水欠乏症候群というのはご存知だろうか?無論、こんなものを知っている人間は極僅かで、医師すら知らない原因不明のものだ。では、何故俺がこの病名を知っているのか。答えは簡単で、目の前にその患者がいるからである。

さて、この病気。ひどく不思議で、水に触れていないと発狂し死に至らしめるというのだ。河童の頭の上にある皿と同じ現象だと思ってくれれば、想像しやすいのではないだろうか。その為、この患者はなんとまあ水槽の中で暮らしている。
しかし、この病気。身体の一部が水に触れていれば大丈夫なので、彼女は常に爪先か指を水に浸している。お陰で、左の小指と爪先達は常時ふやけきっている。

では何故、この患者がこのような特殊な症状に侵されているのか。この患者、過去に水を大量に飲まされ続けた事があるらしい。所謂、虐待というものだ。それはそれは毎日、毎日。それが引き金らしく、水に触れていないと恐怖に怯え、発狂してしまうようだ。一種のトラウマが引き起こした、二次症状である。


「今日は、人魚さん」
「今日は。折原先生。」
「今日はどうかな?」
「とても気分が良いです」


それは良かった。と話し掛ける。彼女の名前は×××。トップシークレットなので、伏せ字にさせて貰う。しかし、本人に対して伏せ字を使う訳にはいかないので、こうしてあだ名で呼ぶ事にしている。
彼女と話して分かるのだが、彼女は病気さえなければ通常の人間と代わりない。
話しの筋道をしっかりと理解し、しっかりと受け答えする。何ら一般人とは代わりないのだ。そう、病気を除いて。


「折原先生、」
「なんだい?」
「今日も出ませんでした」
「…そう。」


彼女が出ないのは、涙だ。人間が持っている生理的現象の一つ。彼女は、自分の瞳から涙を流す事が出来ない。俺が思うに、彼女は涙を流す事が出来たのなら、もしかしたらこの病気は治るのではないかと思っている。勝手な憶測にしか過ぎないのだが。
しかし、試す価値がない訳ではないので、彼女には毎日。涙を流す努力をして貰っている。欠伸をした時、怖いものを見た時、面白くて笑いが止まらない時、感動を覚えた時。しかし、どうしても彼女が涙を流す事はなかった。


「ねえ、人魚さ…」
「きゃあっ」
「!」


不思議な事に、水槽から水がどんどん減っていく。今は水交換の時間ではない。ごぼごぼごぼと排水溝に吸い込まれていく水。彼女はひどく焦っていた。このままでは死んでしまうと。
管理に電話しても、通じなかった。恐らく、何らかの事故が起こっているのであろう。

彼女は勢いよく水槽に飛び込んだ。ざぶん、と波打つ水面。しかし、揺れ動く水面はどんどん低くなる。彼女は必死で排水溝を手で押さえようとしていた。しかし、その行為は危険で無意味なものだった。このままでは彼女自体が吸い込まれてしまう。それだけはなんとしても避けたかった。俺は白衣を脱ぎ捨て、飛び込んだ。


.。o○



「嫌あっ!離してぇっ」
「人魚さんっ」
「水、水がぁ!嫌ああっ」
「×××ちゃん!」


発狂しかけている彼女にビンタを喰らわせた。本来、女の子に手をあげるのは性分ではないのだが。
彼女は目をぱちくりとさせた。そして、なんと彼女は泣き始めたのだ。それはもう、子供のように。わんわんと。

身体が少しだけ乾いてきた。それでも彼女の涙が止まる事はない。彼女が発狂し死ぬ事もない。
俺はそっと彼女を引き寄せた。そして、そのまま抱き締めた。彼女の身体は、温かく心地よかった。

きっともう、彼女が水に触れ続ける事はないだろう。彼女は既に、自分で水を流せるようになったのだから。



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120315
plan by 音沙汰なし
サナトリウムで浮遊せよ