▼ 28 刻まれた傷跡
ソラサーグ教会自治領を統括する、リメリア教会への所属が決定した俺達三人は、いよいよ活動拠点となる聖騎士団領内へ移り住んできた。
この仕事がどのぐらいの期間に及ぶのか、まだいまいち見当がつかない。
騎士団長の側近ネイドによって、領内の重要な場所を案内され、一通りの説明を受けた後、とりあえず気になる新居へと向かった。
そこは俺が以前捕らわれていた別館とは異なる建物だった。しかし、エブラルのいる研究室がある場所とも違う。
広大な敷地内において、中央に位置する庭園つきの騎士団本部棟。そこからいくつかの建造物を挟んだ場所にある、三階建の住居。静かで趣のある佇まいは中々俺好みだ。
三人で住むとはいえ、複数の部屋が用意されたその家は、十分過ぎるほどの広さだった。リビングには大きなガラス張りの窓が広がり、バルコニーからは緑豊かな景色を望める。
オズが料理出来るであろう台所も見つけ、ほっと胸を撫で下ろした。
「うわ、すごい! こんな素晴らしい家に住めるんですか? マスターの家よりグレードアップしてる!」
「おい、てめえ。はっきり言うんじゃねえ」
「セラウェ、俺達の寝室はどこだ? さっそく昼寝したいんだが」
「俺の寝室だバカ野郎」
完全にテンションが上がっている弟子と気怠げな使役獣の相手もそこそこに、俺は隣にいるネイドを見やった。
「本当にいいのか? こんな良さげな家に住まわせてもらって」
「ええ、もちろん。教会に加わる新たな魔導師として、セラウェさんは大いに期待される人材ですからね。それに何より、団長の意向もあるので」
「あ、そう……? そんな風に言われると、なんか恥ずかしいんだけど……」
俺、期待されるような人物では全くないんだけどな。いくら弟とエブラルのコネがあるとはいえ、すぐ首になったりする可能性が、ないわけでもない気がする。
会話をしていた俺達二人の間に、ロイザが割り込んできた。さっきまで眠そうにしていたのに、ネイドの前に立った奴の灰色の瞳の底が、急に揺らめき始める。
「おい、騎士。俺と遊びたくなったら、いつでも言え。相手してやる」
「俺はお前のように暇じゃないんだ。遊びたければ一人でやれ。……ああ、そうだ。団長に近づこうとするなよ。俺の数十倍は忙しい人だからな」
ネイドがロイザに釘を刺すように言う。え、本当かよ? あいつ今まで、結構自由に俺と変なことしてた気がするんだけど。むしろ側近のお前のほうが忙しいんじゃないのかと、一人で突っ込みを入れる。
「ふっ。まあ楽しみは後に取っておくべきか」
「……まったく、大人しくしていろよ。俺が後でドヤされるんだから……」
「えっ、あいつそんな事してくんの? しょうがない奴だな」
本音をちらりと覗かせた騎士に、つい率直に反応してしまった。するとネイドが一瞬戦慄した顔で俺を見た。
「セラウェさん今のは単なる愚痴なので、だ、団長にはどうか内密に……」
「言わないよ安心しろよ。つうかほぼ俺のせいだしな、はは」
こいつが団長の苛々のとばっちりを受けているとしたら、使役獣を抑えきれない俺の責任だもんな。なんか身につまされる思いがする。
「よかった……。あ、セラウェさん。領内では自由にして頂いて構いませんが、外出する際は許可が必要なので、本部受付までお越し下さい。……それと、その団長からの言伝なんですが、夜に自室まで来てほしいとのことです。よろしくお願いします」
気恥ずかしそうな顔をして告げるネイドを見て、俺も言葉に詰まった。え、何その表情。なんか、言わせたくないこと言わせてるみたいで、若干申し訳ない気持ちになるんだが。
「ああ、分かった。ありがとな」
平静を装って返事をする。……ああ、でも騎士の言葉を聞いて、また急に胸がズシンと重くなった。
そうだ。俺は今日、正直ずっと心ここにあらずだった。じきに始まる教会での新しい仕事については、無論うんざりする。住み慣れた家を離れ、ここでの新生活を迎えるということも、不安がないわけじゃない。
だがそんな煩わしい事さえ一気にどうでもよくなる程、これから弟に会って必要なことを告げるという事実が、容赦なく胸を締め付けてくる。
俺が本当のことを言って、あいつはどう感じるんだろう? どんな顔で、俺を見るんだろう?
