なんで私は今日この時この場に居合わせてしまったのだろうか。過去の自分に自問して、今からでも遅くない、過去を遡って力ずくでも放課後開始直後の私の行動を全力で阻止したい衝動に駆られた。

「―――ねえ、どうかしたの? 具合悪そうだけど……」

そう思うんだったら、そう心配してくれるんだったら、それ以上近寄ってこないでくれ。
そう心中恨み辛みを吐き出しても、やっぱり実際問題思った通りに声帯を震わせるなんてことできなくて。弱弱しく、息の多分に交じった声で代替させた。

「だいじょうぶ、だから……」

井上織姫と石田雨竜から与えられる、胃を直接圧迫されているかのような嘔吐感に、睫毛を深く伏せ汗の滲む眉根を強く強く引き寄せた。




私がここ手芸部に赴いたのには、列記とした目的が伴っていた。
実は洸莉が手芸部で且つ帰り際、今日完成予定の作品を自慢したいから来てくれるか、とお願いされたからなのだ。私は帰宅部で、さして放課後に是といった火急の要件も持ち合わせていなかったから、要望通り手芸部のドアを叩いた。
予想通り私の訪問を今か今かと待ち構えていた洸莉の実にプロ並の刺繍を見せびらかされつつ、その後も部外者ながらだらだらと世間話に花を咲かせていた。
洸莉が手がけた作品は二つ。色違いの、小さいながら至極複雑な構造で縫い取られた刺繍ののったハンカチであった。
デザインを考案したのも彼女自身らしい。なんと、私の首に掛かっている鍵をモチーフにしたのだという。しかも、唯鍵のみでなく、それを中心に広がるデフォルメされた花やら蔦やら葉などの植物や、その植物に埋もれる数々のアンティークな小物が絶妙に組み合わされていて、売り物でも滅多にお目にかかれないほどの秀逸な出来栄えだった。流石手芸は誰にも負けないと豪語するだけはある。手芸ってか、デザインの才能も底知れないものがあるな、と私は素直に感嘆した。まあ、鍵を中心に据えようとした魂胆は見え透いているのだが。二つ作ったところを見て、数日前きっと一度期待し、だが叶わなかった欲望を、その分こちらでお揃いにして発散させよう、ということなのだろう。

そして、正にその想像を裏付ける、その内片方が実は間近に迫る私の誕生日に贈るプレゼントなのだと、洸莉がうっかり自分で口を滑らせたところで彼女たちは登場した。

どく、と血脈が打った。

速度を増して、間隔狭めて。蔓延する気持ち悪い、あの不快感。対となるように、濃度の薄くなっていく私の周囲の酸素。ああ、来る。
洸莉が今更過ぎる誤魔化しを、早送りのビデオテープの様に捲し立てている最中に、そう頭に過った瞬間。

「遅くなってごめんね!」

慌てたようにドアを荒々しく開く音。そして、山もりの荷物を抱える井上織姫と、その背後に立つ石田雨竜を視認した。

彼女が一歩踏み出し、後ろの石田もつられて半歩、手芸部部室――ひいては私に近づいたところで、洸莉は自分でも訳がわからなくなった支離滅裂な説明を強引に中断させて、ハンカチをあわあわと握って、仕舞ってくるから! と私の元から去っていった。
入口に気を取られすぎていて流石に遁走するとは全く予想だにしていなかった私は、洸莉の行動を、え、と呆けた声を発するだけで呼び止められなかった。待っててね! と入れ違いに部室を飛び出した彼女。目を見開いて叫びかけた。私をここに置いていかないで!

手に持った大量のビニール袋は、どうやら部に頼まれた買い出しだったらしい。がさがさっと中から糸や布や備品やらを取り出していく。
こうしてる合間にも、頭痛はどんどん加速度的に激しくなっている。頭にキンキン響く痛み。一瞬一瞬、鋭利な金属が埋め込まれたように悲鳴を上げる脳。もう、数分が経過している。今日は特別酷い。
根気が続くまでは、と粘っていたのだが、本格的に現状維持さえ儘ならない。
待っててね、と言われた手前、部室を勝手に退室するのはあまり気持ち良くないが、こんな至近距離で、あの二人と居合わせるなんて、正直言って分が悪い。手芸部だなんて聞いてない。
よし、出よう。
大丈夫。幾ら彼女たちが入口付近に屯っているとはいえ、接触せざるをえないほど距離が僅かしかないわけじゃない。数秒にも満たない邂逅だ。平気。平気。これ以上留まっていたら、躊躇う、その僅かな激痛が、刹那所か持続してしまうのだ。そう考慮すると、優先すべきは、ここを一刻も早く離れることだ。
心を決めて入口へと逃げ込もうと、足早に部屋を横断する。
買い出しの成果を我先にと確認しようとしている他の部員の脇を通りすぎながら、上乗せされる嘔吐感に喉元を軽く押さえて接近した。
遮蔽物など何の足しにもならない。構うものかと、効力を発揮し続ける。だから、少なくない部員に阻まれて視界に彼らが映らなくとも、やはり唐突に崩れた体調は一片も回復の兆しを見せてくれない。
そのときだった。

「―――ねえ、どうかしたの? 具合悪そうだけど……」

冒頭に巻き戻る。

私の方からは髪の毛くらいしか目に入らなかったが、向こうからは丸見えだったらしい。前屈みで脱出を試みようとしていた私を目敏く見つけ、井上織姫は心配の色を乗せて声をかけてきた。一斉に視線が集中した。まずいことをしてくれたものだと、内心拳を叩きつけた。

「だいじょうぶ、だから……」

手助けをにべもなく、それでいてやんわり拒絶する。このまま放っておいてくれればいいものを、なんで気づいてしまうんだ。でも、平気な振りをするのは思った以上に困難で。
かき分けて様子を見にやってこようとする井上織姫の気配に、お節介、という三文字を思い浮かべて足を速めた。普段だったら、優しい、と思えるのだろうに、自分が危機的状況に追いやられると、好意的に行動を受け止めるなんて到底無理だった。
石田雨竜も気遣わしそうにしているが、近寄ってこないのがせめてもの救いである。
最後の力で、彼女から逃げるように部室を後にする。
後ろから、何あの態度、と不満げな部員の声がする。
故意に無視して、歩き続ける。ただただ遠く。
一歩毎に引いていく波。
嘘のように通常復帰していく心身。
不愉快さを喚起させる、内にたぷりと溜まった海はいつの間にか穏やかな表情を取り戻していた。



致死量の大海
(泳ぐことを知らない人にとって、海は唯溺れる末路を示すのみ。私は泳げるはずだったのに)
(ほら、楽園の下はこんなにも、俗に塗れてる)





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