お父さんにお世話してもらう僕 | ナノ


▼ 3 家族の気持ち

支援学校のクラスで、僕はいつものようにニルスくんとお喋りしていた。
授業の合間に隣同士の机にならび、顔を寄せあってノートに文字を綴る。

『ロシェ。お前さ、キスしたことある?』
「えっ?」

興味津々の顔が目の前に来て、思わず声を出してしまった。
心の中で少し考えたけれど、彼はいやに真面目な雰囲気だったので、僕は普通に「あるよ」と答えた。

緑の瞳が大きく見開き驚いている。僕は今13才だから、信じられないのかもしれない。
居たたまれなくなり、本当のことを白状することにした。

「……ほっぺただけど」
『そこかよ!』

すかさず爆笑されて、恥ずかしくなった僕はふくれる。
確かに見栄を張ってしまったけど、自分のほうが三才大人だからって、そんなに笑うことないんじゃないかな。

「もう! じゃあニルスくんはあるの?」
『ないよ。俺が彼女いるように見える?』

さらりと自虐的に言って肩をすくめた友達に、申し訳ないけど、今度は僕の笑いがこぼれてしまう。

「見えない。知ってると思うけど、僕もだよ。同じだね」

ノートにさらさらと書くと、彼はうんうん渋い顔で腕を組んだ。

ニルスくんそういう興味が強いし一瞬彼女作ればいいのになと思った。黙っていれば格好いいんだから。
……でもそうしたら、友達が取られちゃうみたいでちょっと寂しいかも。

ペンを止めて一人で考えていたら、急に頬にちゅっと温かいものが触れた。ニルスくんの唇だ。
僕はいきなりすぎて固まったまま、反応するのに時間がかかった。

「な、何するんだよっ! もう!」
『挨拶だよ。ていうか、練習?』

簡単な手話で伝えてきて、ジト目で見返した。でも彼はいつもの調子で口笛を吹き、全然反省していない。

「練習じゃないよ、恥ずかしかったでしょ? ばかっ」
『なんで怒るんだ? 親友なんだからいいじゃん。ほっぺぐらい』
「……親友?」
『うん。え、違うの?』

首をかしげた彼とは反対に、僕は勢いよく首をふった。

「そうだね、なんか嬉しいなぁそれ」
 
僕たち親友だったんだ。初めて知ったのは内緒だけど、本当はそう言ってもらえてすごく嬉しかった。
我ながら単純かも……そう思っていたところに、正面を見ると、机の上に男の子の顔が乗っていた。

「うわあぁっ!」

僕は車イスごと後ろに後ずさった。向こう側にしゃがみこみ、僕らのことをじっと見ていたのは、クラスメイトのアーサーくんだ。
彼は真顔で無言だったけど、数秒たって口を開いた。

「男と男でキスしてる。二人とも変。変態」

抑揚のない声でそれだけ言うと、口元で読み取ることが出来たのか、笑顔のニルスくんが長い腕を伸ばし、アーサーくんの黒のニット帽をぐりぐり掴んだ。この帽子は彼が夏でも一年中かぶっているお気に入りのやつだ。

「いたいいたいいたい触るな、ニルスの馬鹿!」
『変態でいいし。悔しかったらお前もやってみろ?』
「なにも聞こえなーい!」

手話で伝えながら大人げなく攻撃している。楽しそうだけど一言言いたくなった。

「ねえ僕は変態じゃないよ、ニルスくんが勝手にやったんだからねっ」

必死に主張しても二人の友達は全然聞いていない。
アーサーくんは僕の一個上だけど性格は思ったことを何でも言う、無邪気な男の子だ。からかっているのか何なのか、よくニルスくんとこうしてじゃれ合っている。

仲良いなぁ。
半分微笑ましく眺めながらも、仲間には加わりたくないと密かに思うのだった。



そんなこんなで学校終わり。父が教室まで迎えに来てくれて、ニルスくんと三人で会話しながら、門の外の車まで来た。
家はわりと近いほうだけど、ニルスくんは今日違う場所に行く用があると言って別れる。

