▼ 31 実験の後で
その日、教会の結界師ローエンとふたりで、魔術師用の訓練室にいた。以前エブラルに俺の制限魔法を模倣したとかいう妙な術をかけられた、いわく付きの場所でもある。
何故か俺たちはあぐらをかいて床に座り、ごく近い距離で向き合っていた。
「セラウェ、準備はいいか?」
「ああ……でも、本当にやるのか? い、いいのか? お前……」
「君にやって欲しいんだ。……君にしか頼めない」
結界師の眼鏡が怪しげに光り、俺は息を飲んだ。こいつ、本気なのか? 自分で何を言っているのか、分かっているのかよ。
「じゃあ、お願いする。動作を封じる君の禁止魔法を、俺にかけてくれ」
意を決した表情で、俺を見据える。最初にこの男の奇妙な要望を聞かされた時、正直言って戦慄した。
訓練に付き合ってくれと頼まれ、ここへやって来たのはいいが、開口一番「君の制限魔法を体で試したい」と言われたのである。
俺はものすごく引いた。そんなことを言われたのも、味方に術を施すのも、初めてだったからだ。
最初はどうしようか悩んだのだが、この結界師はどうやら大真面目の様子だ。勢いに押され、しょうがなく俺は了承することにした。
「……分かった。この体勢より、寝たほうがいいだろうな。あ、あと目開けてたら怖いから、閉じてくれる?」
「ああ、そうしよう」
魔導師として考えれば、こんな簡単に被験体が手に入る機会はそうそうない。本人が望むのならば、もはや応えるしかないだろう。
だが今回は、奴の体にただ俺の禁止魔法をかけるというわけではない。結界師の計画では、初めに奴の「対制限魔法」を体に馴染ませ、二つの魔法を重複させる。結果的に両方の効果の比較調査をするということだった。
「ローエン、お前の対制限魔法の効力って、どの程度なんだ?」
「術者同士の相性にもよるが、通常はかけられた魔法効果の八割減まで可能だ。だがエブラルから聞いた君の制限魔法は、中々効果が強いらしい。楽しみだ」
えっ。は、八割減って、凄い数字じゃねえか。だいたい、対象に制限をかける魔法は長めの詠唱を必要とする代わり、解除するのが厄介なのだ。
今回の目的は解除ではなく、二人の魔法のせめぎ合いを確かめるというものなのではあるが。自分の肉体を使うとは……こいつ、明らかにマゾだよな。やっぱ普通じゃなかった。
「セラウェ、時間を測っておいて欲しい。あと、俺の様子も……見ていてくれ」
「あ、ああ。分かった。ちゃんと見とくから」
手足を放り出し、床に寝そべるローエンが深呼吸する。表情は真剣そのもので、精神統一を行っているようだった。
俺は静かに呪文を唱える結界師を見つめていた。
冬なのに寒くないのか、半袖のタイトなシャツを着ていて、腕を覆う黒い紋章が目に入る。細身のわりに程よく筋肉質な体が意外に感じた。
ローエンがすうっと体を落ち着かせると、俺は即座に禁止魔法の詠唱を開始した。これで奴の体は自由を失う。どのぐらいの時間で起きることが出来るのかが、この実験の焦点だ。
今、結界師が俺の前で眠ったように無防備な姿を晒している。……ふふふ、こいつ、もし俺が教会に入り込んだ敵だったら、どうするつもりだ? 簡単に他人を信用しやがって。
一瞬悪どい妄想が膨らんだが、しばらく普通に様子をうかがっていた。すると、ローエンに思わぬ変化が現れ始めたのである。
「んん……」
眉根をよせて、声を漏らす。なんだ? もう魔法がせめぎ合っているのか? だが見ているだけじゃよく分からない。
一瞬悩んだが、我慢できなくなった俺はそっと奴の体に触れてみた。すると微かに上半身が震え出した。はは、結構面白い。ただの被験体とはいえ、無意識下の他人の体を間近で見る機会は中々ないからな。
「…………う、ぁっ」
中々妙な声を出してくるな、こいつ。ちょっと触っただけなのに、段々悪いことしてる気になってくる。
そこで不意に思いついた。これ、クレッドにやったらどうなるんだろう。もっと面白いことになるかもしれない。あいつ、元々異常に感じやすいし。
でもそう考え始めて、虚しくなった。今の俺と弟は、接点が途切れている。ああ、この鬱々とした気持ちは何なんだ。俺はただ、寂しいのか? 相手にされなくて、落ち込んでるだけなのか?
