▼ 97 強まる執着
「二人が落ち込んでいるところ悪いんだけど、話はまだ終わりじゃないんだ。解呪後のことも教えておいたほうがいいだろう?」
魔女の甥である魔術師の少年アルメアは、さらに俺達を絶望の淵へと叩き落とすかのような言葉を放とうとしていた。
未だ頭を抱え近寄りがたい雰囲気の弟を、慰めたい気持ちで俺は奴の背中をさすっていた。
「なんだよ、解呪後って……。いや、ちょっと待てよ。もし俺がところ構わず発情しちゃう事態になっても、呪いが解ければ全て解決するんじゃないのか?」
そうだ。呪いから解放されれば、きっとクレッドの精液から媚薬成分が抜けるだろう。附随して俺の異常な体の変化とやらも収まるに違いない。
確信しつつアルメアを見ると、憐れみの目を向けられた。
「楽観的だね、君。本当に魔導師? はっきり言うけど、呪いが解けたら君の弟に対する性欲は、綺麗さっぱり消え失せるはずだよ」
予想外の指摘に口をだらしなく開けたままにしてしまう。意味が分からない。
思考が散らばってまとまらない俺の隣で、無言だった弟がゆっくりと頭を上げた。
「何を言っている……貴様、さっきはそんな話、してなかっただろ……兄貴が、俺を欲しがらなくなるだと……?」
静かな怒りに加え、大きな動揺と虚無感を滲ませた声質が響く。
俺はすかさず弟の腕を掴んだ。言い訳のつもりじゃないが、ここはきちんと自分の気持ちを証明する必要がある。
「落ち着けって、クレッド。俺はお前が好きなんだから、そういう気持ちがなくなるわけないだろ? 好きだから求めるんだよ、お前だってそうだろ」
他人の前でこんな個人的な感情を曝け出すのは、本来なら有り得ない。けれど紛れもない本心だ。
俺達の様子を黙って眺めていた魔術師は、俺の心を嘲笑うかのように、大げさに溜息をついた。
「セラウェ。これはそんな好き嫌いの感情論に基づいた呪いじゃない。内容からも分かるように、極めて性的な主題をもつ呪詛なんだよ。解呪後に二人が欲望から解放されるのは、本来喜ぶべきことだ。……まあ、君達二人が想い合っているという事実は、タルヤにとっても誤算だっただろうけどね」
アルメアの淡々とした見解に辟易とする。なんなんだよ、くだらねえ。
弟を求める気持ちが全部呪いによるものだとでも言いたいのか。俺はそんな事まったく認められない。
そもそも感情に関わる呪いじゃないのなら、たとえ解呪後だって、そういう気持ちは自然と湧き出てくるものだろう。
「ふふ、なんだか気が気じゃないみたいだね。そんな二人に、僕から提案があるんだ。いい話だと思うよ」
少年の幼い顔立ちに不似合いの奇妙な笑いは、まるでエブラルを思わせる。
やっぱり呪術を扱う者は普通の感性をしていないんだ。それは奴の次の言葉からもよく理解できた。
「僕がクレッドの呪いを、上書きしてあげよう。そうすれば兄の性欲消失も免れるし、二人の関係もうまくハッピーエンドになるだろう?」
ふざけた物言いに切れそうになったが、俺より先に弟が身を乗り出し、魔術師を鋭く睨みつけた。
「何を企んでいる? 俺はお前の実験体ではないぞ」
「そんな怖い顔で怒らないでよ。僕は君には感謝してるんだ。あの一族の恥さらし、悪の根源ともいえる叔母のタルヤを殺してくれたんだからね」
その言葉に反応するように、弟の眉がぴくりと上がる。
「あの女は血族の掟を破り、黒魔術を用いた惨たらしい悪事に手を染め上げ、それを咎めた僕の両親を追放し、あげくの果てに死に追いやった。長らく抱えてきた僕の憎悪も、君たち教会の者達によって少しは晴れたといえるよ」
アルメアは眉根を寄せ、悲痛な面持ちで語った。
突然打ち明けられた奴の過去に、言葉を詰まらせてしまう。家族が居ないとは言っていたが、そんな事情があったのか。