でもその前に、車イスに座った僕の前で身を屈め、また頬に口をちゅっと押し付けたのだ。
忘れていたと思っていたのに、僕は親の前でそれをやられて、当然慌てふためいた。

「もう! またやった!」
『挨拶だって。バイバイ、ロシェ。また明日!』

手話で明るく丁寧に述べた後、手を上げて走り去っていってしまった。
父を見ると、唖然と彼の背を追っている。

僕はいからせた肩をすとんと落とし、大きなため息を吐いた。
車の助手席に乗せてもらい、道路の上を走り出した頃。父はふとこちらを見た。

「なあ。なんでニルスはさっきお前にキスしたんだ?」
「えっ……? ええっと、ただの挨拶だって。バカみたいだよね」

とっさに取り繕うと、父の横顔がなんだか厳しくなった。変に黙っているし。

「まあ、あんまりやらせるなよ」

少しの間のあと言われて僕は「はあい」と適当な返事をした。友達にからかわれた自分が恥ずかしかったからだ。
でも少しだけ言い訳をしたくなった。

「なんかね、ファーストキスの話になったんだよ。ニルスくんもまだのくせに、僕のこと、ほっぺただけだーって言ってくるから……」

愚痴っぽく説明すると、ちょうど信号待ちで沈黙が流れた。

「そうか。それ俺だろう?」
「そうだよ! 別にいいでしょ!」

容赦ない父の指摘に思わずつっこむ。ああ恥ずかしい。もういいよこの話。
だって僕まだそういうの興味ないもん。

父もそう思ったのか、僕に視線を向けてきた。

「そういうのは、まだまだ先のことでいいよ。お前は」

頭をぽしゃっと撫でられて、僕も「うん」と納得する。
再び眼鏡の奥のきりっとした瞳を見て、僕は自然と父の唇に目をやってしまった。

……馬鹿だ、何考えてるんだろう。

今のところ、誰とするかも分からないまったく現実味のないファーストキスよりも、お父さんのこと考え始めたほうが、僕はドキドキしてしまっていた。

「大体、僕の体で恋人とか、そんなの無理じゃないかな」

思考を振り払いたくて呟く。でもすぐに失敗したと思った。
また顔を出してしまったネガティブな部分が、気持ちに表れていた。

「それは違う。お前と同じような体の人でも、恋人を作ったり、結婚したりしているよ」

父は落ち着いた声で前を向き、諭してくる。

「……うん、そうだよね」

少し暗くなってしまったけど、父の指摘は正しい。支援学校で同じく障害をもつ人々と会って、普通の人と変わらない人生を歩んでる人のスピーチを聞いたりもする。

たぶんまだ僕は色々な経験が足りないから、考えも追いつかないんだろう。

けれど何故だか、僕自身のことを言ってるわけじゃないのに、父に将来のことを言われると胸がずきっとした。
無理だと思うけど、もしそうなったら、今の暮らしはどうなるんだろう。僕は、お父さんと一緒にいたいな…。




その日の夜。帰宅して、二人で夕食を食べているときのことだった。
 
「ロシェ、もうすぐ家のリフォームが始まるな」

そうだった。僕が13才になったとき、「今年は家をバリアフリーにする」と父が言ってくれたのだ。

僕たちの家は二階建てで、本来僕の子供部屋は二階にあり、両親の部屋は一階だった。
半身麻痺になってから二階へはほとんど行けなくなってしまったけど、今回は僕の行動場所である一階を新しく改装するらしい。

浴室はもうバリアフリーだから、あとはトイレと父の寝室、僕の個室とリビング、廊下もだ。
壁を払ったりして結構大工事になるものの、そうすることによって僕は家の中でも車イスを使えるようになり、自由に動くことも出来る。

トイレに行くときも父が介助をしなくて平気になるし、夜中だって睡眠時間を奪うこともない。
僕はリフォームを決めてくれた父に対して、感謝の気持ちでいっぱいだった。

「ありがとう、お父さん。僕これで一人で動けるようになるし、お父さんの負担も少しは減らせるかな? 時々は杖でも歩きたいけど……あ、でも寝室が別になっちゃうのは少し寂しいかも」

