火曜日の静寂
僕達は二人だ。

彼と最初に出会ったのは、4月の始め、僕が慣れない新生活のせいで自暴自棄になりつつあった時だった。
ある日僕が自宅の玄関を開けると、見知らぬ男が座っていた。
無精髭を生やした、でもどこか不思議と小綺麗なその男は、僕を見ると人差し指を唇の前にそっと立て、追われてるんだ、と呟いた。
僕は自暴自棄になっていたせいなのか、見知らぬ男の不法侵入も大して気にせず、その上男に、上がったらどうですか、と言った。
その時の男が彼である。

それじゃあ、と言って彼はごく自然に家に上がった。
僕は何となく紅茶を煎れて、彼をもてなした。
彼は嬉しそうに紅茶を一口飲むと、紅茶が好きな人間に悪いやつはいないんだ、と言って笑った。そして、追われている筈なのにあっさりと名前を名乗った。それは近頃新聞を賑わせた、殺人犯の名前だった。
しかし、恐ろしいとかいう気持ちはなかった。紅茶が好きな人間は悪人ではないのだから。自暴自棄に陥っていたからかもしれないが。
すると彼は突然、無反応な僕を床に押し付け、首に手を掛けた。骨張ってざらざらとした手だった。
そして、俺は君を殺すかもしれない人間だよ、と言った。驚いたけれど、あまりに柔らかな殺人未遂だった。
その瞳に映る憂いと悲しみ、そして撫でるように触れるその手に、僕は一瞬溶け合った。
同時に、許そうと思った。この世の凡てが彼を非難しても、僕だけは彼を許そうと。
そうですか、と僕が言うと、不用心だぜ、と彼は眉をひそめた。僕は不思議と、彼になら殺されてもいいような気がした。
彼は少しばかり申し訳なさそうに、暫く匿ってほしいと言った。僕は少し悩んだが、彼が僕より十ほど年上なのと(これは新聞に載っていた)、靴を脱いだ後きちんと揃えたことを考え、家事の分担を条件に、その申し出を了承した。僕より大人なのだから、きっと大した問題は無いだろう。

そうして、僕らのおかしな共同生活が始まった。
彼は時々トイレの電気をつけっ放しにするほかは、文句の言いようのない、至極大人しい同居人だった。彼が本当は殺人犯だということを忘れそうなくらい、平和な暮らしだった。
最初の一ヶ月は、彼もさすがに外へ出ることは無かった。二ヶ月経つと、徒歩五分のコンビニまでは出かけるようになった。そして三ヶ月が経つと、どこから探してきたのか、バイトを始めるまでになっていた。
僕は彼が見つかってしまうのでは、と心配したが、当の本人は自分の特集されているニュースを見てげらげら笑っていたので、なんだかなあという気持ちだった。
確かに画面に映った指名手配写真は、笑ってしまうほど彼に似ていなかった。今の方がかっこいいだろ、と彼は言った。人を殺して美しくなったということだろうか。
彼の犯した殺人についてはぼんやりとしか知らなかったが、どうやら中々凄惨な事件だったらしい。彼は斧で自分の両親を殺したと言った。
彼はそれについて何も語らなかった。ただ一つ分かったのは、彼は純粋で獰猛な、美しい獣であるということ。
彼の名がニュースから消え始めた頃、自暴自棄だった僕は、いつの間にか優しく柔らかな人間になっていた。大学の友人にも、春とは別人みたいだね、と言われた。
多分、彼のおかげなのだろう。僕らは同居人を越えて、家族のような、ある種恋人達のように穏やかに生きているから。
彼は前に、僕といられて嬉しい、と屈託なく言った。
あの瞬間、確かに僕は心から喜んだ。そして同時に、奇妙な恥じらいも。
彼は僕を殺す人間らしい。それは確かにそうかもしれない。
しかし、それは何より安らかな死だろう。恐れは無い。甘く、柔らかで、美しいそれに、僕は恋焦がれる。

今、僕の家には、僕だけの美しい男が住んでいる。
朝は頬にキスをして僕を見送り、夕方になれば二人で夕食を作り、夜になれば隣り合って眠る。
ただ穏やかに、日々は進む。
この均衡が崩れた時が、僕の死ぬ時なのかもしれない。だが、彼に殺されるのなら本望だ。

いつか美しい死が訪れるまで、僕らは二人で。

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