▼ 107 傷痕が残したもの
クレッドの家から戻った翌日、俺は洗面台の鏡の前にいた。風呂上がりで下着姿のまま、鎖骨下の傷跡を確認する。
何度も弟に噛まれた場所は、赤く腫れ上がっていた。水もしみる程痛みもまだ残っている。
その周りには愛撫によってつけられた、薄く紅に染まった痕も見られた。
こんな風に肌に痕を残されたのも、初めての事だった。
昨日の強暴じみたクレッドの行為を思い出しながら、手でそっと触れた。体の内側はまだ弟を求め、変わらず疼いている。
会いたくてたまらない。拒絶されても追い返されても、沸き起こる気持ちは抑えられなかった。
思考はぐるぐると巡っている。弟の家から出てきた女性のことも頭から離れなかった。
でも何かの間違いに決まってる。俺のことが好きだって言ってくれたんだ。
俺だけのものだって、言ってくれた。だから、信じている……
あいつに何が起きたのかは分からない。だが、間違いなく呪いの儀式のせいだ。
何とかして早く原因を突き止めなければならない。
気持ちが急かされる中、背後の扉が無造作に開かれる音がした。
「……なんだよロイザ」
無言で突っ立って俺をじろじろ見ている使役獣に、鏡越しに視線をやる。
「中々痛々しい傷跡だな。何故治さない?」
冷ややかな声で尋ねられ、目を伏せる。
あいつに避けられて会えない今、何か繋がりを感じる証が欲しかった。
粗暴な振る舞いによってつけられた印だ、馬鹿馬鹿しいのは分かっている。でも俺にとっては、慰めのようにも感じられた。
「別にいいだろ。クレッドが正気に戻ったら、見せつけて怒鳴ってやるんだよ」
投げやりに言うと、ロイザは鼻で笑った。それまで残っているか分からんぞ、と続けて心を抉ることを言ってきたので、睨みつけて無視した。
服を着終わり洗面所を出ようとすると、強引に腕を掴まれた。
「どこかへ行くつもりだろう、セラウェ」
訝しげに問われ、じっと見下される。何故か触れられた箇所から、ぞわりと何かが走った。
突然襲った違和感に俺は焦り、バッと手を振り払った。
「……決まってんだろ、師匠のとこだよ」
混乱が残ったまま、平静を装い返事をする。
ロイザの眉がぴくりと反応したが、俺は構わず言葉を続けた。
「あのおっさんに知ってること吐かせてやる。それに、クレッドに何かしたのかもしれねえ」
予測にしか過ぎないが、八つ当たりでもなんでもいい。強気に言ってみても、最強の師匠に俺が出来ることなんて、微々たるものだと知っている。
だが何もせずにはいられない。心の中は、常に弟への焦燥と渇望に支配されていた。
「ロイザ。お前は来るな」
「またそれか? まったく、俺は何の為に居るのだろうな」
廊下へ出る俺の後を追いながら、使役獣が不平を漏らす。
師匠のもとへ行くのは俺一人でいい。こいつは万一の時、あの男に逆らうことが出来ない。それに被害は最小限に留めるべきだ。
俺は何故か、無性に自分の師への敵対心を募らせていた。
しつこいロイザを振り払い転移魔法を使おうとしたところ、家のベルが鳴り響いた。
弟子が朝早くから教会に呼び出され、不在だったことを思い出す。
もしかして、クレッドか? 昨日の今日で有り得ないと思いながらも、俺はすぐに玄関へと向かった。
だが扉の外に立っていたのは、獅子を思わす黄金色の髪をなびかせた、山のように大きな男だった。
「……師匠。なんでここにいるんだ」
唖然とするよりも先に、会いに行く手間が省けたと、冷めた気持ちで男の顔を見上げる。
一方で沸々と沸き起こる気の高ぶりを、必死に抑えようとしていた。
だが無言で仏頂面だった師匠の顔が、徐々に眉間に深い皺を刻み出し、俺に憤怒の表情を見せた。
「お前こそ何故ここにいる? セラウェ」
