春は季節そのものが芳香を放っているような錯覚を催す。歩く度に若い草が柔らにしなり、ただただ従順に彼の重みを受けとめた。


「名前」


遠くに佇む姿を見付けて彼は唇から彼女の名を紡いだ。春風に運ばれたそれはしかと彼女の耳まで届き、ひと吹きした風に煽られる髪を押さえながら、彼女はゆるやかに彼の方を向く。腕に包まれた花束から花びらが数枚、風の手を取ってどこかへ行った。


「グリーン」

「ピカッ」


揃って返事をした名前とピカチュウが何となく可笑しくてグリーンは薄く目を細める。彼女の傍らに立てば春特有のそれとはまた違った良い香りが鼻を掠めた。
何故名前からは良い香がするのだろうか───それは刹那の間だけ脳を支配した、下らない思考。


「よぉ、名前もピカチュウも元気だったか?」

「うん。グリーンも元気そうで良かった。ずっとトキワにいるからナナミさんも心配してるんだよ?」

「ったく、もうガキじゃねーのに」


バツが悪くなってグリーンはベタに頭を掻いた。姉にとって自分はいつまでも心配すべき弟なのだろう。


「そうだね。もう、子供じゃないもんね」

「……」


ふと、名前が声のトーンと共に視線を落とした。地に埋め込まれた白い石には細かく文字が刻まれている。
“此処に眠る”。そのありきたりな文言は、常套句を通り越して既に記号としての意味を有していた。


「レッドとグリーンがマサラから旅に出たあの日から、随分経ったんだもんね」


墓石の上に刻まれている数字は彼女たちの生まれた年と同じ数。同じ時を同じように歩んできた。


「頑張って頑張って、やっと追い付いたと思ったら、もうレッドはずっと遠いところに行っちゃった……」


小さく震えた声。グリーンは何も言わずに名前に寄り添った。最早同じ時を生きることは出来ない。レッドの生きた時間は薄っぺらな4桁の数字で終わりを告げられ、彼女たちはまだ来るべき終焉を知らずにいる。


「…レッド……!」


身を寄せてくる、少女。彼女の薄い唇から零れる、別の男の名。その倒錯的な事実に吐き気を覚える、錯覚。
レッドはもういない。シロガネヤマに残っていたのは残留した彼の思念でしかなく、人々が無遠慮に口にする“伝説の少年”は既に形骸化したレッドの抜け殻だ。


「……レッド、ねぇ、どうしてレッドは此処に居ないの?どうしてレッドなの?」


彼女が切なく名を呼ぶ想い人はもういない。
伏せられた瞼を縁取る睫毛が微かに震えて、たまらない気持ちになる。壊れる瀬戸際の危うい儚さが、グリーンに焦燥を抱かせる。


「レッ…」

「名前」


腕に閉じ込めれば小さく息を呑む気配。自分の心臓が軋む音を、グリーンは確かに聞いた。


「一緒にトキワに来い。マサラには思い出しかない。それ以外何もない。こんな所にいたら嫌でもあれこれ考えちまう。トキワに来ればそれもなくなる筈だ」


半ば懇願にも似た響きを纏ってグリーンは名前に囁く。もういっそこの腕にずっと閉じ込めておきたい。


「グリーン」


ふと名前が顔を上げてグリーンと視線を合わせると、彼は涙の膜の張られた彼女の瞳の中で溺れている自分を見付けた。文字通り涙の海で溺れる自分は酷く藻掻き苦しんでいた。


「ありがとう」


小さく笑って、彼女は首を横に振った。


絡めた指先に終焉を





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凍りついた時間。
僕らは今も何ひとつ出来ずに凍えている。
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