▼ 30 使役獣の慰め
「てめえ、ロイザ、探したんだぞっ。どこ行ってたんだよっ」
家に帰るなり、ソファの上で悠々とくつろぐ白虎を見つけ、強い口調で非難した。ロイザは大人しく横たわり、優雅に毛づくろいしている。
「どうしたセラウェ。機嫌が悪いのか? こっちに来い。慰めてやろう」
「…………この野郎っ」
俺はズカズカと足音を響かせ、奴の前に立ちはだかった。怒りの表情で見下ろしても、丸い灰色の目が揺れ動くことはない。
「お、前っ…………」
白虎の無垢な瞳が俺をじっと見つめる。怒っていたはずなのに、なんか今、無性に癒やされたくなってきた。自分の意志の弱さを恥じながら、俺は我慢できずに使役獣へと飛びついた。
「……ああぁっ」
白い毛の塊に抱きつき、顔をぐりぐりと埋める。ああ、くそっ、なんて気持ちいいんだ……やっぱ俺、これなしじゃ、生きていけないかもしれない……
「あ、マスター。今迎えに行こうと思ってたんですよ。ロイザを探してる途中で家に寄ったら、こいつ普通に家の中に居て」
リビングの奥から突然現れたオズの声を聞き、顔を上げる。なんだと? 消え去ったかと思っていた怒りが沸々と再燃し、俺は再びモフモフを睨みつけた。
「まじかよ。どこに隠れてたんだ、お前。……まさか変なことしてねえだろうな」
「領内ではしてないぞ。心配するな」
「はあ? 外出たのか? 勝手に抜け出すなって言っただろうがっ」
「いいだろう。散歩ぐらいしたって」
さ、散歩? なにかわいい言葉使ってんだこの白虎は。狩猟の間違いじゃねーのか。俺達のやり取りを聞いていたオズが、急にしゃがみ込んで使役獣のことをまじまじと見た。
「ロイザ、もしかしてストレス感じてるんじゃないのか? マスターの家は森の中にあったし、ある程度自由に動き回れただろ」
「ストレスだと……? そんな人間特有のくだらぬ現象に、俺が左右されると思っているのか」
「人間だけじゃないぞ。獣にだってあるし」
「俺をその辺の獣と同列に語るな」
明らかにロイザが苛ついた声を出している。なんだ、お腹空いてんのかな? 獣感丸出しじゃないか。しょうがない奴だなあ、もう。
「なあロイザ、腹減ってるんだろ? 久しぶりに直接魔力やるよ。後で俺の部屋へ来い」
「……お前から誘ってくるのは珍しいな。何かあったのか?」
「あ? 別に何もねえよ! あと妙な言い方すんなっ」
使役獣のからかうような声色に、一瞬動揺する。なんでこいつ、こう勘が鋭いんだ。やっぱ動物の本能的なあれか?
少しどぎまぎしながら、俺は夕食の時間まで白虎と一緒に戯れていた。
※※※
夕食後、寝室のベッドの上でゴロゴロしていた俺はまた考え事をしていた。どうせ考えてもしょうがない事なのに、止められない。どんどん思考が泥沼にはまっていく気がする。
その時、キィっと部屋の扉が開く音がした。俺は横になったまま、その方向に視線を向けた。だがそこに立っていたのは、褐色のロイザだった。
……またこいつはッ。
「お前な、なんで人型になってんだよ。最近ずっと白虎だったじゃねえか」
ロイザが俺の言うことを無視して、のっそりとベッドへ上がってくる。
……あ? 何してんだこの野郎。俺がいつここへ上がっていいと言ったんだ?
「おい、下へ降りろ。その姿で近づくことは許さねえぞ」
「……何故だ? どうしても嫌なら、力ずくで下ろせばいい」
使役獣が抑揚のない声で述べる。なんだその反抗的なセリフは。どうしちゃったのかな、この馬鹿は。
「俺がお前に力で敵うわけねえだろ! 何の為に使役契約してると思ってんだっ」
ロイザは無言だ。こんな時、人間以上に何を考えているのか分からない、この無表情な獣が憎らしい。
いつの間にか俺に半分覆いかぶさり、見下ろしてくる使役獣に一瞬怯む。
なになに、ふざけんなよ。なんで止めねえんだ、こいつ。そんなに腹空かせてんのか?
