▼ 11 ニルスの攻勢
この日は、支援学校のスポーツの授業があった。体育教師の指導のもと、二クラス分の男子が集まり、バスケットボールをしている。
十人ほどの生徒の中には僕と同じく四肢麻痺を持つ人がいるため、皆が参加出来るように、特別なルールになっている。
体育館のコート内で自分のペースで長いドリブルをするアーサー君。後ろから颯爽と走ってきたニルスくんが隙を狙ってボールを奪い、高いとこにあるゴールに跳んでシュートをする。
「わあ、すごいな〜」
車イスに座った僕が中央で感嘆の声を上げると、汗をきらりと光らせたニルスくんが上機嫌に笑い、『ロシェ!』と合図をしてきた。
敵チームが持つボールが跳ねて同じチームの子に渡り、それを受け取ったニルスくんが僕にパスをする。素早い展開に慌てたけれど、片手と膝の上でなんとかキャッチした僕は、急いで近くの低いゴールスタンドにたどり着き、ぽんっとボールを入れる。
これはツインバスケットと言って二種類のゴールを設置した競技だ。上体に障害を持つ車イスの者でも、こうして柔軟なルールに変えることにより、自分なりにスポーツに参加出来るのだ。
初めて知った時は驚いたけれど、ただ動ける人を見るだけじゃなく、チームに参加している充実感が得られて嬉しくなる。
「ニルスくん、運動神経いいよね。格好いいなぁ」
『へへ。父ちゃんにしこまれてるからな。ロシェだってゴールしたじゃん、やったな』
休憩中、体育館の壇上の下に寄りかかった彼が、手話を使って褒めてくれた。
この前あんな恥ずかしい姿を見せてしまったのに、いつも通り接してくれて本当にありがたい。
そんな事があったからか、前から大切な親友は、なんだか最近もっとキラキラして見えた。もしかしたらそれは、彼の日常に変化があったからかもしれないけれど。
ニルスくんは隣でノートを取り出した。僕もなんだろうと覗きこむ。
『なあロシェ。お願いがあるんだけどさ。今度彼女と、会ってくれない?』
「……えっ? 僕が?」
尋ね返すと彼は苦笑いで頷いた。個人的に青天の霹靂の提案だったため、少し考える。
話によると、彼女のほうがなぜか僕に会いたがってるのだそうだ。17才の女の子が13才の僕と話して面白いのだろうか、という気はしたけど、親友の頼みだから承諾をした。
翌週、僕達はさっそく三人で喫茶店に集まることになった。
その日は休日で、父にも理由を話し、ニルスくんのお父さんが車で僕と彼を送ってくれた。
街の中の、女性が好みそうな家具や小物が置かれたカフェで、男二人彼女の到着を待つ。
その人はサブリナさんといい、待ち合わせの時間ちょうどに現れた。黒髪のロングヘアで、大人っぽいメイクにぴたっとしたブラウス、細身のパンツを履いていて、かなりスタイルが良い女性だった。
『こんにちはー』
「あ、こんにちは」
笑顔で手話をし、なんと僕にハグをしてきた。年上の女の人とほとんどそんな機会がなかった僕は、良い匂いに包まれてドキドキしてしまった。
もしやニルスくんと挨拶でキスでもするのだろうかと思ったけれど、彼女はすとんと正面に腰を下ろし鞄を隣に置いた。
身ぶり手振りで自己紹介をした後、飲み物を注文する。ニルスくんと彼女は笑いを交えながら手話で会話を始め、僕はそのスピードに驚いた。
はっきり言って、何を話してるのか半分ぐらいしか分からない。
例えば彼の両親との会話ならば、彼らは声を出しながら手話を使うので理解出来るのだが、聴覚障害をもつ人同士の会話を見たのは初めてだったため、面食らってしまう。
僕が圧倒されてることに気がついたのか、ニルスくんは鞄からノートを取り出した。
それは僕達のではなく、真新しいやつだった。