はは、と照れ笑いをした。
実を言うとこの年になっても、僕は同じベッドで父と眠っていたからだ。 

でも父は「んっ?」と明らかに要領を得ない顔つきをした。

「待てよ、別々で寝たいのか? 俺の部屋でいいだろう」
「えっ? そしたら意味ないよ。僕、夜中とかまたお父さん起こしちゃうでしょ」

車イスがあれば、学校のときと同じようにトイレは出来る。だから提案したのに。
なぜか父は不満のようだった。

「起こせばいいだろ。一緒でいいよ、ロシェ」

いつもは物事にあまり主張したりしない性格なのに、父のことを少し変に思う。

「お父さん、一人で寝るの嫌なの?」

何気なく聞いたら、父は表情も変えず黙った。
もしかして、信じられないけど、図星だったのかな。

じっと見ていると「そういうわけじゃ、ないけどな」と眼鏡に手をかけて呟く。

父はあんまり我が強いタイプじゃないし、顔つきだってクールだから意外に思えた。なんとなく僕は頬が緩みそうになるのを我慢する。

「お前も、成長したんだな。もう13才だもんな」

淡々と話すけど、声のトーンは低くなっている。
こういう時、息子の自分はなんて言えばいいんだろうと少し考えたけど、次の言葉には僕が困らせられた。

「でも、お前の″あれ"をする時はどうするんだ?」

本当にデリカシーがない。今ご飯中なのに。僕は赤くなって父を睨む。
するとふっと笑われた。大人の笑みを向けられ僕はむむむ、と口をつぐむ。

「その時は、お父さんのとこ行くもん……」

降参してこぼすと、父は勝ったみたいに微笑んで立ち上がり、僕の頭をさらっと撫でた。

「いいよ。じゃそうするか」

そう耳元で囁いてからも、父のからかいはまだ続いた。

「寂しくなったらいつでも来いよ、ロシェ」
「お父さんも僕のとこ来ていいよっ」
「シングルじゃ入んないだろ、狭くて」

もう元気を取り戻したかのように笑っている。

ああは言ってしまったけど、すでにちょっと寂しくなってきた。
家の中が新しくなるのは楽しみだけど。
僕も年齢だけじゃなくて、早く大人にならないとな。




リフォーム終了までの約1ヶ月。もちろん今の家には住めない。
僕たちはその間どこに行くのかというとーー二つ先の町にある、おばあちゃんの家だった。

一人暮らしをする祖母メリルは、父のお母さんだ。
家族だけど、この体になってから長期間、父以外と過ごしたことのない僕は、少し緊張感を持っていた。なるべく迷惑をかけないようにしたいなって思う。

緑に囲まれた一階建ての平屋の住居は、車イスでは入れないけれど、廊下の間隔など広めに取られていて、ちょっとしたバリアフリーになっている。

玄関のベルを鳴らし、父が鍵を開ける。あまり足腰がよくない祖母だから、到着の時間はすでに告げてあるということで、勝手に中に入った。

リビングの一人がけの椅子に座り、テレビを見ている祖母。耳が遠いため、廊下まで響くほど音が大きい。

「母さん、ただいま。来たぞ」
「……あら! 二人とも、よく来たねえ! デイル、ロシェ、元気だった?」

振り向いた祖母は途端に表情を明るくした。僕も久々に会えて嬉しくなり、父に付き添われて近くまで歩いていく。
祖母とはお互いに体が不自由なとこがあるため、頻繁には家を行き来出来ないのだ。

「うん! おばあちゃんも元気そうだね。家に泊めてくれてありがとう」
「何言ってるのこの子は、いつでも来てちょうだいよ。ほら見て、私一人で寂しく暮らしてるんだからさ」

両肩をはつらつと撫でられて苦笑いした。

70代の祖母は僕がまだ小さい頃に、夫である僕の祖父を病気で亡くし、それ以来一人で生活をしている。
母とは違う味だけど、料理が上手くて僕たちによくふるまってくれて、ふくよかで優しい、温かみのあるおばあちゃんだ。

