一先ずゆっくり頭の中を整理してみよう。

覚醒して直後、鼻先にあった端整故に憤怒のかんばせが、尋常じゃなく凍てついた刀を模す氷を思わせる恭を目にした瞬間、血の足らない頭で反射的にそう思った。
寝起きの鈍さをどうにかして抉じ開け、まず真っ先に思い浮かんだのは誰がこの子を怒らせたんだろうかという、寧ろ尊敬すら抱ける偉業の達成者への賛美と呆れと誰何。恐怖は微塵もない。恭の何処が怖いというのか。
一見は別として、内面は非常に温厚で、睨みあいに立ち会えば一晩は立ち直れない、か弱い精神の持ち主の恭を、全てを曝け出せる私の前で、怒りを露わにさせる状態にまで逆上させるだなんて、とそこまでつらつらと考えたところで、ひんやりとした何かが頬に添えられた。手だった。

「あかり、目覚めたみたいだね」

心無し、声色が昏い。刀から一転してさながら氷像の様に表情が変化しない。くどい様だが、私の前なのに。
だが不審に思ったのも一時、次の瞬間には表面を覆っていた薄氷の幕は瞬く間にひび割れ、砕け散った。
静止していた恭の顔の中で、口元がへの字になり、眦が歪んだかと思えば、ぷっくりと涙が浮かんでいた。
直感した。

これは、来るな。

咄嗟に身構えたのは、恭の号泣に対応し得るためだ。

しかして、その予想は裏切られた。
冗談じゃなく、うわーん!! という叫び声を覚悟していた私はあれっと拍子抜けしてしまった。
そこにいるのは、感情抑制の利かぬ赤子のように泣き喚く恭ではなく、零れる涙の量は若干多いものの、聲を押し殺して割合静かに泣いている恭。静かに、の箇所が大切。
ちょっとへたれ混じってるけど、男泣きの一種を立派に恭が…!
こんな状況だけど感動できてしまう私は、今まで一体どんな気持ちで恭の面倒を見てきたのだろうか。

不謹慎極まりない私とは裏腹に、恭の眸からは滴が際限なく生まれ落ち、つうっと頬を伝い、顎に到達した時点でぽろぽろ零れ、真っ白な布団を濡らし―――真っ白な、布団?

「……恭、ここはどこ?」

私の部屋ではない。かといって恭の家でもない。
見覚えのない、まっさらな部屋だった。
私はベッドに寝かしつけられ、よくよく見れば白いのも布団だけではないらしい。
何処かを妙に彷彿とさせる清潔な内装に、疑念を深くした。

「病院?」

もしやもしや私の予測はあながち外れてもいないのかもしれない。確信めいた感情を抱きすらしていたが、何故ここに至ったのかの裏が取れていないため、断定には至らなかった。
でも既視する。

「恭、答えて。ここは病院?」

今度は泣きながら首肯した。

「………どうして?」

「っ、どうして、じゃないっ!」

私の言葉に封を切られたのか、恭は聲を荒げた。

「あ、あんなッ無茶をして、どうして、あかりは……! ぼくの気持も知らないで!」

訂正。男泣きだというのは早計過ぎた。
わんわんと聲を上げ始めた姿は、見慣れた恭である。
頭を抑える代わりに、手を伸ばしてあやそうとした。

「ほら、泣かないでよ。なんで泣くの。私が無茶なんか――――」

するわけない、そう継ごうとして、看過出来ない断片が浮かんできた。
――無茶、した、かもしれない。
記憶の篩に残った大粒の塊。
シャットダウンの間際に目にしたのは、恭と、彼女と、その視線の絡まり。
呼び起こされた、胸の痛痒。
そうだ、気が抜けて、意識を失って。

頭を撫でようとした腕の不自然な滞空振りに、恭も真っ赤な兎のような目を上げて。
そして扉は叩かれた。
恭は慌てふためいてシーツで顔を擦り、涙の痕跡を抹消しようと試み、間を置かず白いドアが開かれ、顔を覗かせた彼女に、私は、あ、と素っ頓狂な聲を上げかけた。

「起きてらっしゃいますか? 様子を見に来たのですが―――」

道柄さんが、何故ここにいるのか。そんなの簡単。あの場には彼女もいて、彼女も大層立派な関係者だった。また、私と同じ被害者でもあり、果敢にも私を救おうとした人格者であり、正義の化身。良心の権化。
無意味な格付けが成される最中。私の隣の恭に気付いた道柄さんは急いで佇まいを直し、失礼しましたと言うつもりだったのだろう、体を斜めに傾けたその瞬間に、私は思わず口走っていた。

