私が校舎を出て真っ先にしたことといえば、文明の利器たる携帯を駆使し、先に帰ってしまったことへの謝罪を洸莉にメールで伝えたことだった。即座に返ってきた文面からぷんすか拗ねる彼女が想像出来て、今度埋め合わせしなきゃなぁと息をゆるゆる吐き出した。
携帯電話をスクールバッグに放り入れて家に入ると、母が顔を見せずお帰りも言わず開口一番、お使い頼んでいいかしら、とのたまった。
正直面倒くさいという感情がむくむくと育つが、これも家庭円満の掛け橋のひとつである。うちは特に家族内に不和があるわけでは決してないけれど、多少の妥協は必要だ。とは言っても、お使い自体は嫌いではないので、一歩外に出てしまえばきっと散歩感覚で楽しめるだろう。幸い帰宅直後で制服のままだし。
母から財布を受け取って、私は再び扉に手をかけた。

お使いの内容はトマトにウスターソース、煮魚用の鮮魚。一体何の料理を開発するつもりなのだろうと頭が痛くなりかけた。しかも魚は確実に本日中の消費が必須だ。おかずの主役を堂々張れるその食材を今になって私に頼むという時点で、母へのイメージは大まかながら人に伝えられると私は思う。
近場の商店街で、八百屋を皮切りに店を訪問し、目当ての物を無事入手し、さあ帰路につこうとしたときにはもうどっぷり日は落ちていた。

辺りには肌寒いを通り越して、厳重な防寒の必要性を切実に感じさせる程凍てついた空気が漂っている。寒さに弱い私は身を竦ませるばかりだ。
せめてもの救いはマフラーと手袋を念のため、と所持していたことだった。遣り場のない故の苦肉の策として、急に冷え込むだなんて反則にも程がある! と空へ向かって反発しそうになったことも一度や二度ではない。
せめてコートの一枚でも羽織ってくれば良かったなぁ、というのは今更過ぎる後悔だろう。散歩感覚だと高をくくっていたのが裏目に出たのか。それにしてもあんまりじゃないか。
事前に知っていれば、なんて神のみぞ知る気象の移ろいに再度見苦しくも文句を垂れる。日が暮れれば気温が急激に低下するのは周知の事実だという不都合な一般常識はとうの昔に廃棄した。

「さむッ………」

母がバーゲンで勝ち取ってきた黒の下地に白の螺旋模様にピンクのドット柄をのせたマフラーを上にずり上げる。
人間は特に怪しい人物ではない限りは普段顔をむき出しにしている。何かで覆ったりしたら徒に不信感を募らせるだけであるから、顔に直撃するこの季節特有の絶対零度(あくまで体感)の防止策はほぼ皆無だ。
ただ最近はマスクをすれば、怪しまれず且つ顔半分がガードされて効果覿面だという喜ばしい発見をした。但し、手元にそのマスクが無ければ意味を成さないのが難点である。

吐く息は白く体の先端や突端の感覚は随分と前に麻痺していた。街灯だけが頼り。
闇に慣れてしまった私の眸は、時折車が脇を通り過ぎていく瞬間の背後からの発光にさえ眼を眇める。

曲がり角を曲がり、一直線に歩けば家に到着できる。先行きが見えて、自然と歩幅が大きくなった間際、光が漏れた。強烈すぎる灯りに目が眩む。

条件反射で強張った身体に早く過ぎ去りはしないだろうかと思ったのも束の間、視界がフェイドアウト。
閃光を数倍に増幅させたような殺人的な光明に、光で人間の思考は一時ストップすることを始めて知った。
頭だけが通常に機能する中、光源が車のヘッドライトであることを遅まきながら認識する。遅いといっても数秒要したかどうか。

しかし、その数秒が、命取り。
眼前に迫りくる車体。
車の色さえ判別できぬ闇夜の中、それをも打ち払う強大な光の奔流。
一瞬それがヘッドライトだと気付けなかったほどに、それは近くにあって。
近くに近くにちか――く、に?

目を見開いた直後だった。
―――――――――誰か助けて、なんて思う暇もなく、そして、私は。

耳を塞ぎたくなるような音。音源は私と車。
中身を飛び散らせた白いビニール袋が紅に染まっていく。染色され、侵食され、どくどくどくっと心臓の早鐘が急速に高まり、静まっていく。
幾ら息をしようともがいても、喉からは、ヒューヒューとしか音はせず肺へ酸素が回らない。
とめどなく溢れ泡立ち流れていくのが自分の血だなんて、あまりにも実感が湧かなくて。
視界も、どんどん狭まっていって。黒の支配に置かれて、体が動かない。ぴくりとも反応できない。四肢への神経が残らず千切れてしまったように思えた。
意識が混濁としていく一方で、全身の痛覚は最高潮の信号を発し続けていく。
苦しいと痛いじゃ済まない灼熱に焼かれ、私の全部を焦がし全てを炭に帰すかのようで、絶命までのカウントダウンが始まったことを知る。

ようやっとその頃になって私の存在に気づいたのか、急ブレーキの音が閑静な町中に響く。
嗚呼、耳障りだ。
そんなものより、そんなことより、私は今この瞬間にも死んでしまいそうなのに!
耳のすぐ横で聞こえる体中の血が流れていく触感に、流されまいと頑なに我を保った私は、霞む視界に希望を託そうと試みた。だが、視認できたのは慌てて走る去る車のみ。
通報もしてないんだろうなと判じ、その光景を最期の思い出として網膜に焼き付けた時点で私の生存率は零に限りなく沿っていた。

走馬灯なんて常套且つ使い古しのロマンティックな頭の中限定のパレードには結局出逢えず、死への成す術のない諦めを痛感した。同時に掠めたのは、既視した感覚の消失への違和感。

そして懐かしい懐かしい知らない聲。


『お前にとって俺は刀だ。代わりにお前が俺にとっての刀でもあることを知れ』


――――だから、お前は俺と共にその刀を取れば良い。



街の片隅のパレードの特等席
(死にたくない死にたくない死にたくない、こんな形で、まさか)
(でも、これでやっと助けだせる………―――え、誰を?)



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