緩やかなパーマがかった白髪に、父と同じく眼鏡をかけているところがなんとなく似ていて面白い。

その日の夜も祖母は特製のグラタンを作ってくれた。

「美味しい! すごいおばあちゃん、海老グラタンって家じゃ食べれないよ」
「そうでしょ。デイルは海老嫌いだからね。でも私は好きだから、ロシェと食べれて嬉しいよ」
「……なんだその俺だけのけ者な発言は。この鶏肉グラタンも美味しいよ、母さん」
「当たり前よ、あんたのためにわざわざ別に作ってあげたんだから。ありがたく食べなさいな」

いつもの二人の会話を聞いてるだけでも僕は楽しくて、笑ってしまう。
父は僕と同じく一人っ子だから、口の達者な祖母の相手をしていて時おり負けてる感じになるけど、そんな様子も家では見られなくて新鮮だ。

しかし、僕も昔からユーモアのある祖母のことは大好きで、家を訪れるのも楽しみだったけれど、やっぱり事故の前と後では変わってしまった部分もあった。

それは、この不自由な体のことだ。

「そういえばロシェ、体はよくなった?」
「……えっ。う、うん。……まあまあ、かな」

何気ない問いに、歯切れ悪く答える。それから情けないことに、たったその一言で、僕の元気は少しずつ萎んでしまう。

いつもそうだった。
事故の後、なんとか歩けるようになったぐらいに祖父母の家を訪れた時から。祖母は決まって僕に「体はよくなったか」と尋ねてくるのだ。

「ごめんね。もう良くはならないんだよ」って、そんな情けない言葉が頭の中を占めるけれど、僕はいまだに、何度聞かれてもうまく答えることが出来ないでいた。

半身麻痺という障害は、見た目以上に本人にしか分からない症状が多くある。だから周りがどう感じるかは違って当然だし、仕方がないことだとも思うんだけれど。

「母さん。ロシェは定期的にリハビリしていて、よく頑張っているよ。毎日こうして生活しているだけでも、いい運動になっているしな。俺も近くで見てるからわかる。もっと人の手を頼ってもいいぐらいなのに、本当に偉いよ、ロシェは」

思いがけず、机に置いた手を父に握られて、涙もろい僕はうるっとなってしまった。

お父さんこそ毎日休みなく面倒見てくれて一番大変なのに、そういうことは何も言わないで、かばってくれている。褒めてくれている。

「ありがとう、お父さん」
「何がだよ、お前がすごいんだって話だろ」

笑って頭を撫でられた。僕が勝手に感きわまったせいで、驚いた様子に見えた祖母も、「偉いね、ロシェ」と親身に手をさすってくれた。




こうしてリフォームまで祖母の家で一ヶ月、お世話になるんだなと実感がわく中。
僕は父と同じ部屋で眠ることになっている。リビングや祖母の寝室からは離れた場所だ。

「どうした、疲れたか」

着替え終わりシーツの上に座っていると、僕を気遣う父が隣に腰を下ろしてきた。

「ううん。大丈夫だよ。……ねえお父さん、夜のトイレなんだけど…」
「ああ。……俺が運ぶの、恥ずかしいか? 平気だよ、おばあちゃんは一度寝たら絶対に起きないから。ほら、さっき廊下で聞こえただろ、すごいイビキ」

真剣な顔で説明する父に一瞬笑ってしまう。
確かに僕の懸念は父の言う通りだった。数年前は平気だったけど、13才になってからは余計に見られたら変に思われるんじゃないかって、気がかりだった。

でも父は僕が全部言う前に、こうやって不安をすぐに拭いとってくれるのだ。さっきもそうだったし、どうしてお父さんはこんなに優しいんだろう。

「なんか僕、いつも自分の心配ばかりでごめんね。お父さんは、大丈夫?」

ぽとりと横たわると、父も横たわって隣に入ってきた。
そしていきなり僕の鼻をきゅっとつまむ。

「心配なことは何でも話せ。それを気に病んだりするな。お前は優しすぎだ。それとな、俺はまだまだ若くて元気だから大丈夫」

珍しく長い台詞で、言いたいことを全て喋っている。でもその言い方がまたもや僕をじわりと泣かせにくる。

「優しいのはお父さんでしょ。甘すぎるよ」
「そりゃ息子には甘いだろう。可愛いんだから仕方ないだろ?」

泣き言はもうお仕舞いというように、抱き寄せられた。

そのとき僕は、この日一番の安心を得た。
もしかしたら、ここは家族の祖母の家だけど、ほんとは少し気が張っていたのかもしれない。家の造りも違うし、まだ長い時間過ごすことに慣れていないから。