凍てついた様な声質で問われるが、男の苛立ちは即座に俺の背後に向けられた。
家に押し入り、肩を押しのけてきた師匠が掴みかかったのは、使役獣の胸ぐらだった。
「ロイザ。拘束を解くなと言ったはずだ」
「命令には逆らえん。今の俺の主はセラウェだ」
「ほう? それでお前は、主を無事に守りきることが出来たのか」
使役獣が無言になると、奴の体を乱暴に解放した師匠は、口元に素早く短い言語を呟いた。
目の前で褐色のロイザが強制的に白虎の姿へと変わる。
どういうつもりなのか知らないが、自分の使役獣を意のままに操られたことに、強い反発を覚えた。
けれど今は冷静に聞き出さなければならない。
鋭い眼に捕らえられ、俺も怯むことなく、真っ直ぐに瞳を見つめ返した。
「どういう意味だ。俺の弟から守るってことか? 師匠、なんでクレッドはあんな風に変わっちゃったんだ。知ってる事を話してくれ」
極めて落ち着き払い尋ねたつもりが、眼前に険しい顔が向けられ、更なる怒りを買ったことに気がつく。
「てめえ、あの野郎に会いに行ったのか」
「そうだよ。何か悪いか?」
苛立ちが募り反抗的に聞き返すと、師匠は突然俺の服を掴み、乱暴に捲し上げた。
咄嗟のことに仰天するが、抵抗する間もなくあっという間に上の服をむしり取られた。
「なっ何してんだこの変態ッ、服返せ、セクハラジジイ!」
何の断りもなく玄関先で裸にされた状況に混乱をきたし、激しく抗おうとした。
だが反対に両腕をがっちりと掴まれ、身動きを封じられる。師匠の険しい顔つきは、俺の鎖骨付近を凝視していた。
「おい、なんだそれは」
凍てつくような声質を浴びせられ、思わず言葉に詰まり視線を逸らす。
すると突然、師匠の指がそこに触れられた。なぞるように撫でられ、意図せず体が仰け反ってしまう。
「……ッ、や、めろ」
なんで触ってくるんだ?
意味が分からず睨みつける。だが目の前の妖術師は、真剣な顔で俺の首筋やら鎖骨の傷跡を撫で始めた。
何かを探りながら、反応を確かめているように見える。
「ぅ、うぁ……っ」
おかしな手の動きに我慢出来ず声を漏らすと、琥珀色の瞳がじろりと俺を捕らえてきた。
「妙な声出すんじゃねえ」
苦い声で吐き捨て、動きを止める。ひと呼吸おき、脱がせた服をいきなり俺に投げつけた。
気まずさと腹立たしい思いを感じながら、急いで服を着る。
師匠は依然として俺を厳しく見つめ、考え事をしているようだった。
「いいか、しばらくあいつに会うな」
「……なんでクレッドと同じ事言うんだ。何があったのか教えてくれ」
「呪いの内容はお前の弟と魔術師しか知らねえよ。だがな、あの儀式後、あいつは即座にお前に襲いかかったんだ」
その台詞はごく落ち着いた声で告げられたが、俺の心をかき乱すには十分な威力を放っていた。
「襲うって……どういう事だ。その時も、凶暴化してたのか?」
「ああ。目覚めてすぐお前の首筋に噛みつきやがった。すぐにエブラルが拘束魔法をかけて奴の動きを封じたが……アルメアによれば、呪いを二重に受けたせいで自我の均衡が一時的に侵されたみたいだ」
予期せぬ事実を知らされ、言葉を失う。
自我が暴走したとでもいうのか? その時の傷はすぐに治療されたようだが、俺はそんな事態にも関わらず、呑気に昏睡状態に陥っていた事を痛烈に恥じた。
師匠が言うには、それほど俺の魔力の消耗が激しかったらしいが。
「じゃああいつの理性は、まだ部分的に失われてるのか。……でもいつか元に戻るってことだよな」
「だといいがな。あの野郎、俺の拘束を簡単に解きやがって、再度強力な術式を施してやったんだよ。お前からも遠ざけてな。なのにわざわざ自分から餌になりに行くとは、お前はどれだけ馬鹿なんだ」