『これ使おう、ロシェ』
「う、うん」
それを開いて彼がペンを取ってる間、サブリナさんはじっとその様子を見ていた。
そして机に置いた僕の手をちょん、と触ってきた。
『少し手話分かるんだよね?』
「えっと、はい、分かります」
『ふふ。敬語じゃなくていいよ』
そう伝えて彼女はニルスくんのノートを取り、自分がペンを持ってすらすらと書き始めた。その自信をもった挙動に一瞬、彼も僕もぽかんとした。
やがて目の前にノートが差し出される。女の子らしい丸文字でこう書かれていた。
『この前ニルスが私と会ってるとき、君から連絡があったって言って飛び出していっちゃったの。すごく優しいよね。けど普段から君の話ばっかりだから、私君に会いたいなあってずっと思ってて。どんな子なんだろうって。もし女の子だったら焼きもち妬いちゃうんだけど、可愛い男の子で良かった。今日はいきなり呼び出しちゃってごめんね』
そこには彼女の素直な気持ちがつらつらと表現されていた。僕には衝撃的なものに感じられたが、どうやらサブリナさんはニルスくんがすごく好きらしいということが分かった。
肝心の彼はというと、文面を見て驚き、彼女にやや文句を言っているような様子だった。
その間に僕もノートを使って返事をする。
『そうだったんだね、僕が急に呼び出しちゃってごめんね。ニルスくんはいつも優しくて助かってます。僕も今日はサブリナさんに会えて嬉しいです』
若干動揺してたため変な文になったけど、出来るだけ簡潔に伝えようと心がける。
この間、やっぱり彼女といたのだと知り申し訳なく思った。もちろん僕の粗相については伏せたけど、それから話題は自然と体や障害のことに移った。
『ーーそれは大変だったよね。私も分かるよ。障害があると予期しないことが起こったり、トラブルが多いし。ちょっと話は違うけど、私達もさ、健常者とのコミュニケーションで困ることあるもの。例えば聞こえないから無視してると思われたり、黙ってるから大人しいとか、怒ってるとか勘違いされたりね』
サブリナさんはノートや手話を使って、身の周りの出来事について話をしてくれた。種類は異なるけど、それは同じ障害者としてとても興味深いものであり、僕は聞き入っていた。
ニルスくんとは普段あんまりそういう話はしなくて、どちらかというと普通のくだらない中高生のやり取りのほうが多いから、やっぱり同じ障害をもつ者同士のほうが、共感が大きいのかなって感じたりもした。
『でもね、だからこそ私は健常者相手でも、自分から積極的に話しかけたり飛び込んでいくようにしてるの。やっぱり先入観とか、こっちから壊していかないとね』
にこりと笑って話し終える姿は、なんだか眩しく感じられた。僕は確かに感銘を受けて、その通りだなぁなんて思ったりしてたんだけど、ニルスくんはその間グラスのストローを眠そうにくるくる回していた。
「ニルスくん、大丈夫? なにか他のもの頼む?」
『えっ。あー、うん。パフェ頼んでくれる? 一緒に食べようよ、ロシェ』
「一緒に? 恥ずかしいでしょ、そんなの。一人で食べてよ」
『いいじゃん別に。いつもしてるでしょ』
「してないよっ」
普段の調子でからかってくる友達に思わず突っ込む。
すると様子を見ていたサブリナさんが、ニルスくんに手話で話しかけた。勢いがよく、また早くてちょっと追いつけない。
ニルスくんはやや面倒くさそうな顔で返していた。何を話してるんだろう。気になったけれど、中々会話に入ることは出来なかった。
でもニルスくんの表情が、突然ムッと怒ったものになった。彼女もいつの間にか険悪なムードを醸し出し、空気が重くなる。
え、え? 喧嘩?