「あ……あぁ……」
ローエンの喘ぎのようなものに、再び意識を戻される。やべ、今は実験に集中しないと……。でもただ見ているだけというのもつまらない。もう少し俺も参加したくなってきた。
おもむろに奴の服を少しだけめくると、健康的な肌の色が覗いた。こいつの腹……結構良い体してんじゃねえかこの野郎ムカつくな、眼鏡のくせに。クレッドほどではないが腹筋が割れてるし、細すぎない感じがちょうどいい。
魔が差した俺は腹の辺りを人差し指で、そろっとなぞってみた。
「ああぁッ…………は、ぁ……」
おいおい、大丈夫かこいつ。段々反応が強くなっている気がする。こうやって俺の前で肌を晒して、喘いでいるなんて……自分が一体どういう状況になっているのか、分かってるのか?
なんか変な気分になってきた。やり過ぎは禁物だな。しばらくそうやって結界師の状態を観察していると、すでに一時間が経過していた。
俺の禁止魔法とっくに切れてるはずだぞ、なんで起きないんだよ。
「ん、……あ、あぁっ……」
なんか、段々喘ぎが強くなっていってる。俺とこいつの魔法が、それほど体内で拮抗しているのだろうか。
「おい、ローエン。大丈夫か?」
心配になってきた俺は、初めて奴に声をかけてみた。しかし返事はなく、未だに体をビクビクさせながら悶ている。ど、どうしよう。これ、平気なのかな。やばいことになってないよな……?
「ローエン! 起きろよ!」
「あ、ぁっ…………は、あ……」
大きめの声を出すが、返ってくるのは男の喘ぎだけだ。火照った顔で口を半開きにし、目は閉じたまま苦しげに眉をひそめている。
「おい、起きないなら……いいのか? 変なことするぞ……?」
「ん、あ…………あぁ……」
なんだこれ。俺達何やってんだよ。ああやっぱこのままじゃまずい。とにかくこいつを起こさないと……そう思った俺は、遠慮なく奴の体に触れて揺さぶった。
「おい、起きろ! なあ、ローエン! 返事しろ!」
「んんっ……は、あ、あぁ、……っ」
「こ、このっ……何気持ち良さそうにしてんだよッ」
「あ、あっ……は、……んぁっ」
しかし奴の反応は酷くなる一方だった。いてもたっても居られなくなった俺は、とっさに立ち上がる。誰か呼んで来ないと駄目だ。こいつに何かあったら、完全に俺のせいになってしまうーー。
そんな自己保身的な思いを胸に、訓練室を抜け出し、助けを求めに行った。
魔術師用の訓練室は、騎士団本部からそう遠くはない。建物上階から渡り廊下で繋がっている為、俺はとりあえず階段を上り、本部へと向かった。
焦りながら廊下を駆けていると、前方に数人の騎士の後ろ姿が見えた。一人だけ異常に背が高く、ガタイが良すぎるといっていいほどの、大男だ。まさかーーあの男か?
