▼ 103 呪いの展望
俺は団長室の前にいた。時間はまだ正午を過ぎたばかりで、いつも昼食を取るのが遅めの弟は、きっとまだ部屋の中で仕事をしているだろう。
時を見計らったかのように、一枚の書類を手に分厚い扉に手をかける。
つい先程弟子のオズが「クレッドさんにこの紙、提出しに行かなきゃ」と慌てていたので、俺はさりげなく自分が代わりに行ってやると申し出たのである。
理由は単に奴の顔が見たいからだが、面倒くさがりの俺がこうも積極的に行動するなんて、最近自分でもちょっと異常だと思う。
「おいクレッド、いるか?」
平静を装いながら部屋の中へと入った。すると、ドタっと大きな物音がした。
正面の書斎机には誰もいない。訝しんで部屋の奥に目をやると、テーブルの前にあるソファの背に弟の後ろ姿が見えた。
「兄貴……!」
「お前そんなとこで何やってーー」
ぎくりと焦った顔に異変を感じ取った俺は、ソファの背後から中を覗き込む。するとすぐ下の床に座り込んだ少年の姿があった。
黒髪に黒ローブをまとった魔術師、アルメアだ。
まさかの人物に唖然とするよりも、奴がクレッドの制服のズボンに手をかけ、引きずり降ろそうとしている場面が目に焼き付いた。
「て、てめえ……俺の弟に何してやがんだ、このクソガキ!」
頭に血が上り掴みかかろうとすると、咄嗟に立ち上がった弟に体を抑えられた。
そのまま何故か奴の腕に抱きとめられ、背中をそっと撫でられる。
「大丈夫だから、落ち着いて兄貴。またこの男が呪印を確認しようとしていただけだ」
急に優しい蒼い瞳に見つめられ、なだめるように語りかけられる。……えっ。ああ、呪いの印か。
その言葉に我に返り、すっと気持ちが落ち着いた。
どういうわけか知らないが、最近の俺はこいつの事になると、何でも過剰反応をしてしまう事が多い。
「そうだよセラウェ。もう何回もやってることだ、いちいち目くじら立てないでくれるかな」
「おい貴様……余計な事を言うな」
溜息をつきながら立ち上がる魔術師に、弟が焦りの混じった視線を向ける。何回もって何のことだ。
俺は弟から体を離し、じっと目を覗き込んだ。
「こいつに何度か会ったのか?」
「……え、ああ。そうだ」
「なんで俺に言わないんだよ! お前ら俺の知らないとこで何やってたんだ!」
苛立ちが抑えきれずつい声を荒げてしまう。するとクレッドの瞳が揺れ動き、俺の両肩に手を置かれた。
「悪かった。兄貴に余計な心配かけたくなかったんだ」
「……それは分かるけど、俺だってお前が心配だよ。それにこれは俺達二人の呪いだろ? 何かあった時は俺にも話してくれ」
「分かった。そうするから、ごめんな。これからはちゃんと言うから」
クレッドは俺の勢いに押されたのか若干の動揺を見せていたが、安心させるように微笑みを浮かべると、そっと頭を撫でられた。
さっきからどっちが兄なのか分からない互いの振る舞いに、どこかバツの悪さを感じながら、一部始終を見ていた魔術師に視線をやる。
不本意ではあるが奴には呪いのことで世話にならなければならない。俺は心を落ち着かせ、クレッドと共にソファの向かいに座った。
この間行われた呪いの相談の時のように、嫌な思い出が蘇る。
「悪かったな、アルメア。最近俺、気が立ってるみたいなんだ」
「そう。おかしくはないと思うよ、呪いの影響もあるだろうし。きっと頭の中も弟のことでいっぱいなんだろう?」
自然と放たれた指摘に、うつむきがちだった顔を上げる。一瞬図星という言葉が浮かんだが、なんとか冷静さを保とうとした。
「いや、別に呪いのせいじゃないぞ。結構前からそうだしな」
そう呟くと、クレッドはどこか嬉しそうな顔を向けてきた。気恥ずかしさを覚えつつ、次の言葉を探す。
すると魔術師は再び俺の心を激しく動揺させるような事を言ってきた。
「なるほどね。君が確信してるなら別にいいんだけど。ところで、最近どうなんだ? 君の乱れ具合は」
「……はい?」
「何その呆けた顔。僕は真面目に聞いてるんだ。性交における媚薬の影響が進んでるかどうか。前よりもっと酷くなった?」
