二人の意見は異なっていたものの、今考えると、それぞれが息子のことを真剣に思った末のことだったのだと分かる。
その夜、俺は廊下を挟んだ向かい側にある、兄貴の部屋の前にいた。自分の部屋で寝ようと思ったのだが、興奮して寝付けず、枕を持って兄貴の部屋に入って行った。
「あれ、どうしたんだ? お前」
小さな明かりをつけてベッドに寝転がっていた兄貴も、まだ眠りについていなかった。俺はそそくさと近くに歩み寄っていった。
「お兄ちゃん、眠れない」
「そっか。一緒に寝る?」
「うん」
「じゃあこっちにおいで」
いつもに増して優しい口調で、俺をベッドに招き入れてくれた。
二人で布団に入ると温かい。一人で眠るよりも、温もりと安心感を感じることが出来る。こうして時々一緒に寝る時間があることが、俺は嬉しかった。
兄貴は天井を見つめ、ぼうっと何かを考えているみたいだった。
俺は横になってその様子を静かに眺めていた。すると急に俺に向き直った深緑の瞳に、じっと目線を合わされた。
「なあ、クレッド。お前、俺と一緒に騎士になりたかったんだろ?」
思いがけない問いに、心臓が突然ドクドクと鳴り始めた。父に聞かれた時ははっきりと口に出来た思いが、途端に喉の奥に詰まってしまう。
どう答えればいいか分からず黙っていると、兄貴は俺に柔らかい笑みを向けてきた。
「ごめんな。本当は辛かったんじゃないか? お父さんにあんな風に聞かれて」
「う、ううん。ほんとにそう思ったんだよ」
「そうか? ……優しいな、お前」
俺を思いやるようにゆっくりと頭を撫でられて、くすぐったくなるのを堪える。
「俺、嬉しかったよ。ありがとな」
もう一度礼を言われ、兄貴の気持ちを直に感じ取ると、何故かまた胸が苦しくなってきた。俺は我慢できずに、気になっていた事を尋ねることにした。
「お兄ちゃん。騎士にならなくても、僕と一緒にいてくれる?」
それは幼い自分の心の中に、常に存在した問いだった。
兄貴は一瞬驚いた顔を見せたが、すぐに微笑みを浮かべて、もう一度頭を撫でてきた。
「うん、一緒にいるよ。いつもそうだろ?」
「本当に? ずっと?」
「ああ。本当だよ。ずっとな」
兄貴は優しく笑って頷いた。
その言葉を聞いた俺は、一気に胸のつかえが取れたように安心感を得ていた。
今思えば共に騎士になるということよりも、これまでと変わらず一緒に同じものを見て、同じ時間を過ごすということのほうが、この時の自分にとっては大事だったのかもしれない。
それだけ兄貴は俺の中で重要な存在で、いつも一番近くにいてくれる、大切な人だった。
しばらくして兄貴は「おやすみ」と言って、目を閉じて眠ってしまった。俺はその寝顔を少しドキドキしながら、じんわりと温かい気持ちで見つめていた。
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