「あの、ロイザ君。マジでちょっと退いてくれる? 餌ならあげるから」
「直接くれ、セラウェ……」
「だからそう言ってんだろ! 俺の上からどけッ」
ベッドの上で両手をついていた奴の腕をとっさに掴み、ぐっと力を入れる。するともう一方の手で、掴んだ手首を握られた。人間の体温より明らかに低い温度が伝わり、ぞくっとする。
「おい離せよ」
「お前が俺の腕を掴んでるんだろう」
「それを離したらお前も離してくれるのか?」
「……さあな」
……さあなって何だこの野郎ッ。俺はとりあえずそのままの体勢を我慢し、ゆっくりとロイザの腕から手を離した。だが、奴の宣言どおりか何なのか知らんが、こいつの手がまだ俺の手首を掴んだまま、動かないでいる。
はあ。一体どうしたんだよ。いつになったら、俺の言うことを素直に聞いてくれるようになるのかな。
「この体勢のまま、欲しいのか?」
「ああ。そうだ……」
俺一応、使役者なんだけどな。何故か立場が逆転しているよな。ああ、でももう面倒くさい。
今日はこのままでもいいか……投げやりに考えて諦めた俺は魔力供給を始めることにした。
「ったく、しょうがねえな。……動くなよ」
「分かった」
奴は何故か目を開いたまま俺を見ているので、集中するために俺が目を閉じることにする。
額に手を当て、呪文を唱える。無心でなければならない、そう努めながら、頭を空っぽにして何も考えずに、詠唱を遂げる。
自分の体から魔力が抜け出ていくのを感じた。こいつの欲する量は相変わらず凄まじい。最後の一滴まで与え終わると、脳がぞわっとざわめくような感覚がした。
でも今日は、何故だろうか、心地よい疲労を感じる。体が求めていたのかもしれない、そんなことをぼんやり考えた。
目を開けるとロイザが、うつむいたまま余韻に浸るように、少しの間じっとしていた。その後突然、はぁっと短い息を吐いた。奴が珍しく見せた人間らしい行動に、自分の中で若干の笑いがこぼれそうになる。
「おい、今回の味はどうだ?」
こいつの嫌味ったらしい感想を聞く前に、自虐的に尋ねる。すると、ロイザがニヤリと口元を吊り上げた。
「……美味い」
満足そうな顔で一言、そう呟く。……だろうな。俺はそう思った。だってお前の嫌いなあいつとは、もうずっとヤッてねえからな。
脳内で語った下品な表現も気にならないほど、それは俺の正直な感想でもあった。
「セラウェ、欲求不満なのか?」
…………はい?
今度は何言い出すんだよ。魔力が不味い、の次はそれなのか? もう美味かったなら、それでいいじゃねーか。お前のほうこそ何が不満だというんだこの野郎。
「一応聞いてやるが、何故そう思うんだ。ロイザ」
「お前から貰う餌が美味いことは喜ばしいことだ。だが、お前が垂れ流している思念は時折……心配になる」
し、心配だと? 使役獣が……俺の? つうかその前に、俺の思念ってそんなにだだ漏れだったのかよ。その方がショックなんだけど。こいつの予想外の言葉に、俺は少々面食らっていた。
「純粋な質問なんだが……お前に人間の心の機微が分かるのか?」
「その問いには、はっきりとは答えられん。だが、お前の心の機微なら分かるつもりだ。俺は、主の心の鎖に繋がれているようなものだからな」
こ、心の鎖ーーどう反応していいのか分からない表現をぶっこんできやがった。俺が目を泳がせていると、まだ俺の上にいたロイザが、さらに顔を近づけてきた。
「お前……寂しいんだろう?」
「は? 何言ってんだよ……」
「隠さなくてもいい。お前と毎日一緒に寝ていれば、嫌でも気付く」
……え。それどういう意味だ。俺まさか変なこと口走ったり、やったりしてないよな……。
内心焦っていると、ロイザの手が突然俺の顎に添えられた。少し上向かせられ、奴の予期せぬ行動に、目を見開く。
「なに、して……」
「俺を使え、セラウェ。お前の好きなようにしろ……」
使役獣の灰色の瞳が、真っ直ぐに俺を捕らえようとしてくる。ちょ、ちょっと、使えって何のことだ。この流れからいって、もしかしてそういう意味合いで言っているのか?
