short story/old | ナノ
たましいの帰り道
警報の音が止み、飛行機の音が聞こえなくなってから二ヶ月も経った。
その代わりに、世界がぎしぎしと軋む音を響かせているようだった。

この国は、負けたのだ。
ざらついたラジオの声を聞いても、負けて悔しいとか敵国が憎いとかそういう気持ちは起こらなかった。
ただ、母と弟を奪ったものがあっけなく終わってしまったことが何故だかひどく悲しかった。
父は出征したままだし、小さな妹は疎開している。
私は終戦を迎えても、一人ぼっちだった。
大陸へ渡った父はいくら待てども帰ってこない。手紙もなければ帰って来たという噂も聞かぬ。
そのまま大陸に残って新しい家族を作ったのかもしれないし、とっくに戦場で倒れたのかもしれない。
だが、どちらにしても私は何もかも見放された気がしてならなかった。
記憶の中の父と私を繋いでいたものが、あのざらざらの放送で断ち切られたかのようだった。
ともかくもう父はいないのだ。
そう諦めて、明日こそ妹を迎えに行こうと私は思った。

そうして、庭で妹の着物を干していたらお隣の治代ちゃんが何故か急いで駆けてきた。
本当に急いでいたようで、酷く息が上がっていた。
「治ちゃん、どうしたの」
「の、信ちゃん、お、おお父さん、が」
私が苦笑して問うと、血の気のない顔で息も絶え絶えに話しだした。
流石に私もこの調子を疑問に思った。
「ねえ治ちゃん、もっとゆっくり話してよ」
「のっ……のっ、信ちゃんのお父さんが、今そこに」

父が帰って来た。
治ちゃんの言葉を聞いた瞬間、私の頭は真っ白になった。
洗ったばかりの妹の肌着を落とし、盥を蹴飛ばし、いつの間にか私は駆け出していた。
空っぽだった私の中に、嬉しさとか怒りとか悲しみとか、そういうものが綯い交ぜになった奇妙な感情が急に沸き起こった。
それは少しぬかるんだ畦道なんかには決して似合わない、繊細で潔癖で、でも勇猛な不思議な気持ちだった。
泥がはねて足を汚す。
空は爽やかな青だ。
全然気持ちに合っていない。

「父さん」

どのくらい走ったのだろう。
父の見送る前よりも骨ばった背中を見つけた時は、汗が一滴土の上に落ちた。
息は上がっていたが、父はそんなことに気付かず道端にしゃがんでいる。
「おお、信子」
父はゆっくりと振り向いて、変わらぬのんびりした声で呼び掛けた。
少し痩せたみたいだ。肉が削げて丸眼鏡がずり落ちそうになっている。
「ようやく帰ってこれたよ」
「……今までどこにいたの」
「大陸の方に、うん、仲間の葬式があって」
呆れたことに、家族に連絡することより同じ隊の友人やら知人の弔いをしていたらしい。二月の間、幾度も幾度も。
「……だから手紙も何も送らなかったの」
父は沈黙した。
ふつふつと怒りが浮かび上がってきた。
私や、弟や妹と血のつながりを軽んじているように感じたから。
「母さんも……純夫も死んじゃったわ。空襲だった。美代はまだ疎開してるのよ」
父はうつ向き、肩を縮めている。顔を赤らめ、必死に何かを堪えているようだった。
「どうして黙ってるの。早く来てくれればまだ……」
私は自分が醜いと思った。
何故父を叱責しなければならないのだろう。
責められるべきは父ではないのに。

ぽたぽたと、雫が土を濡らす。
父は泣いていた。
何て静かに泣くのだろう。声も上げず、ただ美しい雫だけが地に落ちていく。

そして私は気付いた。
父の手に、竜胆が握られていることに。
ぎゅっと握り締めた所為で、しなしなと萎れている。その姿が父と重なって胸が痛んだ。

「言い訳じゃあ、ないけど」
紫が揺れる。
父はどんな気持ちでこの花を摘んだのだろう。
「母さんが、竜胆を、好きだったんだ」
私は何てひどい人間なんだ。泣きたいのは父の方だろうに。
「……だから、これを」
「もういいよ、父さん」
私も父も、もう涙で顔がぐしゃぐしゃだった。
それでも父は、微笑もうとしているようだった。

父さんが生きててくれただけで、良かったよ。

そう言ったつもりだったけど、言葉が喉につかえてしまった。
そのまま二人でわあわあ泣いた。
もう飛行機の唸る音も、爆弾の落ちる音はしない。
私達から大事なものをたくさん奪って、ようやく戦争は終わったのだと私は思った。



たましいの帰り道
(花言葉:あなたの哀しみに寄り添う)


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