呆れた口調には苛立ちも含まれている。だが俺の胸の奥底は、例え様のない苦しさに満ちていた。
「だってしょうがねえだろ……止められないんだよ」
「呪いのせいだろ。お前、前より我慢できなくなってんじゃねえのか」
不意に自分の状況を見透かされた気がして、体が強張ってしまう。
「……違う、呪いのせいじゃない」
声を振り絞り否定はしたものの、増していく欲求への強まりは確かに感じていた。
だが弟への気持ちを抑えることなんて出来ない。それは確かに心から自然に溢れ出るものだからだ。
「とにかく大人しくしてろ。あいつには近寄るな」
師匠の言い分は頭では理解できる。俺の事を考えて言ってくれているのだという事も。
にも関わらず俺は黙り込んだまま、答える気はしなかった。
ひどい顔をしていたのかもしれない。師匠は俺の髪をぐしゃっと無造作に掻いた。
「どうしても我慢出来ねえっつうのなら、俺がお前を監禁してやろうか」
不敵に笑いかけられ、いつもの食えない男の表情を、改めて目の当たりにする。
半分以上本気に見える口ぶりに、ぞくりと寒気がすると共に我に返った。
「冗談じゃねえ。あんたよりも、まだ凶暴化した弟のほうが怖くないよ」
「あのな、お前は甘すぎんだよ。もっと酷い目に合わなきゃ分かんねえのか」
その言葉に込められているものが、強い非難だけではないことぐらい、分かっている。
けれど、クレッドに会えない今より、辛いことが有るのか?
師匠にそんな事を問いただしても、何の意味もない。でも俺はもう正直、どうすればいいのか分からなくなっていた。
クレッドのことが心配でたまらない。心の底では、あいつが一番不安に決まっている。
俺は弟の様子が落ち着くまで、待つことしか出来ないのだろうか。
別に傷ついたっていい。自分がどうなったって構わないから、そばにいてやりたい。
たとえ望まれなくとも、近くにいて抱きしめてやりたい。
何度師匠に念を押されても、一度強く抱いてしまった感情が、変わるはずもなかった。
◆
俺はその日の夜から、自分の部屋で寝ることを止めた。
夜になったら、騎士団本部の最上階にあるクレッドの部屋に行く。もちろん誰もいないし、物音一つしない。
そこで寂しく長い夜を過ごす。
弟子には奇妙な行動を心配され、使役獣には呆れられた。
そんなロイザには魔力供給を直接行い、添い寝できないことへの埋め合わせもした。
自分でも何をしているのかと思う。未練がましく女々しい行動をしていると分かっている。
だがいつか俺のところに戻ってきてくれる。そんな期待を胸に秘めていた。
五日間ほどそうしてみても、クレッドは帰ってこなかった。
きっと家に留まっているのだろう。師匠の話ぶりでは、ほぼ監禁状態となっているのかもしれない。
俺はあれ以来、弟の家には向かわなかった。
師匠に言われたからじゃない。今のクレッドのもとに無理やり押しかけても、意味の無い事だとどこかで気がついていたのだ。
ベッドからは弟の匂いがあまりしなくなっていた。
虚しさを埋めるように布団に包まるが、さらに寂しい気持ちが募る。
急にいても立ってもいられなくなり、俺は起き上がった。
寝室を出て居間に向かう。領内の庭園が望める大きなガラス扉を開け、外のバルコニーに出た。
上着を羽織り、まだ冷え込む夜の下、広い空を見上げた。
この間同じ部屋から二人で見た星空を思い出す。あの時は、今こんな風に一人ぼっちでいることなんて、全く想像していなかった。
途端に気持ちが塞ぎ込み、自分の好きな星を見ていても悲しくなってくる。
目線を下に落とし、庭園を眺め始めた。
すると、何やら人影が見えた。所々に小さな照明が灯され、外は真っ暗ではない。
だがはっきりとその黒い影が何なのか、分からない。
もしかして、クレッドが来てくれたのか?