俺が奴の下で固まっていると、首元に鼻を近づけられ、また匂いをかがれるような仕草をされた。
「おい、ロイザ……っ」
奴の滑らかな髪が肌に触れ、一瞬ぞくりとする。なんか、だめだこれは。良くない兆候だ。そう思い、俺は奴の両腕を手でぐっと握った。
「どうした? 何でも言うことを聞いてやる……言ってみろ、セラウェ」
耳元で囁かれ、体がビクッと反応する。何してんだ、このクソ白虎は。冗談じゃねえぞ、こんな事ーー
「もう、やめろ、ロイザ…………俺の上から退け。隣に横たわれ」
静かに、だがはっきりとそう言い、使役獣に命じる。ロイザはピタリと動きを止め、俺のことをじっと見つめた。
はぁ、とわざとらしく溜息のようなものを吐き、ゆっくりと俺の隣へ体を横たえる。
な、何今の……。
ああ、よかった……マジでびっくりした……。心臓がドキドキしてんだけど。何考えてんだよこいつ……
ちらっと横に目をやると、すでにロイザが片肘をついて俺のことを見ていた。
俺は若干混乱していたのか、奴の灰の瞳を見返すものの、上手く言葉が出てこない。するとロイザが先に口を開いた。
「どうすればお前を慰められるか、考えていた」
「……そ、そうか。その結果が、これか?」
「ああ」
な、なんだそれは……。慰めるってそっちの意味だったのか? 俺はそんなに欲求不満に見えたのか。やべえ、動揺を隠せない。
「慰めたいなら、上に乗るのは間違ってるぞ。せめて隣にいろ。俺の言っていることが、分かるか?」
「…………ああ。たぶん」
いや絶対分かってねえだろお前。やっぱりそういうところ、人間の思考とは違うような気がする。ちょっと短絡的過ぎるんだよ。
「まあ、気持ちはありがたく受け取っておくよ」
俺を見つめるロイザの顔は、どことなく不満げな様子だ。
すると奴が自分の体を俺のほうに寄せてきた。横向きで奴の腕が俺の背中にまわり、自分の胸へと引き寄せる。
俺はなぜか奴の胸に顔を埋めることになった。
「お前……俺の話、聞いていたか……?」
「これも駄目なのか? 獣化の時はいつもしているだろう」
話の通じない相手にムカムカと腹が立つのだが、そのまましばらく同じ体勢で俺は耐えてやった。こいつの主を慰めたいという気持ちを、少しは感じてみてもいいかと思ったのである。
「ちょ、ちょっと苦しい……」
「ん? 強すぎたか」
「まだ強えよ。もっと弱くしろよっ」
「わがままな主だな」
だがやはり、何か違った。何故だろう。どちらも俺にとっては、家族同然だ。まあ一方は同然というよりその名の通りなんだが。はは、今更だがもの凄い禁忌を犯しているよな。
「ロイザ……俺は、欲求不満のふしだらな最低野郎なんだ……」
だからお前に優しくされる資格なんて、本当はないんだよ。使役獣に懺悔しても仕方がないことは分かっている。でもなんとなく、口から出てしまった。
「気にするな。俺には人間の倫理観などない。お前の好きにすればいい。……必要なら、俺がいつでも慰めてやる」
こいつは確かに人間じゃない。でもその言葉は、きっと本心なんだろう。奴なりに、俺のことを思って言ってくれている。
「ありがとな……」
「礼などいらん」
「…………でもやっぱ獣化しろ」
俺がそう命じると、頭上から、今日何度目か分からないロイザの溜息が聞こえた。
俺を包んでいた褐色の体が、美しい毛並みの白虎へと変化した。俺はもう一度その胸へと顔を埋め、束の間の幸福を得ることにした。
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