同情心が湧いてきた俺の隣で、クレッドは冷静な表情を崩さなかった。
「それに……セラウェにも少しは感謝してるしね」
そう言って少年は顔をわずかに赤らめ、傍らに佇む執事に視線を合わせる。二人はしばし見つめ合い、何やら親密な雰囲気を醸し出していた。
……えっ。この前のこいつの屋敷での出来事が役に立ってたのか。あまり興味はない為とりあえず無反応にしておいた。
「そ、それでアルメア。呪いの上書きって何するつもりなんだ? そもそもそんな事が可能なのかよ。クレッドの体に負担になるような事は、させられないからな」
俺が念を押すようにじとっとした目でみても、少年が意に介する様子はない。
「タルヤの強大な魔力量からして、さすがに僕でも無傷で呪いを解いてあげる事は出来ないんだ。けれど同じ一族ならば、新たな呪いで上書きすることは出来る。ただし強い効力を持たせるために、その効果はクレッドにしか教えてあげられないんだよ」
それから魔術師は、至って真面目な様子で説明をし始めた。言葉通りこの場では、奴が提案してきた呪いの内容を詳しく語ることはなかったが、要約するとそれは、タルヤの呪いが解けた直後に発動するらしい。
うさんくさい。なにか信じられない。
俺の性欲消失だとかいうくだらない話だって、そもそも腑に落ちないのに。
けれど弟は俺とは異なる反応をした。
「そうか、分かった。話だけでも聞こう。結論はその後だ」
クレッドの顔つきは険しいまま、というか更にぴりぴりした空気を一人漂わせていた。
だがはっきりとした言葉尻は、自らの動揺を強引に押さえつけようとしている様にも見える。
「お、お前本当にいいのか。どう考えても怪しいだろ」
「兄貴、この呪いはすでに常識の範疇を超えてるんだ。対抗するにはなりふり構ってられないんだよ」
弟が苛立ちを募らせている。俺達が話し合っていると、アルメアはすくっと立ち上がった。
まさかもう始めるつもりか? 驚愕の視線を向けたが、奴は執事と共に玄関へと向かった。
「じゃあまた君のもとを訪れるよ。僕にもちょっと準備があるからね。今すぐには難しい。……ああ、くれぐれも百回は越さないようにしてくれ。まあ……まだ余裕はあるか」
幼い顔立ちから聞きたくもない羞恥を誘う言葉が発せられ、俺は呆然とする。
おそらく弟は魔術師に俺達の行為についても話したのだろう。解明するためには、仕方がないといえばそうなのだが。
会釈をする執事と共に、アルメアは弟の部屋を後にした。俺達は二人、静かにその場に残された。
◆
突然の訪問を終えしばらく経ってからも、俺はソファで隣に座る弟のことをじっと見ていた。
何故か目を合わせようとはせず、厳しい顔で考え込んでいるようだった。
これは良くない兆候だ。次第に焦りが募った俺は、弟の背中にガバっとしがみつくという、突発的な行動をした。
「…………ッ、あ、兄貴?」
やっと反応を示したクレッドの背に後ろから手を回したまま、ぐっと抱き締めた。
よからぬことを考えていそうな弟の思考を、止めなければ。
「なあ、さっきも言ったけどさ。俺はお前のこと好きだから、お前にしかそういう気持ちは沸き起こらないから。だから変な心配するなよ」
弟の思いは分かる。俺だってもしこいつと同じ立場ならば、不安でもっと頭がおかしくなるかもしれない。
だが、楽観視するわけではないが、これは自分でどうにか出来る問題だと思っていた。
自制すればいいだけの話だ。それに二人の関係が深まってから、弟以外に興奮したことなどない。
さすがにそこまでは恥ずかしくて言えなかったが、自分の中では確固たる自信があった。
「でも……兄貴がそう思っていても、これからは分からないだろ……」