けれどいつもと変わらぬ父の温もりのおかげで、その日も僕はぐっすり眠れることが出来た。


◇◇◇


祖母の家での生活が半月ほど過ぎた頃。僕は想像よりも朗らかに過ごせていた。

生活自体はあまり変わらず、平日は父の送り迎えで支援学校に通い、友達とはしばらくの間帰りに遊ぶことはできなくなってしまったけど、帰宅後ゆっくり祖母とお茶をしながら過ごしていた。

夜は父か祖母が食事を作ってくれたり、いつものようにたまにピザをテイクアウトしたりして、楽しむ。

祖母は僕らがいない昼は、普段からお年寄り向けの、お弁当宅配サービスを利用していた。

「これね、毎日届けてくれて便利なのよ。温かくて味も美味しいし。ロシェが昼にいたら二人分頼むんだけどね」
「はは、ありがとおばあちゃん。でもいいなぁ、メニューも豊富だねえ。僕も食べてみたい」

一人暮らしだから、毎日誰かのチャイムがあるだけで、お年寄りにとっては安心でもある。
祖母はゆっくりながらも一人で歩くことは出来るが、腰が悪く重い荷物は持てないため、普段の買い物は定期的に訪れるヘルパーさんに頼んでもらっている。

その他にも月に数回、父が様子を見に行くついでに必需品の買い物をしたりしているようだった。

僕の体が元気だったら、父の手伝いとか、祖母を助けたりも出来るのにな。
まだこんな年なのに反対に面倒をかけてしまっていることが、心苦しくなる。

でも後ろ向きに考えたって事態は好転しないから、なんとか出来ることを探そうって自分なりに考えたりもしていた。




しかし、ここでの暮らしもうまくいっているはずだったのに、この後僕はまた良くない事件を起こしてしまう。自分の振る舞いのせいだ。

学校から帰って、父がまた仕事の用で少し家を空けたときだった。
僕と祖母は二人、ソファに座って仲良くケーキを食べ、お茶を飲んでいた。

四時頃になって、家のチャイムが鳴る。祖母は「掃除婦の子が来たわ」と言ってゆっくり腰を上げ、玄関へと向かった。

現れたのは40代ぐらいの女性だった。日に焼けた外国人で、お互いに「こんにちは」と笑顔で挨拶を交わした。
動けない僕がリビングにいる間も、てきぱきと埃を取り、隅々まで掃除機をかけてくれている。

