▼ 111 ずっと一緒にいて
目が覚めると、隣には誰もいなかった。
温かいものに包まれて眠っていたはずなのに。飛び起きて、また急に言い知れぬ不安が襲い出す。
クレッドはどこ行ったんだ?
昨日は俺のもとに来てくれて、再びその腕の中に抱いてくれた。
完全には正気に戻っていなかったみたいだが、自分にも記憶が全て残っているわけじゃなかった。
少し目眩がした後、体に覚えのある痛みが走り抜ける。首を押さえ、ああ、また弟に噛まれたんだったと思い出す。
いても立ってもいられなくなった俺は、重い体を一生懸命起こし、ベッドから立ち上がった。
部屋の中を見ても弟がいない。廊下に出た後また室内に戻り、浴室へ入ったが見つからなかった。
途端に不安になり、涙が滲み出す。
また黙って居なくなったのか? 俺を一人にするのか。
唐突に湧き出す悲しみに暮れていると、扉の外から大きな声が聞こえた。
「兄貴、どこだ?」
焦るような声質が耳の奥まで響き、すぐさま浴室を飛び出た。
そこには驚いた顔をした制服姿の弟が立っていた。
俺は脇目も振らず駆け寄って行き、その胸の中に飛び込んだ。
「……クレッド!」
ああ、よかった。まだ近くにいてくれたんだ。
勝手に居なくなったりしてなかった。
見上げると、情けなくもまた涙が零れそうになる。だがそんな事よりも、俺は弟の背に回した手を、必死に離すまいとしていた。
「なんで……俺を一人にするなって言っただろ……」
決意とは裏腹に弱々しい声が出てしまう。
クレッドの体はまだ強張ったままで、蒼い瞳は俺を見下ろし揺らめいていた。
だがすぐにぎゅっと抱きしめ返された。
「ごめん、兄貴。屋敷の当主と話をしていたんだ。もう少しここで休ませてもらおうとーー」
弟は見るからに動揺していた。下着姿の俺を見やり、何を思ったのか急に身体を抱き上げてきた。
口を閉ざしたままベッドへと連れられ、シーツの上にそっと降ろされる。
大人しく横たわった俺の髪を撫で、つらそうな表情を浮かべた。
また離れようとした弟の挙動を見逃さなかった俺は、とっさに制服の端を掴んだ。
「どこ行くんだ? ここに座れよ」
俺は横を向いて体を起こし、目を見開いた弟を強引に隣に座らせた。
すぐに腰に腕を巻きつかせ、力の限り身動きを封じようとする。
「あ、兄貴? 何してるんだ。ちょっと、離して……」
「嫌だ。絶対に離さない。……俺はお前が居てくれないと、駄目なんだよ」
こうやって捕まえていないと、また俺の手をすり抜けてどこかへ行ってしまう気がした。
まるで甘えているようで、以前の弟と立場が逆になったかのようだ。
弟は俯いた俺の頭に優しく手を乗せた。
ふと昨日の荒々しさを思い出し、不思議な感覚になる。どうしたのだろう、クレッドはもう正気に戻ったのか?
恐る恐る顔を上げると、苦悶の表情をした弟と目が合った。
「すまなかった、兄貴。また、こんなに体を傷つけて……俺は許されない事を、何度もした」
その言葉には弟の後悔と苦悩が表れていた。
俺は体を起こし、向かい合わせになった。つらい思いに囚われている弟を安心させたくて、頬に手を当てる。
「大丈夫だよ。大したことじゃない。お前は何も気にするな」
本心で言った言葉に、弟はまるで信じられないものを見るかのように、驚愕の目を向けてきた。
確かに最初はびっくりしたし、呪いのせいとはいえ、弟が何か恐ろしいものに変わってしまったのかと思った。
だが今はもう、俺は全てを受け入れる気持ちになっていた。
大事なのは、何があっても一緒にいるということなのだと、すでに強く身に沁みていたのだ。
しかしクレッドは俺の態度に納得を示さなかった。
「何言ってるんだ。俺は、大切な兄貴を痛めつけて……近くにいちゃいけないんだ。もうしばらく、落ち着くまでは」
絞り出した声には苛立ちを浮かべ、視線を逸らそうとする。
だが俺はクレッドの頬を両手で挟み、自分のほうに向けさせた。
「でも今のお前は、落ち着いて見える。もう大丈夫なんじゃないのか?」
そう言って、俺はゆっくりと顔を寄せた。
本当はずっとこうしたかったのに我慢していた。弟は呪いのせいで自我が抑えきれないというが、俺だって今まで会えなかった分の思いは、そう簡単に埋められるものじゃない。
柔らかい唇に自分の口を押し付けると、弟の肩がぴくりと動いた。
もっと深い口づけをしたくなるのを堪え、名残惜しくも顔を離す。