腰に回した俺の手を握り、弱々しく疑いの言葉を発する弟に、ずきりと胸が痛む。
俺は後ろから弟の頬に顔を寄せ、そっと口付けをした。微かに体を震わせるクレッドを見て、表情は分からないが自分も熱を感じてくる。
「大丈夫だよ。ほら、こんな事言うとアレだけどさ、俺って元々淡白だから。お、お前にしかあんな風にならないんだからなっ」
自分でも何を言っているのか分からなくなり、恥ずかしさから語気を強めて言い放った。
するとクレッドは俺の腕を腰から取り除き、すぐにこっちに振り返った。
向かい合って見つめ合い、急に鼓動が激しく脈打ちだす。
「兄貴は……淡白じゃないだろ、全然……」
混乱した顔でぽつりと告げる弟に、全身が一気に沸騰するかのように感じた。
おいそこを拾い上げるなよ。
自分から振った話題とはいえ、反応に困った俺はそれを隠すように、またもや弟に抱きついた。
勢い余ってソファへとそのまま倒れ込んでしまう。
弟は一瞬驚いた様子だったが、しばらくして俺の背中を優しく撫でてきた。
「……そうだよな、兄貴は……恥ずかしがりやだ。……あんな風になるのは、俺の前だけでいい」
独り言のように呟かれ、俺はまだ無言で弟の耳のすぐ近くに、顔を埋めていた。こいつは一体何を想像してるんだ。
「頼む、兄貴。俺以外の奴の前で、少しでもそういう素振り、見せないでくれよ」
思いがけぬ真面目な注文に俺はばっと顔を上げた。たぶん睨みつけているかもしれない。
クレッドは反対に、呆気に取られた表情をしていた。
「おいっするわけねえだろ! あんまり変な事言うなっ怒るぞ!」
「だ、だって、心配だろ……。ああ、俺は……前よりももっと……おかしくなるかもしれない」
「……は?」
もっとってどういう意味だ。あれ以上おかしくなる事があるのか。俺はどうすりゃいいんだよ。
混乱を極める俺の前で、奴はさらに聞き捨てならない言葉を発した。
「いざとなったら、兄貴のこと縛ってやる。それで、もう俺の部屋から出さない。呪いが解けるまで離さないで、ずっと一緒にいる」
狂気じみたその発言に、だらっと汗が流れるのを感じた。
透明なはずの蒼い瞳が、弟の邪念を映し出している。今までにないぐらい、背中に痛いほどの力が込められる。
「縛るってお前、そんな暴力的な……つうか倒錯的な行為止めろよ……俺達そういうの、まだした事ないだろ。……あ、いや一回だけあるか」
冗談めかして言おうとするのだが、完全に声は震えてしまっていた。
「怖い? 兄貴……もちろん兄貴を傷つけるつもりなんてない。でも俺は本気だ。……それに、呪いが解けた後だって……」
眉をぎゅっと寄せて、苦悶に満ちた表情を浮かべている。
弟が恐れる気持ちはよく分かる。自分のせいでまたつらい思いをさせている事が、心苦しい。
俺はクレッドの上に体を預けながら、出来る限り優しい笑みを向け、愛しい思いを込めてそっと髪を撫でた。
しばらく視線を交わし合い、まるで不安がる子供をあやすように、穏やかに見つめる。
俺たちは呪いがきっかけで関係を築くことが出来た。それなのに最後の最後にこんな、温かく寄り添っていた二人の心を、かき乱す事態が起ころうとは。
「……分かったよ。縛るなりなんなり、好きにしていいから。でも放置すんなよ。あと前みたいに鬼畜じみたこともするな」
半分本気で、半分冗談のつもりで告げた。けれど弟は完全に真に受けたように、こくりと顔を頷かせた。
こいつ、マジでやりそうで怖い……。
対応を誤ったか? すでに後悔しそうになる俺のことを、弟は改めてしっかりと抱き締めてきた。
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