繰り返し考えながらも、俺はなんとか静まらない心を落ち着かせようとしていた。
※※※
夜、一人で部屋に行くと、扉を開けたのはクレッド本人だった。すでに制服を脱いだ普段着の弟を目の前にして、ドキリとする。
俺を見るなり、いつもは冷静な弟の表情が少し緩んだ。すぐに中に招き入れられ、その腕の中に収められる。
「兄貴……」
ぎゅっと抱きしめられ、苦しいぐらいの抱擁を受けた。真正面から向けられる弟の素直な行動に、どう反応したらいいのか分からなくなる。
「お、おい……ちょっと、は、離せって……」
「嫌だ。こうするの、久しぶりだ……」
風呂上がりなのか、石鹸の良い香りがする。考えてみれば、ここに居た時は、よく弟の腕に抱かれていた事を思い出し、急に体が熱くなってくる。クレッドの唇が俺の頬に触れ、小さな音を立てて吸い付く。
「……会いたかった。ずっと兄貴のことを、考えていたんだ……」
また腕の力を強められ、囁くように告げられる。今そんなことを言われるのは、心がずきりと痛む。どうしようもない気持ちになりながら、俺は奴の服の裾を握った。
「クレッドーー」
顔を上げ、言葉を紡ごうとしたその口を、いきなり弟の唇に塞がれた。ぐっと押し付けられ、最初から余裕のないキスをしてくる。
「ん、んんっ……んむっ……は、ぁっ」
深く舌を絡め取られ、息苦しい。けれど与えられる気持ちよさに、段々と体の力を奪われていく。焦った俺は奴の服を引っ張って止めようとした。
「んん……」
名残惜しそうに口を離し、俺を見下ろす弟の扇情的な眼差しに息を飲む。今度は弟の唇がすぐに俺の首筋に這わされた。
「……ま、待って、お、い……! は、話があるんだ、クレッドっ」
「何? 兄貴……」
言いながらも、手を止めない。着ていたシャツのボタンに手をかけられ、まずいと思った俺は必死に抵抗する。
駄目だ、あれを見られたらーーその前に、きちんと話さなければいけないのに。
「や、やめろッ!」
大きな声を出したにも関わらず、あっという間に俺の服は半分脱がされ、上半身がはだけていた。肌に手が添えられ、優しい手つきで撫でられる。しかし、クレッドの動きが、ある一点を見つめて停止した。
「なんだ……? これは……」
俺のすぐ近くで、弟が呟く声がした。肩に刻まれた噛み後を見たのだと、すぐに分かった。
……ああ、嘘だろ。心臓が、ドクンドクンと異常な音を発して、目の前が急に真っ暗になるような感覚に陥る。
「兄貴……どうした、これ……あの獣、じゃない……よな……」
途切れ途切れに、俺に尋ねる。恐る恐る顔を見ると、怒るというより、青ざめているようだった。
動転した様子の弟に、用意していた言葉が頭から消え失せ、俺は瞬間的に、何を言うべきか分からなくなった。
「クレッド……」
言葉を見つけようとする。なんで言い出せないんだ。初めてあの男に襲われて、その事を告げた時とは、まるで違う。なんで今、こんなに苦しいんだ……。
でも、早く、自分の口で言わなければ。俺は大丈夫だから、心配するなと。だからそんな顔、するなとーー
「あ……あの男が、家に来たんだ。俺が寝ている時に……また、襲われ……そうに……」
決意とは裏腹に、声が震える。顔を上げて俺を見つめる弟の顔は、混乱に満ちていた。まるで、そんな事は信じられない、到底受け入れられない、とでも言うように。
「でも、お前が心配するようなことは、起こってない、……ロイザが来て、あいつを追い払って……だから……大丈夫だ、俺はーー」
「何が大丈夫なんだッ!」
急に怒鳴られ、俺はびっくりして弟を見た。赤くなった顔で、激しく息を上げながら、鋭い目で俺のことを見据えている。
「ーークソッ!」
俺から顔を背け、大声で悪態をつく。感情を抑えきれないとばかりに、拳が堅く握りしめられるのが目に入った。
「家に、戻さなければよかった……ずっと、閉じ込めておけばよかったんだ……ッ」
弟が強く眉を寄せながら、苦しげに言葉を吐き出す。どうして、俺は、何が出来るんだ。どうすればこれ以上、こいつに、こんな顔をさせないで済むんだ……?