そんな事を考えながら、バルコニーの柵に手をかけた。身を乗り出し、自分を下から見上げているように見えるそれを、確かめようとする。
「クレッド、お前なのか?」
深夜なのに、やや大きめの声で影に向かって問いかけた。
すると影はまるで黒い衣を翻したかのように、ぐるりと回って姿を消してしまった。
なんだ? 幻じゃないはずだ。
俺は不思議と何の違和感も恐怖も感じず、おぼろげに影の跡を眺めていた。
だがその後すぐに、背中にふわっとした温もりが伝わるのを感じた。
まるで何かに後ろから抱きしめられてるかのように、心地良い感触が広がる。
「お前、近くにいるんだろう?」
俺は独りで何を言っているんだろう、気でも触れたのか。
一瞬そう思ったが、落ち着いた声で問いかけていた。
すると、耳元で声が聞こえた。
「そうだよ、俺はそばにいるよ。ほら、振り向いて」
届いたのは確かに俺の好きな、弟の声だった。
言われた通り振り向くと、目の前には背の高い男が立っていた。
ガラス窓から差し込む部屋の小さな明かりに、微かに金色の髪が照らされる。
「クレッド! 来てくれたのか? 良かった……もうどこにも行くなよ」
俺は嬉しさのあまり、思わず全身を使って抱きしめた。
今度は背にきつく腕が回される感触がした。
ドキドキしながら顔を上げると、弟の顔があった。優しい微笑みを向けている。
いつの間に部屋に入ってきたんだろう? 何の音も聞こえなかったけど。
ふとした疑問も些細な事に感じられるほど、俺は幸せな気分に包まれていた。
「あれ、どうしたんだ。お前の目の色、いつもと違うな」
色素の薄いはずの蒼い瞳が、緑色に見えた。
なんだかおかしい。深い緑の色を映し出しているようだった。
弟はにこりと笑った。手を伸ばし、俺の髪にそっと触れ、気持ちの良いくすぐったさを感じる。
「俺の大好きな、深緑の色だ。まるで兄貴と同じみたいだろ?」
嬉しそうに話す弟の顔は、途端に幼げで、子供のときのクレッドと重なる。
俺は急に愛しさが込み上げてきて、また奴の胸に抱きつく。
「俺と一緒で嬉しいのか?」
「当たり前だ。何でも兄貴と一緒がいい。だって、大好きだから」
「本当に? 俺もお前のこと、大好きだよ。だから早く、俺のそばに帰ってこいよ」
自分の言葉が急に脈絡のないものに感じ、はっとして顔を上げる。
弟は少し悲しげな笑みを浮かべていた。
何も答えずに、体を離そうとする。俺は得も言われぬ寂しさを感じて、引き止めようとした。
だが弟は消えてしまった。その時の光景は、まるでさっきバルコニーから見ていた影の消え方と同じだった。
「嫌だ、行くな! まって、クレッド……!」
縋るような言葉が耳の奥に木霊する。
頬が濡れた気がして触ってみると、自分の涙だった。
途端に悲しみが襲い、いつの間にか閉じていた瞳をゆっくりと開ける。
目の前に飛び込んだのは、見慣れた天井だった。
ああ、そうか。
ここは弟の部屋の、寝室の風景だ。
「夢……? なんで……?」
俺は布団にくるまり、誰もいない隣に体を向けて、音もなく泣いていた。
クレッドが恋しい。
恋しいあまりに夢にまで出てきたのか。
幸せだった気持ちが、狂おしいほどの切なさに覆われていく。
手の甲で濡れた頬を拭いながら、俺のことが大好きだと言ってくれた弟の顔を、ただ一心に思い出していた。
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