一瞬声をかけるのに躊躇したが、この騎士なら結界師の体を運べるだろうと判断した。
「おい! ちょっとそこの……!」
後ろから声をかけると、大男が振り向いた。黒髪金眼の、いかにも雄々しい顔つきだ。咄嗟に、こいつにされた苦い経験を思い出し、足が止まる。
「ああ、なんだお前か、魔導師。どうした?」
思ったより普通に反応され少し驚く。騎士は引き連れていた部下らしき男達に「先に行け」と声をかけると、腕組みをして俺の前に立ちはだかった。
「あ、あーえっと、なんだっけ、名前……」
「グレモリーだ。失礼な野郎だな。先輩の名ぐらい覚えとけ。また縛られてえのか?」
……ぐっ、やっぱ腹立つなこいつ。相変わらずでけえし。目の前にいるだけで圧倒的な力の差を見せつけられているようで、居心地が悪い。
「はいはいすみません先輩。ちょっと頼みたいことがあんだよ、一緒に来てくれないか?」
「なんだてめえ、それが人にものを頼む態度か? 俺はこれから用があるんだ」
「ああ、そうか……それはすまん。でも緊急事態なんだ、実は一緒に訓練してた結界師の意識が戻らなくて……」
「結界師だ? ああ、……あの変な野郎か。……しょうがねえな、どこにいんだよ」
えっ、なんかわりとすんなり頼みを聞いてくれそうな感じじゃないか。急にどうしたんだ。つうか、ローエンってやっぱ変な奴なのか? ……いや、でもこれはチャンスだ。
「訓練室だ、一緒に来てくれっ」
俺はグレモリーを連れ、急いでローエンの元へと戻った。
帰ってきてみると、悲しいことに結界師は先程と同じような状態で、乱れたままだった。床に寝そべり、目を閉じて、怪しげに息をはあはあと吐いている。
「おい……なんだこの野郎……気色わりいな。本当に意識ないのか? 何やったんだお前」
騎士が若干引きながら、俺のことを見てくる。はは、無理もない。俺にだって想定外だ、こんな淫らな結界師の姿など。
「い、いやあ。魔術の実験してたんだけどさ。あ、もちろん合意だから。……でもちょっと間違いが起きたのか、よく分かんないけど……」
「……ああ? ったく、魔術師ってのは、ほんとに危ねえ奴らばっかだな。何事も程々にしとけよ」
グレモリーが皮肉めいた口調で言う。けどお前も十分危ないことしてただろうが。お前にきつめに拘束された時結構痛かったんだけど。
騎士はローエンの体を軽々と持ち上げ、自分の肩に担いだ。すげえ、どんだけ力持ちなんだ、この男。
「……クソっ、まだ妙な声出してやがる……変な動きすんじゃねえっ。ユトナにやった方が喜ぶんじゃねえのか、こいつ……」
ぶつぶつと文句を言いながらも、面倒を見てくれるこの大男は、実は結構良い奴なのかもしれない。
騎士が「おい、こいつは回復師のとこに連れてくぞ」と言ったので、俺は素直に従い、後をついていった。
どうやら騎士団本部の中には、負傷した騎士らの為に常駐している回復師がいるようだ。
長い廊下を渡り、人通りの少ない一番奥の部屋に着いた。広い室内は無駄なものが一切無く、がらんとしている。いくつかのベッドが置かれていたが、不思議なことに誰の姿もなかった。
「あ? 今日あの男、いねえのか? ツイてねえなお前ら」
グレモリーがそう口にし、ローエンをドサっとベッドの上に降ろす。結界師は未だ意識が戻らず、せわしなく息づいている。
「えっ回復師いないのかよ、こいつどうすればいいんだ」
「知らねえよ。とりあえずここで休ませておけ。いつか目覚めんだろ」
投げやりに言う騎士を呆然と見つめるが、仕方がない。訓練室で寝かしておくよりは、幾らかマシだろう。
「まあ、そうだな。運んでくれて助かったよ、ありがとな」
「はっ、お前も素直なとこがあんだな、意外だぜ。じゃあ俺はもう行く、またな」
俺が言うのもなんだが、やっぱ偉そうな野郎だなこいつ……たぶん俺お前より年上だからな。一言言いたくなるのを我慢して、俺は大男の騎士を見送った。
ベッドに寝ているローエンに視線を戻し、長めの溜息をつく。ああ、どうしよう。もう何時間経ってんだ? このままこいつが目覚めなかったら……俺は追放どころか、確実に捕まって酷い目に合うぞ。
「ローエン、起きろってば……聞こえてんだろ……」
そう話しかけ、ふと気がつく。……あれ? こいつ、喘ぎが治まってきてないか? もしかして、もうすぐ起きるんじゃないのか。希望を胸に、俺はそのまましばらく結界師を見つめていた。
しかし事件はその直後に起きた。俺は眠くなってきて、うとうとしてたのだ。
だが、何やら外の廊下の方からダ、ダ、ダッと大きな足音が響いてきた。いや、駆け寄ってくるような音だ。
……誰か来るのか? もしかして、回復師か?
