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「――でさ、武田が金ないとか言い出してー、」

放課後の教室。いつもならとっくに掃除も終わって、部活のない生徒は下校している時間。

夏休みを目前に控えてずいぶん日が長くなったけど、流石に話し込んでしまったらしい。電気の消えた薄暗い教室に夕日が射し込んで、向き合って座る俺と先生がオレンジ色に染まりはじめていた。

「石田も長谷もかなり焦っててさ、」
「…うん。それで、」

さっきから喋りっぱなしの俺に対して、先生は静かに相づちを打っている。先生にも何か話してもらいたいのに、俺は久しぶりに二人きりになれて嬉しくて、すっかりはしゃいでいた。

先生と俺が付き合い始めたのはほんの少し前からで。人目を気にしたり先生が何かと多忙だったりでなかなか一緒にいられないのを気にして、先生は俺の個人面談を一番最後に回してくれた。他のやつらの面談も心持ちはやめに切り上げてくれたみたいだった。

「そしたら鈴木の知り合いがたまたまいて、金貸してもらって何とかなったから良かったんだけどさあ…」
「金銭の貸し借りは感心しないな――」
「…いやいや! 大丈夫!もう返したし。その人、マジで良い人 なんだよね。村瀬さんっていうんだけどさ」

先生は、どこまでも先生としての体面を崩さない人だ。数学の授業中も、行事の時も、そしてこうして俺と向き合っているときも、あくまでも“教師”としてあろうとする。よく言えば真面目で、悪く言えば石頭だ。

だから、まだ若くてすごくきれいな顔をしているのに、清潔さを優先した色気のない髪型とその無愛想さで、男子からも女子からも敬遠されている。

そんな人間が、俺と、あろう事か生徒 と、付き合ってくれるというのはもはや奇跡に近いんだと思う。

この人が特別な顔をするのは、どんなときで、いったい誰に、どんな表情をみせるのだろう。

今はまだ、“教師”としての顔しか俺に見せてくれないけど、いつかその特別を見たい。だから俺は早く先生と打ち解けようと、自分のことをいっぱい喋ってしまう。

「かっこいいし、車も高いの乗ってて、」
「おい、その男は――」
「――うわっ!やばい塾遅れる!」

言葉をさえぎって立ち上がる。先生との時間は惜しいけど、今日の授業は遅刻するとやっかいだ。俺はあわてて鞄をつかみあげて帰り支度を始める。

「…帰るのか」

いつもと変わらない低い声が、少しだけ感情を含んだような気がして動きを止めた。いつの間にか先生も立ち上がっていて、俺は少しだけ見上げる形になる。

「うん、友達と約束してるから。先生ゴメン! また明日――」
「待ちなさい」
「――え、」

先生に背中を向けると同時に呼び止められて、授業中に当てられた時みたいな緊張に思わず背筋が伸びる。振り向くと、問題に答えられない生徒を咎める、あの目をした先生が思ったよりもすぐそばに立っていた。

「このまま別れるのはあまりにも味気ないだろう」
「…え、」
「恋人同士なら、別れのキスをするものだ」
「え、は――ええ!?」

だしぬけに恥ずかしい台詞を言われて俺は混乱する。しかもあの先生が言ったかと思うと、恥ずかしさ3割増しだ。ところが当の本人は相変わらず顔色一つ変えていないから不気味だ。

キスは唐突だった。どぎまぎしているうちに、俺は頬を両手で包まれて、かみつくようなキスをされる。

「――っ!…ふ……っ」

先生とのキスはこれで2回目だ。だけど1回目は触れるだけのソフトなものだった。

それまで、女子とも、当然男子とも手をつないだことすらなかった俺はそれだけでもクラクラしたのに、人生二度目のキスがこんなにも激しくては抵抗もできない。ただ、先生にすがりついて立っているのがやっとだった。

「――っは、せ、んっ…」
「…、……っ」

いつもはあんなに冷静な先生が、わずかに吐息を漏らしながら、俺の舌をどこまでもどこまでも追いかけてきて絡め取る。

俺はすっかり混乱した頭で、とにかく息が苦しいのと首が痛いのとで必死にキスから逃れようとするけど先生は絶対に離してくれない。むしろ舌の動きをますます激しくして、まるで俺の舌をキャンディのようにとろかしていく。

「っせん、せ…、っン、」
「…結城、」

先生の身体を離そうと伸ばした両手はすぐに捕まえられて、そのまま一つにまとめて頭上で黒板に縫いつけられた。俺の名前を呼ぶ低い声が、脳髄まで染み渡って身体に力が入らなくなる。

「――ぷはっ!…ッはぁ、はぁ、っせんせ、な――っは、ぁッ!」
「………っ、」

ようやく唇を解放されたのもつかの間、息を整えるまもなく、 キスが身体中に降ってくる。耳が、額が、髪の毛が、うなじが。先生の唇が触れたところが熱く熱くなっていく。

だけど俺はその熱を快感だと感じる前に、突然豹変した先生が怖くて仕方がなくてただ身を震わせることしかできない。

降りてきた先生の唇が鎖骨を吸い上げ、空いた方の手がシャツのボタンにかかった瞬間、俺は反射的に拒絶の声をあげた。

「やっ! 怖っ、…い、」
「―――っ」

女みたいに上げた俺の情けない声に、先生は一瞬我に返ったように動きを止めた。だけどすぐに怖い顔をして、俺の身体を反対に向けると、今度は黒板と向き合った状態で手首を固定されてしまった。

怖い。怖い。怖い。先生。どうして。

全身からわき上がる未知の刺激と、今まで経験したことのない他人の負の感情に挟まれ、俺はぎゅっと目をつぶって、黒板に額を押しつけて耐える。

「……結城は、私のことが好きなんだろう」
「…っ、え、」
「答えなさい」
「ひっ、あ、は――い」

まるで公式でも聞くような調子で唐突な質問をされ、一瞬困惑する。どうしてそんなことを聞くんだろう。その疑問を抱く前に首筋を舐められて俺は必死に首を縦に振る。

「今日だって、二人で過ごす時間を作るためにわざわざお前の順番を最後にした。そうだったな?」
「ぁ、そお、で…すっ」

一体これは何の授業だっけ。そう思ってしまうほど、先生の言葉はいつもと変わらなくて。ただこの状況だけが異常で、俺を混乱させていく。

何もかもがぼんやりしていて、境界線が曖昧になった世界で、突然、鮮烈な刺激が身体を走り抜けた。

「っああ!…な、に」
「私と、結城、君とは、交際をしている…そうだろう」
「ぅあっ、やっ、せんせっ! それっやめ――ッ」
「質問に答えないか、」

先生の指が、シャツ越しに俺の乳首を掠めながら何度も往復する。そのたびに、ぴり、と身体に弱い電流が流されたみたいに反応する。

「やぁっ、アッ、そうです…そうっ!」
「では、なぜ」

突然シャツの上から乳首をつままれた。

「ひっ、あっ痛――ッ」
「なんで…お前は他の男の話をする」

―――え?

それって、つまり嫉妬なのか。あの先生が、俺の話を聞いている間、俺が男友達の名前を出すたび、先生は心の中で怒りを募らせていたということか。
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