せ、性……え、何? そんなはっきり俺達兄弟の性生活について聞いてくるのか。
何故俺がこのクソガキにそんな事を報告しなければーー
「お前が考えているほど兄貴は乱れていない。どういう事か説明しろ」
極めて冷静かつ威圧的な声が隣から発せられ、俺は口をあんぐりと開けてしまう。
こういう時、こいつの何事にも物怖じしない態度が羨ましい。
二人は俺をおいて、何やら耳を塞ぎたくなる事を話し始めた。
話が進むにつれ俺の顔面蒼白で挙動不審な態度を心配されたのか、クレッドから両耳をがっしりと塞がれた。
目眩が襲い来る中固まっていると、やがて無音状態から解放された。
「へえ。回数も結構いってるね。クレッド、凄いな君」
「……兄貴の前だぞ、口を慎め」
おい何を喋ってたんだよ。
もう無理。俺がいくら弟の前で乱れてしまったとしても、こんな他人の前での辱めには耐えられない。
「それで新しい呪いで上書きしてくれるって話はどうなったんだよ、アルメア!」
ヤケクソで叫ぶように尋ねると、魔術師の少年の顔が曇りだした。
「うーん。印を調べてて感じたんだけど。僕の魔力じゃちょっと足りないみたいだ。クレッド、いやセラウェもだけど、君たち不思議な力を体内に宿しているだろう?」
真剣な顔で問いかけられ、俺達兄弟は顔を見合わせる。
けれどすぐに合点がいった。二人に共通するものといえば、俺達が所属するリメリア教会の守護力、「聖力」に違いない。
クレッドはすぐに認め、アルメアにその力の意義と効果を説明した。
「お前の言い分では、呪いの付与に対して、聖力の存在がまるで邪魔になっているかのようだな」
「うん。実はそうなんだよね。君も知っての通り、炎の魔女タルヤの魔力は一族の中でも強大だった。その死に際に与えられた恐ろしい呪詛というわりに、君たちはごく普通の生活が送れているように見える。本当ならもっと爛れた欲望に全てを吸われ精魂尽き果てて、身も心もボロボロになっていてもおかしくないんだよ」
少年は俺達を見据え、不思議そうな面持ちで告げた。もの凄く恐ろしいことを言われている気がする。
「クレッドは元々精神力が高そうだけどね。なんにせよ、僕はそれが二人が好き合ってるせいだ、というだけではないと思うんだ。おそらくその聖力っていう守護の力が呪いに効いてるんだろう。それは本来良い事だが、新しい呪いの上書きをする際にも問題が生じる」
俺は弟から聖力を授かった儀式の時のことを思い出していた。
あの時の自分の様子は記憶に残っていて、どうしようもない程の乱れっぷりを披露していた。両手足を拘束されていて心底良かったと思うほどだ。
ふと考えると、あの時聖力と呪いの力が体内で拮抗していたのではないかと感じる。理屈は分からないが、反動で俺への催淫効果をもつ呪いの影響が外に現れてしまったのかもしれない。
「じゃあ結局、魔力が足りないってことだよな。どうすりゃいいんだ。俺の魔力じゃ役に立たないか?」
「セラウェ。どこの世界に自分に呪いをかける魔導師がいるんだよ。それに、呪いを付与する本体は君の弟だ。君にそんな惨いことが出来るのか? 効果だってクレッドにしか教えられないしーー」
畳み掛けるように言って、急にアルメアが口を閉ざした。顎に手を当て黙り込んで、何かを思案している。
「いや、待てよ。……いいかもしれない。タルヤの呪詛を上書き出来るのは同じ血族の僕だけだ。だが魔力譲渡は近親のほうが行い易く馴染みもいいだろう。聖力がどう影響するのかは未知数だが、セラウェの体を媒介にして、対象への呪いと譲渡を同時に行えばーー」
ぶつぶつと述べ始める魔術師の前で、机が物凄い音を出して叩かれた。
「おい、兄貴の体を……媒介にするだと? そんな危険なことをさせられる訳がないだろッ!」
「また怒ってる、血管切れるよ。でも一番良い方法じゃないか。ねえセラウェ」
青筋が浮かんでいる弟の鋭い目と、嫌らしい笑みを浮かべる少年の瞳が俺に注がれる。
クレッドには悪いが、俺は心の中で沸き立つものを感じ始めていた。
