short story/old | ナノ
弘誓の船
「姐さん」

春の日差しも柔らかになった。
白露が座って中庭を眺めている白扇に呼びかけると、美しいかんばせを綻ばせた。
太夫付きの禿である白露にとって、その表情を見るのが何より幸せだった。
「白露、おいで」
この見世一番の花魁である白扇太夫は、白露の他には禿も新造も付けない。
五つの時一人きりで此処にやって来た白露に、優しくしてくれたのは白扇だけだった。
禿になるには幼く、かと言って働き手にもなれない子を、楼主に頼み込んでまでして引き取ったのだ。
そうして白露は、今まで身の回りに人を置くのをかたくなに拒んだ白扇にとって初めての禿になった。
白扇は白露を妹や娘のように慈しんだ。他の花魁のように厳しく稽古することもなく、最初から血が繋がっていたかのように仲良く稽古をした。

そうして三年の月日が流れた。

桜の花が溢れるように咲き誇っているこの春、白扇太夫は身請けが決まった。
相手は士族上がりの貿易商、佐伯だ。武士には珍しく、早々に刀を捨て髷を切り、商いで成功した男らしい。
その癖遊び慣れていなく、白扇に会う時は何時も赤面する程初心だった。
最初から相当入れ込んでいたが、この春ようやく身請けが決まった。
しかし、佐伯は白扇だけでなく禿である白露も一緒に家へ迎えると言った。
これには楼主や遣手も困惑した。だが、佐伯は白扇を身請けするのと同じだけ金を出すと言って引かなかった。
前代未聞の出来事に廓中から非難の声が上がった。白扇にではない。白露にだ。
身請けなどそうそうあることではない。
ましてや苦労も何も知らぬ禿も身請けされるなど、妓たちが許す筈がなかった。
結局白扇も佐伯も引かなかったので、渋々だが楼主も了解した。それでも白露は陰で苛められた。
しかしそれも今日で終わりだ。
明日、白扇と白露は佐伯に身請けされるのだ。
太夫は二十五だから、白露が妹とされるのか娘となるのかは分からない。けれど、白露にとって幸せなことだというのは分かっていた。

「ねぇ、白露」
白露を膝に乗せ、しなやかな指で髪を梳く。
「わちきら、俗世でやっていけるのかねえ」
白扇は独り言のように呟いた。
花びらが軽やかに風に舞う。
御一新前からあるこの桜も今日で見納めだ。それだけは少し寂しい、と白扇はこぼしていた。
「わ……わっちは楽しみです。だって、姐さんも佐伯様もお優しいし」
「おや、泣かせるね。あんたは良い子だこと」
ぎゅっ、と白扇は白露を抱きしめた。
その腕は春なのに氷のように冷たかった。
「でも、お菓子も食べられなくなるし、簪も綺麗なべべも着れなくなっちまう。それでも良いのかえ?」
「姐さんと一瞬なら、わっちは何処でもいいです」
「旦那様のお家の人に苛められるかも」
「そん時はわっちが姐さんを守るもの」
「生意気ねえ。だけど嬉しいわな」
ふわり、とまた花弁が泳ぐ。
風に合わせて白露の髪もさらさらと揺れた。
「わちきもあんただけは幸せにしてやるからね。苦界に沈むのはわちきだけで十分さ」
「でも佐伯様はお優しいから、姐さんもきっと幸せになれます」
白露は無邪気にそう言って笑った。
まったくあんたは可愛いね、と言って白扇も笑った。
桜の花も、少しだけ色付いたような気がした。




弘誓の船/ぐぜいのふね
(花言葉:精神美)


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