頬を赤らめ、浅い息遣いを残すクレッドと視線を交わした。
昨日のことを思い出し、全身がぼうっと熱く燃え上がる感覚がする。
目をじっと見つめていると、魅惑的な色合いに囚われたかのように、体の芯まで熱を感じる。
「お前の目、もう薄い蒼色のままだ」
自然にそう呟くと、弟が瞬時に顔を強張らせた。手で隠すように顔面を覆い、急に立ち上がりその場を離れようとする。
焦った俺は身を乗り出し、引き留めようとした。
「待って、どうしたんだクレッド、待てってば!」
よろめいて後ろに倒れそうになると、弟ははっとなって咄嗟に俺の体を支えようとした。
ベッドに膝をつき、仰向けの俺に覆いかぶさるようにして見下ろすクレッドの表情は、まだ苦しげだった。
昨日から瞳の色を気にしている。
何を感じているのか知りたくなり、頬に手を伸ばしてそっと撫でた。
すると弟は俺の手に自分の手を重ね合わせ、ぎゅっと目を瞑った。
「……昨日俺の目の色が変わったの、分かっただろ? アルメアに呪いを受けてから、時々ああなるんだ。奴の話によれば、呪いと兄貴の魔力の力によるものらしい。……自我が失われそうになると、黒くなったり緑になったりする」
顔を歪め、躊躇いがちに告げられる。自分の変化に戸惑う様子の弟を前に、胸が締め付けられる。
俺は少しでも痛みの感情を和らげたくて、言葉を紡いだ。
「そうだったのか。不安だっただろ。……でも、大丈夫だ。ずっとそうなっているわけじゃないと思う。あんまり気にしすぎないほうがいい。魔力譲渡はそもそも特異例なんだ、予期せぬことが起きる場合もあるんだよ」
魔術を扱い色々な経験を経てきている俺とは違い、もともと魔力が少なく馴染みの無い弟にとっては、自分が異物になったかのような恐怖があるのだろう。
慰めになるのか分からないが、安心させたくて、なだめるように背中をさすった。
まだ黙って動揺しているクレッドに向かい、俺は話し始めた。
「俺、お前の夢見たんだ。俺と同じ目の色になって、なんでか嬉しそうな顔してた。都合がいい夢だけど、不思議だよな」
些か突拍子もない話に聞こえただろうが、俺は何気なく自分の体験を口にした。
驚いて目を丸くする弟の顔を、優しく撫でる。
「……兄貴、俺が気味悪いって思わないのか?」
「なんでだよ、思わないよそんな事。……つうかお前、やっぱり俺と同じ目の色嫌なのか?」
論点がズレているような気がしたが、思わず気になったことを尋ねた。
するとクレッドは大きく狼狽してみせた。
「嫌なわけ、ない。兄貴と一緒なら、何でも嬉しいよ……」
力なくそう言った弟の瞳が揺れ動いている。
本当か? 疑いの目を向ける俺の上に、クレッドは突然自分の体重をどさりと乗せてきた。
「んぁあっ! 重いだろッ」
気が抜けた様にいきなりのしかかられ、息苦しさに喘いでしまう。
重さのある上半身を受け止め、訳がわからないまま背中をぽんぽんと触る。
てもなんだろう。夢と同じことを言ってくれたことが、すごく嬉しい。
それにいつの間にか、普段と同じように会話をする弟が愛しくて、甘えるように抱きつかれていることが幸せで、俺は無性に自分の感情を曝け出したくなった。
「ああ、すげえ気持ちいい……。やっぱお前、もう俺から離れるな。噛んでも凶暴になっても何でもいいから、二度と俺から逃げようなんて、考えるなよ」
ここ最近の自分の女々しさを忘れたかのように、強気に主張した。
その間ももう絶対にこいつを離してやるものかと、体をぐっと抱きしめたままでいる。
「兄貴……」
俺の肩に顔を埋めていたクレッドだったが、やがてゆっくりと頭を上げた。
瞳が潤み出し、あどけない顔つきで俺を見ている。
子供のように幼い面影を残していて、なんだか懐かしい。そこにはもう荒々しく凶暴な弟の姿は感じられなかった。
でももうどっちでもいい。俺はどんな弟でも、一緒に居てくれればそれで十分なんだ。
「兄貴。俺、もう兄貴のこと噛んだりしない。傷つけない。約束する」
「……それは良いけど、別に約束しなくていいよ。またそうなった時、お前すごく落ち込むと思うぞ」
俺の指摘に、弟がみるみるうちに自信なさげな顔になった。
虐めるつもりはなかったため焦った俺は、さりげなく頭を優しく撫でる。
「それに、俺……お前に痕つけられるの結構好きかも」
「……は?」
「なんだよその顔、俺は別に変な意味で言ってるんじゃないぞ」
