short story/old | ナノ
桜の森の散りゆく下
桜が、散っている。

「3年間ありがとうございました」
「ああ」

間の抜けた返事。ぼさぼさの髪。曇り放題の眼鏡。よれよれの服。薄汚れた白衣。ボロい便所サンダル。
3年4組担任、夏原博也。32歳。独身。
卒業ということで一応挨拶しに来たが、改めてがっかりさせられた。
こんな男が俺の担任だったのか。しかも3年間。

「お前、もう卒業か」
「はい」
「何か早かったな」
「そうですね」

嘘だ。本当は死ぬ程長く感じてた。
馬鹿な同級生。頼りない担任。
俺は予定通り第一希望の大学に受かったから、こんな生活とはおさらばだ。
都会へ行って、ぐだぐだの3年間を清算する。
それだけが俺の目標だった。
だから、恥ずべき過去の象徴たる夏原とは早く決別したい。
今日だって卒業式だというのに、夏原は体育館を抜け出して、こんな人気のない部活棟の奥の裏にいた。何でだよ。

「桜、綺麗だな」

夏原は突然そう言った。
俺は何も答えなかった。
「……俺さ、お前が卒業したら言おうと思ってたことがあるんだ」
ふいに、夏原は呟いた。
「それはこの先役立つ言葉ですか」
「うん、大いにな」
そう言うと、夏原は眼鏡を外して髪を整えた。
俺は目を見張った。
其処には、凍りつくように美しい男がいたから。
何時もの夏原からは想像もつかないような、だ。
「何か、照れるな」
ぽつりと溢したその声も、何時もとは違う。
曲がり気味の背も今は伸びている。
「……俺より背高かったのか」
「ああ、余裕だよ」
そう言って夏原はにこりと笑った。
それが出来るなら前からやれよ。
「好きだ」

俺が目を反らした瞬間に、耳の近くから低い囁きが聞こえた。
夏原が俺を抱きしめていると、麻痺した頭はぼんやりと認識した。息が詰まる。意味がわからない。
「ずっと好きだった」
「な……」
あんた、男だろうが。
何で俺にそんなこと言ってるんだ。冗談だろ。
そんな言葉は喉の真ん中に引っかかったまま、口から出ることはなかった。
温かな唇が言葉を塞き止めて、届かない。
初めてなのに。お前確信犯かよ。
その言葉でさえ飲み込むしかなくて、夏原から解放されるまでの時間は永遠に近いほど長く感じた。

「俺は、お前が好きだ」

夏原からは噎せ返るような花の香りがした。
重ねて言わなくていい。
もう十分にそれはわかった。
頭がくらくらする。
「返事待ってるから。これ、電話番号とアドレス」
夏原は白い紙を俺に握らせて、校舎の方へと歩いていった。自分勝手なやつめ。
俺がどれだけ混乱してるのかがわかってるのか。
「……お前、顔赤いぜ」
夏原は最後にくるりと振り向いて、楽しげにそう言い残していった。
返事を待ってるだって?
ずるいだろ。こんだけ散々仕掛けておいて。俺が何て言うかわかってる癖に。
ああ。桜が、散っている。
俺もこんな風にはらはらと、深みに嵌っていくのだろうか。
そんなことを考えながら、俺は手の中の紙を握り潰した。


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