何があったんだろう。僕、何かまずいことしたかな。
「ねえ、どうしたの。大丈夫?」
『なんでもないよ、へーき』
「でも……」
サブリナさんが僕に向かって「教えてあげる」とゆっくり手話をした。
『片手の手話、めちゃくちゃだねって言ったの。全然分からないし。本当の手話が下手になるから、やめたほうがいいよって言ったのよ』
どこか憐れみが混じった眼差しで、僕にとってはきつい言葉が並んだ。
長い時間をかけて二人で作っていった片手の手話は、確かに他の人には無意味なものだと思うけど……。
僕はほんとに泣き虫で、打たれ弱い。
なぜかそれが僕の半身麻痺のことを直接言ってるように聞こえてしまい、目が潤んでしまった。
「ごめんね。でも、ずっとこうやって話してきたから、僕達には無駄じゃないんだよ……」
膝を握りしめた時、ガッと近くの椅子が引かれた音がした。上を向くと、彼女のことを睨みつけたニルスくんが立ち上がっていた。
財布からお金を取り出し机に乱暴に置くと、僕のそばに回り込んできた。
『ロシェ。帰るぞ』
「……えっ? ま、待ってニルスくんーー」
止めたのは彼女もで、立ち上がって怒りながら手話を叩きつけている。しかし彼の憤りは治まらず、「うるせえ!」と明らかに粗暴な感じで怒りを見せていた。
僕は彼女に「ごめんなさい」と謝り、喫茶店を出ていこうとするニルスくんのことを追いかける。
どうしよう。なんというか、最悪なことになってしまった。
彼女の言葉はショックだったけれど、それでもやっぱり全部自分のせいだという責任を感じた。
店を出て、薄暗くなった歩道を車イスで進む。ニルスくんの背中を追って呼び掛けるけど、あんまり意味はなくて、それでも頑張っているとやがて彼は振り向いた。
そしてこっちに気がつき、走って戻ってきてくれる。目の前に立った彼は、傷ついた顔をしていた。
いつものお調子者の雰囲気じゃなく、僕よりもやるせない表情だった。
「ニルスくん……ごめんね。僕のせいで」
『……違うよ、俺のせいでしょ。どうしてロシェが謝るの』
車イスの前にしゃがみこみ、なぜか泣きそうな顔で見上げてくる。いつも見せない表情に、鼓動が密かに速まっていく。
「だって、手話のこと、影響あるって知らなくて。僕いつも、周りに付き合わせてばかりだから……」
ゆっくり話すと、ニルスくんは意図を読み取ってくれたようだった。
『何言ってんの。ロシェが俺に全部合わせてくれてるんじゃん。こうやって話せるの、ロシェのおかげだよ。分かってるか?』
真面目な顔で迫ってきて、僕は思わず首をすくめた。
ニルスくんは背中を曲げて、僕のことを抱きしめた。親友による温かい抱擁が、今はすんなり受け入れられた。
その時、いきなり耳元で「あ"ーっ」という声がした。びっくりした僕は、それがニルスくんの放った叫びだという事に気づく。
彼は僕から少し離れ、またノートを取り出した。熱心に何かを書いていて、僕も彼の言葉を待った。
『今日は連れてきてごめん。俺はロシェと会話できるの嬉しい。一番嬉しい。でも、やっぱりロシェの声が聞きたくなる。俺が喋れたら、声出せたら、今日みたいに嫌な思いさせることもなくて、二人でずーっと話せるのにな』
飾り気のないニルスくんの文章を読んでいたら、僕は突然、涙腺が壊れてしまった。
絶え間なく涙がこぼれてきてしまい、すぐに返事が出来ない。
そんな風に思ってくれてたのも初めて知ったし、彼のせつない思いが伝わってきて、胸が苦しいほど締めつけられた。
『うわ、また泣いてる。泣くな、泣くな、ロシェ』
彼は僕の頬を一生懸命指で拭ってくれた。僕は、その自分のより大きな手をぎゅっと握った。
「ありがとう、ニルスくん。僕、こうやって君と話せるの嬉しい。どんな形でも嬉しいよ。僕の声は聞こえなくても、今、君の声聞こえたよ。結構格好いい声だね」
頑張って微笑み、気持ちを伝えた。彼は変に聞こえることを気にして普段声を出したがらないから、はっきり聞いたのは初めてだったのだ。