祖母によると、週に一回は彼女に掃除を頼んでいるのだという。二人ともわりと長い付き合いらしく、楽しそうにお話していた。

「ほら、この子が孫のロシェよ。可愛いでしょ」
「ええ、すごく可愛いわね。リーデルさん、自慢のお孫さんでしょう」

世間話から話題が新参の僕に移り、恥ずかしくなりつつも聞いていた。

「前に話したと思うけど、事故にあってね。もう四年経つかしら。体が半分不自由で……かわいそうなのよ」

でも、祖母がそう話した時、どくん、と鼓動が大きくなった。何気ないことなのに、自分を憐れむ言葉が頭の中をぐるぐる巡っていく。

「まだ若いのにねえ……本当にかわいそうで、私、この子が不憫でーー」

容赦なく続けられる言葉に目眩が襲う。

僕は、かわいそうなの? やめて、やめて、何回も言わないで。知らない人の前で、そんなこと言わないで。
そう思った時、僕は感情を爆発させてしまった。

「おばあちゃんうるさい! 僕のことかわいそうって言わないでよ、ひどいよ、僕かわいそうじゃないから!」

片方しか動かない手で膝を握り、出したこともないような大きな声で喚いた。
部屋の中が一瞬で静まる。
二人の女性の驚きの眼差しが、僕に突き刺さった。

「そうよ、ロシェくん頑張ってるんだから、そんな言い方ないわよね…」
「……ご、ごめんねロシェ。私、ええと、そういうつもりで言ったんじゃなくってね……」

焦った二人に声をかけられたけれど、僕は頭に血がのぼったまま、同時にどうしようもないぐらい情けなくて、ふたたび顔をあげられなかった。

馬鹿みたい。
子供みたいに反応して、冷静に言い返せない自分。

こんな時「もういい!」って立ち上がってこの場から逃げ出すことも出来ないほど、なんの役にも立たない僕の半分。

全てが馬鹿馬鹿しくなる。本当に惨めでかわいそうな人間だ。

トイレも一人で行けない、お父さんが来るまで待っている。まるで赤ちゃんみたいに。
歩くのだって出来ない。赤ちゃんは成長するけど、僕がこれ以上良くなることはないんだ。

ひどく悲しくなって涙をこらえた。
もっとかわいそうになるから、今は泣かないようにした。




僕のせいで悪い空気になってしまったけど、掃除の女性が帰った後、入れ代わりのように父が帰宅した。
皆で食べれるご飯を買ってきてくれたが、僕は一刻も早く部屋に戻りたかった。

無理を言って連れて行ってもらい、少し具合が悪いと嘘をついて、部屋のベッドに横になった。

「おい。ほんとに大丈夫か? ロシェ。なにかあったのか」
「何でもないよ。あんまりお腹空いてなくて、ごめんね。おばあちゃんにも謝っておいて」

自分で言えばいいのに、卑怯な僕は父にそう伝えて部屋にこもった。

「……ああ。だが、いつでも呼べよ。また来るからな」

優しく頭を触られて、目を閉じた。また父に心配をかけて、周りにも子供みたいな態度をとっている。

あれから四年も経つのに、もう僕は13才になったのに。

かわいそうって言葉は何も初めてじゃない。事故の当初は前の学校の友達や親戚、皆から聞こえた。
僕はまだ小さくて、体のことより母を亡くした悲しみのほうが大きくて、真っ向から受け止めていなかったけれど。

心配してくれてるのは分かる。でもその何気ない一言に、いまだに傷ついている自分にも、悲しくなった。
体がよくないのは仕方ないけど、心まで弱くなりたくない。

つらつら考えながら、疲れて眠気が襲ってくる。
そのまま僕は、目尻に涙をにじませて眠ってしまった。



しばらくして、目が覚めた。
廊下の先から話し声が聞こえた気がしたのだ。むくりと半身を起こし、僕は運動靴を手繰り寄せた。

そういえば用を足すのを忘れていたと思い、僕は立て掛けてあった杖をとって、わずかに開いていた扉にひっかけ勢いよく開け放った。
勝手に歩いたら駄目だけど、自分ひとりでも出来るかもしれない。
 
慎重に歩けばいいんだ。
ムキになっていたのか、半分自暴自棄になっていたのか、立ち上がり、少しずつ一歩を進めた。

暗がりの廊下をゆっくりの速度で歩いていく。
緊張したけれど、とりあえず出来ていることに喜びがわいた。

しかし、話し声がどんどん大きくなるにつれ、僕は怪訝に思った。
それは台所の横の、テーブルのある飲食スペースのところからだった。

「ーーどうしてあいつにそういう事を言うんだ? やめてくれって言っただろ!」
「わ、悪かったわよ。つい、あの子を見てるとね、気持ちが出てしまったのよ……」

二人が僕のことを話している、そう思って足元がぐらついた。
必死に杖をもち体を支えようとするが、申し訳なさそうに話す祖母に対して、父は激怒しているようだった。

「だから、何度言わせるんだよ、ロシェの気持ちを考えろよ少しは!」
「……分かってるわ、でも……お母さんもいなくて、まだ子供なのに、不憫じゃないの……私だってさーー」
「母さん、もうやめてくれ、そんなことは俺が一番よく分かってる、母さんだって分かってるんだろ? ……全部俺のせいなんだよ、あいつが死んだのも、ロシェが歩けなくなったのも、全て俺のせいなんだってッ!」