「もしかしてあのとき助けていただいた方ですか?」

私は彼女と直接の面識がない。顔を朧に見知っているなら兎も角、名前も把握してるとなると、要らぬ懸念の原因になろう。
敢えて知らぬ存ぜずを装って、話しかけた。

「あの後の記憶は無いのですが……その説はどうも有難うございました」

身を起して、感謝の意を述べると、律儀な性格が幸いしてか、彼女はぶんぶんと首を振って、

「いえ! 殆どわたしは力になれなくて、本当に助けたのは、そこの雲雀さんです」

泣いていたとは微塵も感じさせぬクールな表情で(だが顔を向ける勇気は無かったんだろう)座っていた恭の顔が、瞬時に茹でダコになった。
横目で確認して、

「でもあの場で割って入ろうとしてくれたのは、貴女ですよね? 他に誰もそんなことしてくれる人がいなくて、とても嬉しかったです」

「でも本当にわたしなにもできなくて………あんな啖呵切ったのに、寧ろ恥ずかしいくらいです」

良い人。
なんて純粋な人。
会話を続ける傍ら、胸中に萌した酸味がじわりじわりと根を広げる。

「そうだ! まだお名前をお聞きしていませんでしたね。同じ学校だということは知っているんですが、良かったら名前を聞いても?」

「あ、道柄鈴祢と言います。えっと、志倉あかりさんですよね?」

「私の名前をご存知なんですか?」

眼も見開いて尋ねた。一度もクラスを同じくしたことはないのに、なぜ。
道柄さんの個人情報を収集してる私が言える義理じゃないけど。

「噂はかねがね。きっとご自身で思っているより、有名人だと思いますよ」

彼女の視線が恭に向かった。
得心する。成程、そういう意味合いでか。
恭の傍にいて、愛称で呼び、咬み殺されず、平気で接する。
悪名高い恭にそんな調子でひっついてれば否が応でも噂の種にはなるってものか。

「それは知りませんでした」

にこやかに返すと、彼女は笑みを深めた。

「でも噂も大概ですね。あかりさんがこんなに素敵な人だとは思いませんでした」

「素敵だなんて……というかその噂一体どんな内容なんですか」

つられて私も目を細める。
不思議な娘だ。人を和やかにさせる気質を、空気を纏っている。
それに、恭がすぐ近くにいるというのに、怯える様子が欠片も無い。
体が直立しているところから見ても、緊張は流石にしているらしいが、悪い方面の緊張ではないように思える。
今の状況だけで一杯いっぱいの恭は、彼女の対応の異常さを掴めていないだろう。
口を忙しなく開閉させたりと、暇がない。男は背中で語るというが、道柄さんにはこの穿った目線で見れば愛らしい様子も感じ取れていないに違いない。
伝われば苦労はしない、といったものか。そうしたら、恭の今日までの誤解はほぼ全て解かれているだろうに。下手にポーカーフェイスが得意だったもんだからこんな始末に。

「あ、では日が暮れ始めたので、もう今日は帰ります」

「え?」

窓を見遣れば、とっぷり夕暮れ色が夜色に移ろうとしている。
注意力散漫が過ぎた。もう日暮れを迎えていた。
夕陽が落ちて、その後は夜闇をまっしぐらだ。引き留めてしまったことに些かの申し訳なさを感じていると、ふと妙案を思いついた。

「ちょっと待ってください! あの、もう暗くなってしまったので、恭に送らせていただけないでしょうか?」

彼女は動きを停止させた。ついでに恭も瞳孔が落ちそうなくらい眼を丸くしてる。
……ちょっと、早急過ぎたかな。
恭が焦りに焦って口だけで、むりむりむりむりむりむりむりと泣き言を捲し立てるのを無視して、様子を窺い続ける。
静止した状態で、急に挙動不審になり、そして終には俯き加減で彼女はこう言った。

「…………あの、では、雲雀さんが御嫌でなければ……その、お願いしても、いいですか?」

まさか。
提案した本人が驚愕を通り越して衝撃を受けた。
だが、ここは意地とプライド。
動揺を億尾にも出さず、恭に問いかける。答えは決まってる。

「あかりを助けてもらったみたいだしね。いいよ、送ってあげる」

是、だ。
すっくと立ち上がった恭の横顔は、外で見る営業用そのままだったけど、きっとその心臓は早鐘の様に打ちまくってることだろう。
先に退室した彼女の後を追って出る直前、恭は素に戻って泣きそうな一瞥をくれた。
手をひらひら振ることでその電波を一刀両断した私は、ドアの閉まる音を聞きながら、ぽすっとベッドに凭れかかる。

さっきの道柄さんの態度を分析すると、今まで影や気配を見せなかったとある可能性が頭に浮かんだ。

もしかしてもしかして。

いや、でもそんなはずは。(ないのに)


Q.この中で最も狼狽しているのは誰でしょう?

(当て嵌まる人物を選び、回答えなさい)
(但し、答がひとつとは限りません)


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -