───柱に蝉がとまっていた。


縁側の、よくここの主が背を預けて書物を読むのに使う柱だ。尤も、今その主はここ数日の夏の容赦ない陽射しに堪えかねて別の、丁度よく木陰が差し込む場所へ移動してしまっているが。

私がその蝉を見付けたのはきっとほんの偶然だ。どこからともなく現れた蝉が柱に張り付く瞬間をたまたま目撃したのだ。そうでなければともすれば柱と同化したような色味のそれに気付くことがあっただろうか。
五月蝿くされる前に追い払ってしまおうかとも考えたが、どうせすぐ飛んでゆくだろうと思い直し私はその蝉を横目に主のもとへ向かった。



しかし翌日、私はその考えが外れたことを知る。昨日とまったく同じ場所にまったく同じ蝉───であるかどうかは定かではないが───がとまっているのを発見したからだ。
神経が太い、と半ば呆れるように思ったことを覚えている。多いわけではないが人通りが全くないわけでもない廊下だ。普通は人の気配を感じて逃げていくものではなかろうか。やはり追い払ってやろうかと思ったが五月蝿く鳴いているわけでもなしと考えを改めて私はその場をあとにした。



三日目、やはりと言うべきだろうか。蝉は昨日と寸分違わぬその場所にとまっていた。もしや柱に張り付いたまま死んでいるのだろうかと小さくつついてみると微かに羽を動かした。どうやら生きているようだった。しかし、動きもしないし鳴き声のひとつも上げないので死んでいるのと大差ない気がした。
そこまで考えて私は、この蝉が私の知る限りただの一度も鳴いていないと気が付いた。他の蝉はわんわんと気が滅入るほど五月蝿く鳴いているのに、この蝉は知らぬ存ぜぬといった有り様であった。



四日目にもなると自然に目が蝉を探すようになってきたのだからどうしようもない。
蝉というのは成虫になると七日間ほどしか生きられぬ生き物だと聞く。その僅かな間に精一杯鳴きわめき愛を謳うのだと。
だのに、ここの蝉ときたらただそのに在るばかりでだんまりを決め込んでいた。時折思い出したように羽を小刻みに動かしてジジと音を立てるがそれだけだ。蝉が愛を鳴くために生きているのだとしたら、鳴かぬこれはなんのために生きているのだろうか、そんな疑問がふと浮かんだ。



五日目になると他人事ならぬ他虫事であるのに、「お前はなにをやっているのだ、短い命であろう、存分に鳴くのが筋であるとは思わないのか」とたかだか虫に怒りがこみ上げるまでになった。今になって思えば、あの時の私はその怒りの裏でいつまでも愛を謳わぬ蝉に焦っていたのだろう。この蝉は無意味なまま死んでゆくのかもしれない、と。



六日目、七日目は忙しく過ごしたので横目でちらと見掛けるだけだったがやはり蝉はそこにいて、やはり沈黙したままだった。






「そんな所でなにをしているんだい?」

「……、元就さま。御使者の方は帰られたのですか」


私が言うと、私の主である元就さまはほんの少し困った顔をした。
この方がこんな顔をされるのは大抵がどうにもいかれなくなったときだ。例えば、著者の執筆が思うように行かなくなったとき、いくら着込んでも寒くて仕方がないとき。
あと、戦が避けられないとき。


「まいったな、毛利家は天下取りに参加しないよう遺言したはずなんだが……引っ込んでいても引っ張り出されるのだから。嫌な時代だよ、全く」

「嫌な時代、ですか。でもきっと大丈夫です。私も、毛利家の為に戦いますから」

「ほら、君のように年若い娘も戦の心配をしなくちゃいけない時代だ。少なくとも良い時代とは言えないだろう?」

「……あ、」


それより、名前は何を?
そう言って元就さまが覗き込んだ私の手のひらには蝉の死骸がひとつ入っていた。
言うまでもない。あの蝉だった。


「蝉、だね」

「……この蝉、ずっとこの柱にとまっていて……ただの一度も鳴かずに死んだんです。この蝉の一生に、意味はあったのかな、って…」


今になって振り返ると、酷く子供じみたことを言った気がする。いい年をして蝉の死骸ひとつに感傷的になっただなんて。
それでも元就さま私の話をちゃんと聞いてくれて、最後に蝉の死骸と私を見比べて曖昧に微笑んだ。









……どうして、今になってこんな下らないことを思い出したのかは分からない。
これが走馬灯というやつであるならば、私は私の人生をつまらない人生だったと断じる他ない。
臆病な私はあの蝉と同じように、まったく鳴かぬまま、愛を音にすることの無いまま死んでゆくのだろう。


でも、そんな私の死骸を見て、あの人が曖昧に微笑むのではなく、ほんの少し泣いてくれたのならば、鳴けなかった私の人生もきっと無意味なだけのものでは無いのだと思う。
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