父の怒鳴り声で僕は重心が不安定になって、また目の前が歪んだ。
そんな風に我を忘れて激昂する父なんて、見たことがなかった。

けれど突き動かされるように、僕は杖をぐっと握り、二人のところに向かおうとした。
口がわななき、目の奥から熱いものを感じるけれど、一生懸命こらえる。

台所にやっとたどり着いたとき、部屋の中はしんとしていた。
カウンターを背に立っている父は僕を見て驚き、瞳を赤くしたまま、急いでこっちに来た。

おばあちゃんもさっと眼鏡を取って涙をぬぐっていたけど、僕をみて柔らかい表情を作ろうとしてくれていた。

「ロシェ、お前なに一人で歩いてるんだ、転んだらどうするーー」
「お父さんのせいじゃない! 絶対に違う、だからそんなこと言わないで、思わないで!」

僕は最初にそう叫んだ。片腕を投げ出した体を、父に抱き留められた。

泣かないと思ってたのに、もう涙がこぼれてしまった。
祖母の前なのに、抱き締められて子供のように胸に顔をこすりつける。

「僕のせいなんだよ、僕がキャンプに行きたいって言ったの、お母さんが今年は違う旅行にしようって言ったのに、僕覚えてるのに、あのときどうしても行きたいってわがまま言ったから!」

だからあんな事故が起きたんだよって、話しながら大きな体に掴まって、僕は泣きじゃくった。

こんな話は二人のときでも、今まで一度もしたことがない。僕は怖かったのだ、本当のことを父に打ち明けるのが怖かった。

「なにを……馬鹿なこと言うな、キャンプは毎年行ってるだろう、お前のせいなんてことあるわけがない。……ロシェ、俺はな、いつも考えるんだ。寝る前、お前を抱いて目を閉じてから、ああ、あの時、なぜあの日にしたんだ? 天候が悪くなると知っておきながら、なぜ一時間前でも、いや、十分前でもいい、なぜあの時あの時間に出発したのかと。俺がもっと注意を払っていれば、事故は避けられたはずで、お前から母親を奪うこともなかった、今だって昔みたいに、三人で一緒に暮らせていたはずなのにって」

堰を切ったように話す父の声も涙でにじんでいた。頭の上に、ぽたりと滴が落ちてくる。
僕は余計に我慢が出来なくなり、しばらく抱きついたまま声をあげて顔を埋めた。

そんな風に考えていたなんて、全然知らなかった。お父さんだって、信じられないぐらい、ひどい大怪我を負ったのだ。
集中治療室に入っていたのは僕より長かったし、家族がこんな風になってしまったことで、目を覚ましてからの絶望は、小さかった僕とは比べ物にならないものだっただろう。

「やめて、お父さん。一個もお父さんのせいじゃない。僕は、自分のせいだって思ってたけど、あの日皆で楽しかったことは、最後になっちゃったけど、僕忘れてないよ」

必死に父を繋ぎ止めるように、言葉を繋げる。
力が抜けていた父の体が、やがてぎゅっと僕のことをその腕に閉じ込めた。

「ああ。俺も忘れていない。ずっと忘れないよ、ロシェ」

僕たちは二人して泣いてしまった。
悲しみに包まれて、でも親子の感情がまた近づいて、言葉では言い表せない。

黙って聞いていた祖母から「あんた達、こっちにおいで」と声をかけられる。僕は父に寄り添われて祖母の向かいの席に座った。
ハンカチを差し出されて遠慮なく顔を拭く。

「なんか恥ずかしいところ見せちゃった。ごめんね、おばあちゃん」

祖母は言葉に詰まった様子で、僕と同じく目を泣き腫らしていた。

さっきのことも謝らないと、そう思っていたら、肩を優しくさすられた。しわしわの手のひらが当たって、祖母の気持ちが伝わってきて、また涙が出そうになる。

「ロシェ、ごめんよ。おばあちゃん何回も傷つけちゃったね。ごめんね。お前を見るたび、ほんとに思うのよ。どうしてこんなに可愛くてまだ若い孫が、こういう目に合うのかって。私みたいななんの役にも立たない年寄りじゃなくて、なんでお前が……ってね。悔しくて涙が出るよ。変われるもんなら変わってやりたくてね。私なんかどうなったっていいから、可愛い孫を救ってくれって、何度も思ったんだ」