「ああ、いいと思うな、それ。出来るんならやってみてくれ。頼むアルメア」
「……何言ってるんだ、冗談だろう、兄貴」
こいつが信じられない顔をするのも無理はない。でも珍しく、俺の決意は固かった。
「本気だ、クレッド。俺が出来ることがあるのなら、自分の手でやりたい。早くこの呪いを解いて、俺の純粋な気持ちをお前に証明したい。呪いが解かれた後も……俺は、お前とずっと一緒に生きていきたいんだ」
俺は真剣な表情で、今まで口にしたことのない思いを告げていた。
それはもはや色々な域を超えてしまっているような発言だったかもしれない。
だがそれほどまでに強い思いに突き動かされていた。本当は二人だけの時に言いたかったが、致し方ない。
弟は驚愕の表情で、微動だにせず俺のことを見ていた。
厳しかった顔つきがみるみるうちに覇気をなくしていく。
「……兄貴。俺もだ。……俺も兄貴とずっと一緒に生きていきたい。これからもずっと、そばにいる。こんな呪いがとけた後でも、絶対に離れたりしない」
クレッドの熱のこもった言葉を聞いて、頭がぐらついた。
自分で言い出したことなのに、こいつは更に多くを返してくれる。いつもそうやって、俺の心を温めてくれる。
「クレッド。ありがとな、俺嬉しいよ」
とめどなく溢れそうな気持ちを堪え、俺は微笑みを向けて頷いた。
……やべえまた二人の世界始めちゃうとこだった。でも今度ちゃんとした場所でもう一度言いたい。
そう思いながら目の前で静かに俺達を見やる魔術師に向き直り、新たなる決意を表明する。
「じゃあやろう。いつでもいいぞ、アルメア!」
「急にやる気が出たね。でもちょっと待って。一応僕の友人にも意見を聞いておこうと思ってね。同じ呪術師だから」
僕の友人? それってあの同じぐらい不気味な空気を漂わせている少年、いや実は中年の男のことか?
そういやあいつの呪いどうなったんだろう。まだ師匠につきまとってんのかな。
「ちょうど騎士団領内にいることだし、今から三人で行ってみようか。エブラルのとこに」
魔術師の何気ない提案に、とっさにクレッドを見やった。すると俺と同じく眉間に皺を寄せていた。
なんだろうな、とてつもなく嫌な予感がする。呪いの解決方法の糸口が見つかり、前向きになりかけていたのに。
うだうだ考え始めそうなところに、アルメアの転移魔法の詠唱が響き渡る。
俺達はあっという間に、呪術師エブラルの研究室へと転移させられた。
目を開けると、三人は淡い橙色の照明が灯る、静かで落ちついた空間の中に立っていた。広い部屋の中は多くの書物と質の高そうな家具類が並び、俺が以前訪れた時と同じく、中央には机を挟んで二つのソファが配置されていた。
アルメアがずかずかと歩き出し、部屋の奥にぽつんとある不自然な扉へと近づいた。
「エブラル、兄弟の呪いのことで話があるんだけど。君の意見を聞きたいんだ。ドア開けるよ?」
はっきりとした口調で喋りながら、扉に手をかける。するとすぐに中から呪術師が出てきた。
しかし、その常に嫌味なほど麗しく冷静な顔立ちが、俺とクレッドのことを見た途端に青ざめる。
「アルメア、何故ここに。今取り込み中だ。出て行ってくれ」
外見は少年でありながら明らかに低い声色で、どこか焦った顔で告げる。
その様子をおかしいと感じると同時に、呪術師の背後から、決してその場で会ってはならない人物の姿が現れた。
「……呪い? なんだそれは。……おう、セラウェ。お前こんなとこに何の用だ」
聞くものを震え上がらせる荒削りな声質とともに、金髪金眼の巨体の男、グラディオール・メルエアデの容赦ない視線が俺に突き刺さる。そしてすぐに、隣の弟にも。
ああ、嘘だろ。
なんで俺の師匠がエブラルの部屋にいるんだよ。
手が震え出し、一気に喉の乾きが襲う。同時に吐き気と頭ががんがんしてきた。
これはまずい。人生最大のピンチかもしれん。また最悪なタイミングで最悪な男の前に投げ出されてしまった。
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