そう思って振り向くと、突然扉がバタン!と勢いよく開いた。部屋の中に凄い剣幕で入ってきた男を見て、唖然とする。
「な、なんで……? お前……」
途切れ途切れに呟く。信じられない、こいつがここにいることがーー
心臓が、途端にドクドク音を立てる。喉が急に渇き出し、呼吸を忘れそうになる。固まる俺の目の前に立っていたのは、背の高い、金髪蒼眼の騎士だった。
俺の……弟だ。
「おい! 大丈夫か!?」
ベッド脇で椅子に座る俺の両腕をガシっと掴み、クレッドが目を見開いて尋ねてくる。……は? どういうことだ? 意味が分からず、目だけを動かす。
「怪我したんじゃないのか!? 返事をしろ!」
俺が、怪我……? なんでそんな事を言ってるんだ。気が動転していた俺は、状況が飲み込めないまま、ゆっくりと口を開いた。
「し、してない。大丈夫だ。……でもお前、なんで……ここに……」
放心状態で尋ねると、突然ガバっと弟に体を抱きしめられた。……え? ずっと、俺のことなんか、気にしてなかったはずなのに。何故急にこんなことをするんだ?
「…………何を見ている?」
ぼうっとしていると、クレッドの冷たい声が響いた。抱きしめていた体をそっと離され、弟を見る。すると、奴の顔は不機嫌そうに、俺の背後へ向けられていた。
振り向くと、すでにベッドから起き上がったローエンがこちらを見ていた。びっくりした俺はとっさに声をかける。
「ろ、ローエン、もう大丈夫なのか? 意識が戻らなくて……グレモリーが運んでくれたんだ」
「ああ、そうか。すまなかった。俺からも礼を言っておこう。……ところでセラウェ、時間はどのぐらいだった?」
「えっ……二時間ぐらいか、たぶん」
「……結構保ったな。中々良い気分になった。……詳しくは、また今度話そう」
そう言っておもむろにベッドから立ち上がり、扉へと向かった。俺達のことをちらっと目に入れ、口元に少し笑みを浮かべた。
「邪魔をしたな。後はゆっくりしてくれ」
そう呟いて、静かに部屋を出ていった。な、なんだったんだ。まあ、無事目が覚めて良かったが……。
俺は目の前に立っている弟をもう一度見て、椅子から立ち上がった。クレッドは険しい顔をして何かを考えているようだった。
「……何が二時間なんだ?」
「は……?」
一瞬意味が分からず聞き返す。すぐに、ああ、さっきローエンと話した事かと納得する。
「二人で魔法の実験をしてたんだ。それであいつが気を失って……」
「……そうか」
二人の間に気まずい沈黙が流れる。俺は、非常に混乱していた。なぜこいつがここにいるんだ。……いや、さっきの様子から、おそらく俺に何かあったと思い、様子を見に来てくれたのだろうと推測した。
じゃあ、もう怒ってないのかーー?
「グレモリーに聞いたんだ。兄貴が、ここにいると……」
「そ、そうだったのか。心配、してくれたのか……?」
弟がうつむきがちに、そっと頷く。俺の心臓は、まだ不自然なまでに鼓動を刻んでいた。久しぶりに近い距離で、顔を合わせ、会話をしている。もう、俺のことなんて、忘れたかと思っていたのに。
「じゃあ、俺はもう行く……」
そう言って、突然クレッドが踵を返した。……え? なんでだよーー。黙って扉の方へ向かう弟の腕を掴み、引き止める。
「ちょ、ちょっと待てよ、まだーー」
「……さ、触るなっ……」
弟は俺の手を振り解き、すぐに黙った。顔は依然として険しく、視線を合わせようとしない。
俺は絶句した。……触るなって、なんだよ、それ……
全然、全く、これっぽっちも意味が分からないんだけど。
は、はああああ? だって、さっき、俺のこと抱きしめてたのお前じゃねえか!!
「ふざけんなよ……なんで俺が、お前に触っちゃいけねえんだよ……ッ」
どういうわけか、俺の声は想像以上に怒りに震えていた。ブチッと何かが切れていたのか、欲求不満だったせいか、もう自分でもよく分からない。
けれど、気づいたら、俺は弟の胸ぐらを掴み、勢いよく奴を引っ張って、そばにあるベッドへと押し倒していたのである。
「…………ッ」
俺は奴の上に跨り、必死に体を押さえつけようとする。クレッドは予期せぬ事態に、びっくりした顔で俺を見上げていた。
「……あ、兄貴…………?」
弟のか細い声が下から聞こえてきた。
俺はもう、色々と限界なんだ。今日だけは逃さねえ。全部吐かせてやるーーそう心に決めながら、精一杯冷たい表情を作り、弟を見下ろした。
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