ムッとして無駄に反論しようとすると、弟が体を半分起こした。まだ裸の俺の上半身を見て、眉間に深い皺を寄せる。
時折鬼畜な面を見せる弟だが、騎士として正義感の強いこいつはきっと、自分のしたことが許せないのだろう。
「本当に気にするなよ。前にお前につけられた傷跡だって俺、別に嫌じゃなかった。五日ぐらいで消えちゃったけどな」
俺は弟の気持ちを和らげようと話を続けようとしたが、眉を吊り上げた弟を見て、すぐに逆効果だったと気がついた。
「何、言ってるんだ兄貴。……治癒魔法を使わなかったのか?」
「使ってないよ。別にいいだろ、俺の勝手だろ」
自分がした行為のくせに、途端に驚きが混じった怒り顔で迫られ、俺もカチンと来た。
「……だって俺は、ずっと寂しかったんだ。お前に触れることも出来ないし、触ってももらえないし、体の痕見てお前のこと思い出したって別にいいだろ……っ」
呆然と目を見張らせた弟に構うことなく、俺はぺらぺらと勢いが止まらなくなっていた。
まるで積もりに積もった寂しさが爆発してしまうかのように。
情けないが、相手は自分の弟だ。いまさら取り繕わなくてもいいだろう。
いつの間にか、俺は開き直っていた。
「ち、ちなみにこの傷だって治すつもりないからな、俺の好きにさせろよッ」
恥ずかしげもなく喚き散らし、自分の主張を押し通した。
これについては文句を言われる筋合いはない。
だって俺はそれだけ、こいつのことを愛しいと思っているんだ。誰に何を言われようと、その気持ちは止められない。
心の中で開き直り、興奮状態で黙りこくる。
すると静かになったクレッドの指先が俺の顎に触れた。上向かせられ、真剣な眼差しをする蒼目に完全に捕らわれる。
ゆっくりと顔が近づいてきて、弟から口づけをされた。
何度も角度を変えて、久しぶりに優しい蕩けるようなキスを与えられる。
興奮していた心がすうっと穏やかに落ち着く一方で、体の奥はまた疼きを抱え始めてしまう。
ぼうっと視線を合わせていると、弟が口を開いた。
「……ああ。どうしてこんなに、かわいいんだろう。俺の兄貴は……」
ぽつりと呟き、未だ混乱を浮かべた瞳で見つめられた。
俺は顔がきっと真っ赤になっているだろう。まともな反応が出来ない。
けれど久々に言ってもらえた言葉だ。
こいつに可愛いと言われると、前は恥ずかしさのあまり無視しようと努めていたのに、今では嬉しくてたまらなくなる。
「かわいい兄貴。愛してるよ」
そんな俺にたたみかけるように柔らかい笑みを向けられ、頭が大きくぐらついた。
ああ、また目が濡れてくる……必死に堪えて俺も応えようとした。
昨日初めて愛を伝えあった時のことを思い出して、さらに胸が熱くなる。
「俺も愛してる、クレッド」
抱きついて、抱擁を与え合う。
それは伝えうる限りの最上の言葉だと思っていたのに、気持ちを表すには物足りなささえ感じた。
溢れ出る思いを急激に募らせていく。
「クレッド。ずっと俺と一緒にいて……もう、離さないで」
「こんな俺でも……いいのか?」
「……当たり前だろ。俺はお前がいいんだ。お前以外、欲しくないんだ」
改めて言葉にすると、心が燃え上がるように輝きを灯し出す。
「俺も、兄貴だけだよ。お願いだ。ずっと、俺のそばにいてくれ」
愛おしそうに見つめられ、大きな手で髪を優しく撫でられる。
幸せだ。
俺には弟が必要で、弟も俺を必要としてくれている。
あんなにつらかった思いが、みるみるうちに幸福に包まれていく。
愛しくて、身を焦がすような思いが、俺たちにさらに大きな愛を見せてくれる。
クレッドは再び顔を上げ、俺のことを真っ直ぐに見つめた。決意を秘めた顔にドキリとする。
「兄貴。呪いをとくぞ」
「え?」
「俺の家に来てくれ。二人で必ずこの呪いをといてやる。それが終われば、俺達はまた誰に邪魔されるでもなく、二人で愛し合うことが出来る。……そうだろ?」
弟の瞳にめらめらと揺らめく炎を感じ、その気迫に驚く。
クレッドの家と聞いて、一瞬つらい記憶が脳裏を過ぎった。
でも、きっと大丈夫だ。再び弟を手にした俺には、もう恐れるものなんて何もない。
俺はしっかりと顔を頷かせた。
そうだ。二人で力を合わせて、この呪いをといてみせる。
その先にはきっと、さらなる幸福が、俺達兄弟を待ち構えているはずなのだから。
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