▼ 26 秘密の先に
あれから、僕は変わらず支援学校に通っている。ニルスくんから携帯に1日何回もメッセージが届き、内容も「ごめん」とか「元気?」とか懸命に僕と話したがっているのは分かったけど、僕はまだ普通の態度に戻ることが出来なかった。
時間が経つにつれてショックから腹立たしさが増し、前と変わって明るく話しかけてこようとする彼に対しても、なんとなく怒りがくすぶっていた。
『ロシェ。まだ怒ってる?』
「知らない」
『ごめんって。……今日も父ちゃんとキスした?』
「……ばかっ!」
ノートを使って会話してくるけど、手話で返した。僕をわざと焚き付けてるのかと思うほど、ニルスくんは父とのことを気にしてるようだ。
でも、勝手だけどあんまり触れてほしくない。彼と僕との関係と、父とのそれは、まったく違うものだから。
学校ではまるでこの間のニルスくんの様子と、僕が反対になってしまったようだった。僕が怒る様子は珍しいらしく、周りの先生達にも少し心配された。
ちょっとした喧嘩です、と言ったけれど本当は全然ちょっとしていない。
ニルスくんは積極性が完全に戻ってきたようで、隣にくっついてきたり、過剰に僕の世話を焼こうとした。
だんだん気持ちが揺れながらも、袖にする様子にクラスメイトのアーサーくんは喜んでいたけど、ニルスくんは珍しく切れるのを我慢して、また僕にアタックしてきた。
『なあロシェ。そろそろ許して……。俺お前に無視されるとマジで無理』
「じゃあもう変なことしない?」
『しないよ。お前の許可がなかったら』
「……そんなのないからっ!」
こうやってまた僕らの仲は振り出しに戻る。ニルスくんはノートに頭を突っ伏したまま、絶望の表情で赤髪をくしゃくしゃ掻いていた。
そんな日々が続き、僕は次第に疲れてくる。
あんなことをされてしまったけど、彼は僕の大切な友達なのだ。それに、親友だ。
彼は知るよしもないが、僕だって父に黙ってキスをしたことがあるし、気持ちは分からないわけでもない。
ただ、彼の思いがそんなに強いものだったなんて知らなくて、それにニルスくんのことだから、どこまで本気にしていいか分からず混乱したままだった。
学校が終わり、車イスを走らせて校門前に続くスロープを下る。うちの乗用車から父が降り立つのが見えた。
僕の後ろから、リュックを背負ったニルスくんもついてきていた。こんなに冷たくしてるのに、めげない彼の強さはすごいと思うし、ちょっぴり胸も痛む。
「おかえり、ロシェ。今日は二人一緒か」
「うん」
父がニルスくんに挨拶をし、彼も一瞬反応が遅れたあと、それに応えていた。
『また明日な、ロシェ』
「……うん。ばいばい、ニルスくん」
僕は二人が揃っている光景に心臓が圧迫されてきて、つれなく手を振った。すると彼は僕の肩を抱き、なんと髪の毛にちゅっと軽く触れてきたのだった。
……。やっぱり、全然反省していないんだこの人。
『じゃっ、またメールする!』
「もう! 君ってバカでしょ!」
会話になってない別れ際の挨拶に、父が目を白黒させる。
僕はむすっとした顔のまま、言葉少なく、車に乗せてもらった。
帰り道を走っている間も、とくに何も話さないでいた。すると父は信号待ちでこっちに振り返った。
「何かあったのか? 喧嘩でもしたのか、ニルスと」
「……ううん。違うけど……」
正面を向いたまま呟く。でも、さっきのやり取りを見たらどう考えてもそう考えるだろうなって思った。
父は「言いたくなかったら言わなくてもいいが…」と気にかけてくれたけど、ただ言えないんだよって思っていると、やがて車が走り出す。
しかししばらくして停車した。そこは家のガレージではなく、途中の公園近くだった。
驚いて顔を上げると、父がハンドルに手をかけたまま、こっちを見据えていた。
これは、暗に話せって言われているのだと悟り、僕は緊張する。
きっと様子がおかしいまま何日も経っているから、父の抱える心配も重くなりすぎていたのかもしれない。
僕は絶対言わないと思っていたのに、父に立ちはだかれると弱い。
甘えた心も苦しさも、全部見せてもいいのかなって、結局気持ちが揺れ動いてしまうのだ。
「……あのね。この前、僕とお父さんがキスしてるとこ、ニルスくんに見られちゃったの」
とうとう告げたとき、父の顔を恐る恐る見た。父は予想外のことだったのか、眼鏡の中の瞳を見張った。そして数秒考えている。
静寂が車内に充満し、息苦しくなったけど、やがて父は口を開いた。
「そうか。完全に俺のせいだな。悪かった」
あのジムに行った日のことだとすぐに合点がいった様子で、静かに告げる。でも奇妙なことに、父はあまり動じてない様子だった。もっと慌てるかと思ったから、表情も変わらない父に内心僕のほうが焦る。
その事により、僕が何か言われたんじゃないかということは気にしていたため、僕は彼が秘密にしてくれるし、大丈夫だよってことを説明した。
「それで、お前はどうして怒ってるんだ」
「……えっ。怒ってないよ」
「そうは見えん。……あいつに、何かされたのか?」
父の瞳が初めて険しくなる。僕は核心を突かれたことに喉がつっかえてしまった。
そのことのほうが気になっていたから、父は最初から僕に向き合ってきたのだ。
どうしよう。心臓が、速すぎる。
こんな窮地に立たされた思いは経験したことがなくて、でもこの車から逃れられそうにもなくて。
僕は最終的に覚悟を決めるしかなくなった。
「えっと。僕、あの……ニルスくんにキスされちゃったの。でも軽くだけだよ」
なるべく小さな事に聞こえるように努めたけど、声も尻すぼみになってしまった。
父は一変して眉間にきつく皺をよせた。
「なんだと?」
とてつもなく怖い顔をされ、一瞬息をとめる。それ以上何も言えなかった。どんな弁解をしてもボロが出そうだったから。
「ごめんなさい、お父さん…」
「なんでお前が謝るんだ」
感情を込めた声で言うと、運転席から父は身を乗り出し、僕のことを覆うように抱きしめる。
お父さんに、ついに話してしまった。変わらぬ胸の痛みが、父の服の温もりと匂いに包まれていく。
「だって、僕はお父さんのものでしょう? そうだよね…?」
確かめるように尋ねると、頭を撫でられた。
「そうだよ。当たり前だろう」
父は今度は言葉を濁すことなく、はっきりとそう言い放った。腕に力がこもる。やっぱり怒ってるんだと思い、少し恐ろしくなるけれど、こんな時でも僕はずるくって、父が大好きだっていう思いがあふれるのを止められなかった。
起こったことを話して、突き放されなかったことにも、安堵していた。
不思議と少しだけ心が軽くなる僕とは反対に、父の黙った様子はしばらく続く。
何を考えているんだろう。
僕には完全に推し量ることは出来ずに待っていると、ある言葉が聞こえた。
「ニルスを家に呼ぶぞ」
突然耳に入ってきて父を見るけど、横顔はまっすぐフロントガラスを見ていた。僕は「え?」とすっとんきょうな声を上げる。
「何するの、お父さん」
「何も。お前が心配することは何もないよ、ロシェ」
静かに告げられて、もう決まってしまったことみたいに僕は唖然とする。
父の思いとは裏腹に、僕はすでに心配になっていた。
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