ニルスくんは目を見開いたまま、真っ赤になってしまった。
立ち上がり、急に黙って、そっぽを向き赤髪を掻いている。そして僕のことをちらっと見た後、素早くちゅっと頬に唇を当ててきた。
僕は呆気に取られてしまうけれど、いつものように怒る気にはなれなかった。
この日は親友との絆が、もっともっと深まった感覚がしていたからだ。
◇◇◇
そしてそのまた翌週。ニルスくんがうちに泊まりにやって来ることになった。
なにやら、また大事な話があるのだという。あれから彼女とはどうなったんだろう。正直僕も恐ろしくて、あまり突っ込んだ話は聞かないようにしていた。
『ロシェの父ちゃん! こんばんは、お世話になります!』
「あ、ああ。……まあ、ゆっくりしてってくれ」
リュックサックを背負って、いつものテンションの友達が家の中を歩き回る。
彼が泊まりにくるのは、改装した後では初めてのことだ。部屋に案内した後、僕は飲み物を運ぶためにキッチンへと向かった。
そこには考え事をしているような父が、カウンターを背に立っていた。
「なあ。今日あいつは、どこに寝るんだ?」
「えっ?」
突然尋ねられた事柄に、僕は考えを巡らせる。前に来たときはもっと僕が小さかった時だから、僕は父の部屋で寝ていて、彼には僕の部屋で眠ってもらった。
でも今回は、そういうわけにはいかないし。
「どうしよう、忘れてたよ」
「いや忘れるなよ、今日週末だろ? 俺との約束はーー」
妙に真剣な顔で問いただす父に、思わず目を丸くする。
「お、お父さん、そうだけど、まさか一緒に眠るの無理でしょう? 恥ずかしすぎるよっ」
「……それはそうだが、……まあ、仕方ないか……けど、お前は」
二人でこそこそ話していると、キッチンの扉の前にニルスくんが現れた。
僕は車イスから見上げて、手話を使い話しかける。
「あっ、ねえねえニルスくん。今日どこで寝る? 僕車イス使うから、夜はうるさいし……ソファじゃやだ?」
『ロシェと同じベッドでいーよ。夜は運んであげるし。一緒に寝よ』
ウインクをして手話で語りかける台詞に度肝を抜かれた。お父さんの前で、何を言い出すんだろう。
「おい、今何て言ったんだ? ロシェ」
「いや、別に、ていうかニルスくん、それは狭いから無理だよ。リビングのソファで我慢してくれる?」
冗談をスルーしてお願いすると、彼は「ちぇっ」という口を作り、『でも俺今日は寝ないから。ずっとお話しよーな』と楽しそうに微笑んできた。
恐る恐る父を見上げると、表情は変わらないけど纏う空気が怖い。この前の一件以来、父はどこか僕の親友のことを、気にかけるようになった気がする。
僕達はとりあえず、飲み物とお菓子を持って二人で部屋に戻った。
久しぶりのお泊まり会には、僕も心が弾んでいた。父や他の家族以外に、何も気取らなくていい存在はニルスくんぐらいだし、気ままにお喋りを楽しめた。
彼はまた二人のノートを持ってきてくれて、どんどんページも埋まっていった。
「そういえばニルスくん、最近あんまり携帯使ってないね。学校でも」
聞くのはよそうと思ったのに、やっぱり彼女とのことが気になってきて、僕はさりげなく尋ねた。すると彼は顔を上げて、僕のことを見据えた。またペンが走り出す。
『ああ、その話なんだけど。俺、あの子と別れたんだ』
「えっ!」
思わず声を張り上げた。喧嘩したままなのかなと思ってたけど、彼は普段通りの様子だったから、そこまでは予想していなかったのだ。
やっぱり、あんな事があったせいで……。そう思い、言葉が続かなくなった。
『なに元気なくしてんの? 言っとくけどロシェのせいじゃないよ。俺がもう嫌になったんだ』
ニルスくんは苦々しい顔で語り始めた。明るくて意思が強いサブリナさんとの付き合いは最初はわくわくしたそうだが、自分よりもお喋りで、会話にはわりと気を使っていたという。
