女を拾った。


朝玄関のドアを開けたら其処に倒れていたのだ。面倒だ、と思わず舌打ちをしてしまった。
家に上げるのは不快だし面倒だが、救急車なり警察なりを呼ぶともっと面倒なことになるのは目に見えていたので一先ず家に上げて気が付いたら早々に立ち去ってもらうことにした。

女の顔を覗くと、これまで人間、美術品の区別なく美しいものを見てきて十二分に肥えた僕の目から見ても美しい顔立ちをしていた。しかも抱えあげると驚くほど軽いものだから、こいつは人間じゃあなくて、人形なんじゃないかと思った。



そして、本当にそいつは人形だった。





「───事情を話さなくてもご存知なんて、話が早くて助かります」

「じゃあ君は本当にスタンド能力で命を与えられた人形だって言うのか」

「はい。ですが、主が亡くなってしまって途方に暮れていたんです。そこで、ちょうどこの家が遅くまで明かりのついていたので…」



ヘブンズドアで女の経歴を読んだ瞬間に僕が思ったことは漫画のネタになるかもしれない、ってことだ。
人形が人間みたいに動くなんて漫画じゃあ在り来たりの話だが現実にそんなシチュエーションは滅多にやってこない。この女を観察すれば、よりリアリティのある漫画が描けるかもしれない、そんなことを思った。
それに、丁度前任の家政婦を辞めさせた(辞めたんじゃあない、僕が、辞めさせたんだ)所だった。この女は行く宛が欲しい。僕はこの女を傍に置いておきたい。
利害が一致すれば話は早い。女は僕の家で暮らすことになった。





余りにも精巧過ぎるせいでただの人間と大差なくて漫画のネタにならなそうな点を除けば、彼女は中々に優秀な女だった。五月蝿くないし、必要以上に干渉してこない。
家事も問題なく行ってくれるから僕は何も気にせず漫画だけに集中することができた。


「先生、お茶をお持ちしました。此方に置いておきますね」


先生。彼女は僕のことをそう呼んだ。「せんせい」と「せんせ」の中間のような発音で、最後の「い」がグラデーションのように沈黙に消えていくのが僕は割合好きだった。
彼女は人形だったから容姿が抜群に好かった。でもそれよりも僕はあの声の方を気に入っていた。
何ともなしにそのことを伝えるといたく喜ばれたのを覚えている。


「私の喉には声帯が無い代わりにこう、雫の形をした硝子が沢山吊ってあるんだそうです。人形は喋れないから、せめて星の鳴くような音が出るようにって、職人さんが」


でも本当に喋れるようになるなんて吃驚ですよね。と彼女はくすくすと笑った。
その笑みが単純に声を誉められたことへの喜びか自分を創った職人の願望に根差したものだったのか、僕に判別することは出来なかった。


それから度々彼女は歌を歌うようになった。曲は、良く知らない。ただ、何処かで聴いたようなクラシックだった。
歌、といっても庭先で掃除をしながら口ずさむ程度のささやかなものだったから仕事の邪魔にはならなかったし、寧ろ自分も楽しんで聴いていた節がある。心なしか筆ものった。
今になって思えば、あの日々はかなり充実していた気がする。





始まりが唐突だったからかもしれない。その充実した日々は同じように唐突に終わりを迎えることになった。





「先生、お暇を頂けませんか?」


飲み物はどうか、というのと同じような口調で言われたものだから慣性で頷こうとして、僕は慌てて首を振った。


「暇?えらく急じゃあないか。僕の都合も訊かずに勝手に転がり込んできて、今度は勝手に出ていくなんて、随分といい身分だな」


無意識のうちに彼女のことを手離し難く思っていたのかもしれない。僕の口から出たのは割りとキツイ言葉だった。
それに彼女は少しだけ困った顔をして、「本当にそうですね」なんて、僕の好きなあの声で言った。


「私、もうすぐ動かなくなってしまうんです。命を与えられて、暫く経ちますから。だから、先生のお側にいられないんです」


その後、なんて言葉を交わしたのか良く覚えちゃいない。ただ、何処から湧いてくるのか分からない怒りを必死で腹の底に沈めたのを覚えている。


「勝手に出ていこうとするな。動かなくなる直前までここにいろ。出て行く時は僕に報せろ」


その3つを命じて僕は仕事に戻った。でも、思うように筆が進まなくて、イライラが募った。
ああ、それもこれもあの女が急に出ていくなんて言ったせいだ!
苛立ちは筆の鈍りを運んで、筆の鈍りは苛立ちを募らせた。
そんな悪循環の日々が一週間近く続いた───ある夜だった。


「先生、起きていらっしゃいますか」


夜、というより朝も近い夜更けだった。ここ数日の遅れを取り戻そうと躍起になっていた僕の所に彼女がやってきた。いつもみたいに、曖昧な「い」の発音を携えて。


「もう、駄目みたいです。……お暇を頂きますね」


電車もバスも動いていないこんな時間に何処に行くつもりだというのか。というか、行く宛がないから僕のいたんじゃないのか。
今更になって気付いた疑問をぶつけると、彼女は薄明かりの中少し寂しそうに笑った。


「海に、行こうかと」

「海?」

「ええ」

「待て、僕も行く。上着を羽織る時間ぐらいは待てるだろ」


何故か心がざわついた。
多分、彼女が何をしようとしているのか気付いてしまったんだ。


海までは歩いていった。そもそも彼女は自分の足以外の移動手段を持っていなかったし、僕も車を出す気にはならなかった。
夜明け前の一番冷える時間帯で、世界中が眠っているように静かだった。空気が流れる音すら聞こえる気がした。


「もう結構ですよ先生。冷えますからどうぞお帰りになって下さい」


着いた海も何処までも昏かった。
マリンブルーに鉄を混ぜたような明度のまるでないうねりが寄せて退いてを繰り返していた。


「お前、僕に指図してるのかよ。そんなの僕の勝手だろ。ほら、さっさと行けよ」


彼女の靴を波が濡らした。
それは怪物の腹に呑み込まれるのに似ていた。


「でもきっとつまらないです。先生は退屈なさいますよ」

「じゃあ退屈しのぎに歌でも歌えよ。僕はお前の声を、その、…気に入ってる」


女はいつかに見せた困ったような笑みを僕に向けた。それから歌を歌いながら海へと歩き出した。
彼女の両足が、波に喰われていく。



Dans un sommeil que charmait ton image



波が裾を濡らさないようスカートを持って歩いていた。でも、水が膝を濡らすようになる頃、諦めたように彼女はそれをやめた。



Je revais le bonheur,ardent mirage,



水は腰まで来て、臍の上まで覆い、胸の辺りまで迫って、仕舞いには水から出ているのは頭だけになったけど、それでも歌だけは僕のもとまで届いていた。


Helas! Helas!
triste reveil des songes…








それからとうとう頭まで水に消えて、歌は途絶えた。
人一人飲み込んだとは思えないほど海は穏やかに凪いでいた。
あまりにも呆気なくて、もしかしたら何とも無いふうに彼女が陸に戻ってくるのではないかと僕は思った。
僕は暫く海から出てくる彼女を待っていた。でも彼女は戻ってこなかった。
そうしているうちに、彼女の代わりのようにに太陽が海から上がってきた。


世界を目覚めさせるような光が差し込んで、僕は思った。















───夢を、見ていたのかもしれない。

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歌詞の引用はフォーレの歌曲「夢のあとに」より
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