目覚めると元就は草はらにいた。
そこには自分以外おらず生き物の気配すらなかった。彼は取り敢えず、己以外の存在を探そうと歩き出すことにした。幸いとも言うべきか、あてならばある。どこかで微かにだが水の流れる音が元就には聞こえていた。辺りが無音のためか、その小さなはずの音は彼の耳に酷く響いていた。
草はらは何処までも続いていた。樹木も無く、ひたすらに何もないそれは、ともすれば自分が歩いているということすら疑わしくなる。ほどなくして彼は川を見付けた。川幅のあまりない、流れも穏やかなささやかな川だ。岸には見事な曼珠沙華が咲いていて、緑を宿した草はらとの対比はいっそ毒々しいほど鮮やかな赤だった。ともすれば冠にも見える赤く細い花弁を頂く茎は酷く華奢だが曲がることなく真っ直ぐに天に向かって伸びている。いじらしいとも、愚直とも言えるほどひたすらに真っ直ぐに。
だからだろうか。曼珠沙華の傍らで川に足を浸す女の線が酷く柔らかく見えたのは。


「やあ」

「あら、こんにちは」


若い女だ。朗らかな笑顔がよく似合う。ただ、この年頃の女が妄りに足を出すのは如何なものかと年寄りのようなことを──いや、実際年寄りなのだが──思ってしまった。しかしその悪感情を交えても女の足は彼の目にたいそう美しく映った。普段着物に隠れているその肌はいっとう白く、その肌の上で弾ける水の飛沫を見て、元就は水というものは透明だったのだと、今になって気付いたような心地を覚える。


「君は何をしているのかな?」

「何を、と問われれば難しいですが、強いていうなら人待ちでしょう。余りにも暇なので川遊びをしていたのですが……いやだわ、きっと、良い歳した女がみっともないとお思いになったでしょう」


言葉と裏腹に女は何処か揶揄うようにくすくすと笑いながら水を蹴った。行儀よく並んだ小さな貝殻のような爪は何とも言い難い品を感じさせるのに、ふくよかなふくらはぎから細く締まった足首までの脚線美は色の気配を漂わせていて、これはよろしくないと元就は頭を掻いた。


「私は無邪気であることが悪いとは思わないよ。ただ、年寄りとしては若い娘がそんな風に足を見せるものではないとは思うけれど」

「年寄り?そのなりで実はうんとお歳を召していらっしゃるの?」

「ああ。一応ね。長生きし過ぎた所為かな。子供にも先立たれてしまう始末でね。親不孝というかなんというか」

「親不孝なんてとんでもない。子供の方だって不幸でしょうよ、人並みに親の死に目に立てなかったんですから。私も流行り病で夫と死に別れてしまったので、つい色々考えてしまうのですよ。遺す方も遺された方もおんなじなんですよ。悲しくって悲しくって、どうにもいかれない。……だから、親不孝だなんて子どもに言うなんてとんでもない。いっそ、親が子供の心を察して先立つぐらいはしてあげませんと」


無茶苦茶な女の言い分に元就はそうだねと笑った。赤い赤い曼珠沙華を視界の端に入れながら元就は女の傍らに立った。


「綺麗な川だね。だが……魚はいないのかな」

「ええ。この川、魚が棲むには塩辛くていけませんの」


ぱしゃぱしゃと水を蹴る音が続いた。ふやけてしまうよ。もうふやけておりますよ。得るものなどないような酷くくだらない会話が断続的に続いた。しかし元就と女は暫くそうしていた。


「女は何故足を隠さなくてはならないのかご存知ですか」

「それははしたないからじゃないかな」

「ええ。そして、はしたないと言われるのは男を悪い気にさせるからです。悪いものやそれをよぶものは遠ざけなくてはいけない。女の足も、穢れも、死も」

「そうなのかな───いや…うん、きっとそうなんだろうね。女性の足と死……なんだか興味深い話だ」

「ここにいるのは暇で暇で、水遊びと考え事ぐらいしかすることがないんですよ」

「そうなのか。……私は、このあたりで去ろうと思うんだが」

「お行きになられるんですか?そうですか。……ええ、それが良いのでしょうね。行くならば彼方(あちら)へ真っ直ぐに。此方(こちら)ではありませんよ。彼方です。分かりましたか?」


子供に言い聞かすように繰り返して女は何が楽しいのかきゃらきゃらと笑った。


「……君はまだここにいるのかい?」

「ええ。夫が来るまで待っていて良いと、閻魔様が言って下さったんです。そのかわり、そこの曼珠沙華がいっとう綺麗に咲くよう世話をしなければならないんですが」

「そうなのか。いや、改めて見ると本当に見事な曼珠沙華だ」

「ふふ、ありがとうございます」


女は嬉しそうに返して、見事に咲き誇る赤い花の茎を一本、ぽきりと折ってしまった。
餞別にどうぞ。いいのかい?閻魔様にしかられてしまうだろう?一本ぐらいは平気ですよ。あの方は、存外そんなに短気な気ではないんです。女は元就の腕に曼珠沙華を押し付ける。
悪戯を企むわらべのように密やかで、それでいて堪らない背徳感で擽ったそうに弧を描く唇は彼女が世話をしている曼珠沙華の花弁のように艶やかだった。


「死人にこんなことを言うのはおかしな話かもしれないけど、達者でね」

「ええ、お達者で」


元就は女の声を聞きながら彼岸の方へ歩き出した。暫く歩いても、女は見送りを続けているのか、視線を感じた。
あの女は此岸に置いてきた夫が死ぬまであの涙の川のほとりで花守を続けるのだろう。


途中手に持った曼珠沙華から真っ赤な色の花弁が一枚、はらりと散った。元就はそれを目で追おうとして───やはり止めた。
振り返ってはならぬと、こういうのは相場が決まっているのである。
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