苦痛に満ちた表情を見せる弟に、俺は震える手で背中に触れようとする。しかしクレッドは急に踵を返し、部屋から出て行こうとした。
「……お、おい、どこ行くんだよ! クレッド!」
俺の問いを無視して飛び出した弟を、必死に追おうとする。我を忘れたようにクレッドが向かった先は、俺が新しく与えられた住居だった。
乱暴にドアを開け、大きな足音を響かせながら、勢いよく中へ入っていく。
オズがびっくりした顔をして俺達を見ていた。クレッドはかまわず、すぐさまロイザの元へと近づいていった。
無言でロイザの胸ぐらを掴み、場がしんとなる。掴んだその手は、怒りで震えているように見えた。
「守ると言っただろうがッ!」
激高し、叫び声を上げる。静かに怒る様は何度も見たことがあった俺も、初めて目にする弟の様子に、言葉を失う。
ロイザはどこか冷たい顔つきで、クレッドのことを真正面から捉えていた。
「そうだな……取り逃がした」
「……貴様ッ……言うことは、それだけか!?」
表情を変えずに弟を見返すロイザに対し、クレッドの怒号が部屋に鳴り響いた。
「俺にあたって、満足か? いくら怒りをぶつけたところで、セラウェが狙われているのは変わりない。あの男を捕えない限り、終わらないぞ」
「……そんなことは……分かっているッ」
弟が悔しさを滲ませるかのように、拳を強く握り締めている。
「俺から言わせれば、どちらも大差ないが」
「……何だと?」
「欲しがるだけ欲しがり、感情のまま奪おうとする……お前とあの男、何が違うのだろうな……?」
ロイザの嘲笑する声が聞こえた。……は? 何を言い出すんだ、こいつはーー
クレッドは一瞬で血が上ったかのように、ロイザの胸ぐらに力を入れると、勢いよくその顔面を殴りつけた。
「……な、何してんだよ!」
弟の予期せぬ行動に愕然とした俺は、とっさに声を上げてクレッドの腕を引っ張った。顔を見ると、息を切らし、凄まじい形相でロイザのことを睨みつけている。
「なんだ? その顔は……殴らせてやっただけ感謝しろ」
表情を変えずに呆れたように述べるロイザの前で、クレッドは無言で立ち尽くす。何なんだ、どうしてこうなるんだ。体の芯が揺らぐように、くらくらと目眩がしてくる。
「ああ、悪い、オズ。……ちょっと二人にしてもらってもいいか」
「……は、はいっ。ロイザ、行くぞ」
静かに俺達の様子を見ていた弟子に声をかけ、部屋を出てもらうように促した。この状況を、早くなんとかしなければならない。
二人が居なくなったことを確認すると、俺は体のぐらつきを抑えながら、黙ったままの弟に視線を向けた。
「おい、大丈夫か? クレッド……」
弟は顔を手で覆うようにして、うつむいたまま無言でいる。今までと様子が違う。あんなふうに人を殴りつける弟を見たのは、初めてだった。
「兄貴……悪かった」
「……え? な、何がだよ?」
急に謝られ、驚いて顔を上げる。ロイザを殴ったことに対しての言葉じゃないと感じた俺は、戸惑いを隠せずにいた。なんで謝るんだ、どういう意味だ。足元が不安定になっていくのを感じながら、ただ弟をじっと見つめる。
「俺は、頭を冷やしたほうが、いいみたいだ……」
クレッドは目を伏せ、そう呟いた。さっきと打って変わって感情を乗せない声に、今度は俺の気持ちがじりじりと乱されていく。
弟が俺に視線を合わせることもなく立ち上がり、静かに部屋を去ろうとした。
「えっ、ま、待てよ! おい、クレッド!」
このままじゃ、駄目だ。俺は声を張り上げて弟の腕を掴み、引きとめようとする。たがクレッドは振り返らずに俺の腕を振りほどくと、そのまま黙って部屋を出ていった。
一人取り残された俺は、その場に呆然と立ち尽くす。
どうしてこうなってしまったんだ。またあいつを傷付けて、苦しめて。
これからもこんな事を繰り返すのか? どうすれば防げるんだ?
「……くそっ」
頭を抱えて、力なくうなだれる。
本当はもう、答えは分かっている。……けれど、俺にその覚悟があるのか? だって、呪いがとけたらどうなるんだ。俺たちは、どうなってしまうんだよ……
胸を掻き乱していく感情を抱えながら、俺は堂々めぐりの考えを止める事が出来ずにいた。
しかしいくら考えても、頭を悩ましても、無駄だったのかもしれないーー何故ならその日以降、クレッドが再び俺に触れてくることは、無くなったからだ。
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