目を拭いながらまっすぐに語りかけてくれる。
僕は次第に心が震えてきた。父だけでなく、今まで直接聞くことのなかった祖母の気持ちというものを、初めて知ったからだ。

「おばあちゃん……そんなこと言っちゃだめだよ。僕は、体は半分動かないけど、病気とかじゃないし健康なんだから。だから心配いらないよ。おばあちゃんも、いつまでも元気でいて。何歳とか関係なくて、おばあちゃんがいなくなったら僕悲しいよ。だから絶対に長生きしてね」

本当は両手で握りたいけど、目一杯の力をこめて祖母の手を握った。
僕が一生懸命語りかけると、祖母もそれに対して頷いてくれた。

「ありがとう。うん、分かったよ、ロシェ。……ロシェは前に進んでるんだね。父親のデイルと一緒に。ごめんね、おばあちゃんだけだったね、いつもうじうじしてるの」

微笑もうとしているのが分かり、僕も涙を拭いて笑みを浮かべる。

「ううん、僕もいつも泣き虫だよ。でもお父さんもおばあちゃんもいるし、学校も楽しいし、友達も優しいし、だから大丈夫。頑張れるんだ」

初めて家族とこんな風に話せた。
事故のことは、時間が経っているのに、どこか僕たちの中では止まったまま。
それはこれからも変えられないかもしれない。
悲しみはいつだって戻ってくるし、きっと落ち込むこともあるだろう。

でも思い合える人が一緒にいれば、完全に乗り越えることは出来なくても、痛みを和らげることは出来る。

思ってくれる家族が近くにいる。
僕にとってはその一番強い存在が父だった。でも本当はおばあちゃんもこんなに近くにいてくれたんだなって、深く感じた時だった。


なんだか久しぶりにたくさん泣いてしまい、だんだんと恥ずかしくなる。
さっきまで不安に囚われていた心が、みんな出ていってしまったみたいだ。

おばあちゃんと向き合っていると、台所の隅で父の咳払いが聞こえた。
静かに様子を見守ってくれていたのだろう。

「おい、ロシェ。お腹空かないか? なんか食べよう。なあ、母さんも」
「……そうだね。食べようか。私も泣いたらお腹空いちゃったわ。駄目ね、年とると涙もろくて」
「あれ、まだ食べてなかったの? ふたりとも」
「先に食べるわけないだろ? お前のこと待ってたんだよ」

僕の頭を触って、いつも通りに淡々と話す父だけれど、まだ赤い目はさっと逸らされた。
お父さんが泣いたところも、久しぶりに見たな。

そんなことには触れずに、僕を待ってくれていたという父と祖母に「ありがとう」とお礼を言った。

まだ照れくさい空気が三人の間に漂っていたけれど、今のは大切な時間だったなって、僕はこっそり身に沁みていたのだった。





それから残り二週間ほどは、あっという間に過ぎ去った。
生活に慣れて余裕が出てきたときに、ちょうどリフォーム終了のお知らせが届く。

僕はちょっと祖母の家での暮らしが恋しくもなったけど、楽しみは楽しみだ。

「おばあちゃん、お世話になりました。一ヶ月間どうもありがとう。僕たちの新しい家も今度見に来てね」
「ああ行くよ行くよ。でも寂しいねえ、またこの家も静かになるよ」
「そうか? 母さん一人でも十分騒がしいと思うが。テレビと電気、つけっぱなしにして寝るなよ」
「ああもうロシェ、小うるさいお父さん早く連れてってちょうだい」

冗談めかして口を曲げる祖母がおかしくて、僕はけたけたと笑った。
途中で色々なこともあったけど、終わってみると、三人暮らしも珍しくて楽しい毎日だったな。

「じゃあお父さん、行こ!」
「ああ、元気でな母さん。っていってもまた来週様子見に来るからな」
「はいはいありがとう。またね、ロシェ。またその可愛い顔見せに来るのよ」
「うん! じゃあねおばあちゃん!」

笑顔で別れて、僕たちは一ヶ月間暮らした住居を後にした。



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