そして彼女は嫉妬深い一面があり、ニルスくんのことや周囲のことを色々知りたがったそうだ。
恋人になったらそうなっちゃうのかなって思ったりもしたけど、この間の態度とかを考えると、やっぱりニルスくんのことが好きだったからだろうな、とも思う。
『まあ疲れちゃったんだよ。ちょっと無理してたのかもな。それにこの前のことは、やっぱり許せなくてさ。あれから会って伝えたんだ』
指を何度か組み替えたりして、けれど真剣な瞳は一点を見つめていた。
「そうだったんだ……大丈夫だった? 同じ教室なんでしょう?」
『平気だよ。タフな感じだし。最後は二人とも冷めた雰囲気だったから大丈夫』
はあ、と大人びたため息を吐いた親友に、なにか言葉をかけようとしたけれど、あんまり上手くいかなかった。僕も早く色々経験をすれば、もっと恋愛事も分かったりするかな……。
そこで父の顔が浮かんできて、一人でぶんぶんと顔を振る。
『なんかさぁ、俺、女の子の体とかは興味あるんだけど。それと恋愛ってやっぱり違うな』
そこまで書きなぐって、床に座っていた彼は頭をベッドの端にぽすっと埋めた。
はっきりとした物言いに、僕はまた咳き込みそうになる。
「そう、だね……僕には難しいけど。ニルスくん、サブリナさんのこと、本気で好きじゃなかったの?」
『……うん。好きとか、よく分からなかった。俺、お前のほうが好きだし。最初からそんな予感はしたんだけどさ』
…………えっ? 僕?
どうして今自分が出てきたのか見当もつかないでいたら、ニルスくんは体を起こして、車イスに座った僕のことを見上げてきた。
手が僕の右手を握る。彼の緑の瞳は、やたら澄んで見えた。
『本当だよ。ロシェのほうが好き。お前といるとき、一番楽しい』
手を握ったまま、片手の手話を使って、丁寧に伝えてくる。
僕はまばたきをして、言葉が途切れてしまった。どうしてか、友達相手に対して、顔がのぼせ上がる。
親友だし好かれてることは知ってたけど、改めて言われるとすごく照れた。
「えっと、ありがとう。……僕もニルスくんのこと好きだよ。ずっと友達でいてね」
照れくさくて微笑むと、ニルスくんはじいっと目を細めた。そして腰を上げ、さらに僕の真正面に膝立ちをする。
『友達?』
「うん。親友、でしょ?」
『そうだけど……』
え。違うのかな。あんなに言ってくれたのに。
そう思って不安になると、ニルスくんは僕のほっぺたを撫でてきた。
なんだか不服そうな顔だ。
『ロシェ、キスしていい?』
「だ、だめだよ……あっ、ちょっとっ」
駄目と言ったのに、また唇を頬に押しつけてきた。
そして忙しない動きで紙とペンを取る。
『俺は、ロシェが好きだって言ってんの。分かってる? 友達より大きな好きなんだよ!』
大きな好き……大好きってこと?
友達よりって、どういう意味なんだろう。まさか、いや違うよね。
この人また僕のこと、からかってるだけだよね。
文字を見て混乱した僕は、ニルスくんの大人っぽい眼差しに捕まっていた。
「そう言ってくれて嬉しいよ。でも、あの、どういうこと……?」
『ロシェ、やっぱり好きな人いるの?』
反対に聞き返されて答えに窮した。
でも僕は、今度はニルスくんに嘘をつけないと思って、半ば勢いのままに観念することにした。
「あのね、僕お父さんが好きなの」
たぶん笑われる。そう思ったけれど勇気を出して親友に告げた。
僕はさっきより顔が真っ赤になってしまったと思う。父のことを考えたら、口に出したら、体中が熱くなってしまうのだ。
でも彼は一瞬目を丸めたものの、笑いはしなかった。代わりに腕を組んで、首を捻ってうんうん唸り始める。
『それは知ってる。でも、ロシェの父ちゃんかぁ……それ超えるの、難しすぎじゃん……』
冗談なのか本気なのか、ニルスくんは真剣に考えているようだった。
はぐらかしたつもりはなくて、僕の本当の気持ちだけど、実際にはちゃんと伝わってないと思う。
でもなんとか、その場の混乱は切り抜けたように思えたのだった。
その夜、結局ニルスくんにはリビングのソファに寝てもらった。柔らかい布製で大きめの面積だし、背の高い彼でも十分に寝れるスペースはあると思う。
僕は色々考えてたら、すぐには眠れなかった。彼の言葉の意味とか、父親への思いを喋ってしまったこととかが、頭の中をぐるぐる駆け巡っていた。
一度体を起こし、喉が渇いたからキッチンに行こうとした。
部屋を出て車イスを走らせ到着すると、なんとそこには父の姿があった。親子だからだろうか、同じタイミングでお水を飲もうとしていたとは。
でも今日は珍しくずっと二人きりではなかったから、眼鏡をかけて少し髪の毛がぼさっとしてる父に会えて、胸が温かくなった。
「お父さん、まだ寝てなかったんだ」
「……ああ。知ってるだろ、お前がいないと寝れないの」
やけに素直な台詞が聞こえて、僕は驚く。週末は一緒に寝るという約束を破ったこと、まだ根に持っているみたいで、悪いけど少し笑ってしまった。
「ごめんね。明日は一緒に寝ようね」
「ああ、そうするぞ」
どっちが子供なのか分からない。
今日の夕飯も父が作ってくれて、三人で食べているときは普通のクールなお父さんだった。でも今はちょびっとだけ、拗ねたような顔つきに見える。
喉を潤して一応お手洗いも済ませ、僕はまた部屋に戻ろうとした。すると父も「送ってやるよ」と言ってついてきた。
ベッドの中に入るまで、そばに腰を下ろして見守っている。
「添い寝してやろうか?」
「なに言ってるのもう」
「冗談だよ」
軽く笑って身を屈め、僕のおでこにキスをする。
おやすみなさい、と言って目を閉じようとしたけど、僕は父の寝巻きの裾を掴んでしまった。友達がいるのに何をしてるんだろうって、自分でも思う。
「どうした、ロシェ」
分かっているくせに、意地悪な父は僕の唇に親指で触れた。
初めて触られてドキドキする。その指は僕の頬にすべり、代わりに唇は父の口に塞がれた。
お父さんはこうやって僕にキスしてくれるようになった。
一方的に頼むばかりじゃなくて、お父さんの気持ちもだんだん伝わってくるようになった。
「お父さん……」
「ん?」
好きって言いたいな。
前は言えてたのに、父から口にされるようになってから、さらに意識をしてしまって言えないでいる。
「もう一回して」
お願いをすると、父が優しい瞳で微笑んだ。
「わかった」
再び唇が熱に包まれる。目を閉じたまま数度食まれて、甘い夢に誘われる。
ああ、お父さんが好き……。
思考から解放される僕とは反対に、上にいる父の口づけは深いものに変化する。
父が少しだけ口を開けた。間もなく舌先が僕の唇のすきまを静かになぞる。
「ん、う……」
温かく熱を持った舌に焦らされて、僕は同じように薄く口を開いた。一瞬動きが止まった父だったが、こちらにもっと体を密着させ僕の頬を手のひらで覆った。
父の舌が僕の舌先に触れ、ゆっくり絡めとってくる。濡れて重なり合う感触にビクビクしながら、全身に電気のような刺激が伝わっていく。
「ふ、…あっ、…んっ」
お父さんに唇を吸われて、口内を優しくなぞられた。
ぎゅうっと腕を握ると、触れていたところが離される。それはほんの短い出来事だったけれど、まるで永遠のように甘やかに感じられた。
「お父さん……僕、今の、気持ちよかった」
強すぎた刺激に、息をついて伝えると、父もうっすら上気させた顔で呼吸をしていた。
「……ああ、俺もだよ。ロシェ」
そう言って体を起こす。
また、行ってしまう。こんなに忘れられないキスをしておいて。
とっさに右手を伸ばして繋ぐと、こちらを見た父も握り返してくれた。
「今日はこのぐらいにしよう、な」
頭をそっと撫でて少し恥ずかしそうに、どこかに視線をやる。
僕も普段見ない父の様子につられて、何度も頷くしか出来なかった。
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