鏡花水月 | ナノ

物事の本質を捉えて断念すること

四月一日 金曜日

歩きスマホはダメ。これは常識だ。わかっている、わかっているのだがコレをしないと私は今、家に帰れない。

目的地を自宅マンションに設定した地図を映すスマホ。これを鞄の中にしまったまま、盗み見るように地図を確認する。周囲にスマホを見られるわけにはいかないからだ。そのためには顔を下に向けて俯かなければならない。仮に緊急事態であっても、そんな事をするなら自分が周りに気を配れと言う話なのだ。そんな当たり前のこともわからない、冷静な判断に欠けるほど私は焦っていた。
これからどうすれば良いのか。身の振り方を考えなければならない。登場人物に会ってしまった時どうすればいいのか、とか。

「、あっ!」
「うぉっ、と」

考え事をしている上、鞄の中を盗み見るように歩きスマホをしていた私。ついに人にぶつかってしまったらしく、左肩に衝撃が走る。
ガサガサ、と何かが地面に落ちる音が聞こえたので目線は顔を見る前に地面に向かった。

「す、すみません」

謝りながらしゃがみ込み、落ちたお菓子とカップ麺を拾う。

「あー、いや。こっちこそ」

気怠そうな男性の声が頭上から聞こえる。幸い落ちているものは少なく、カップ麺の上に“酢昆布”と書かれた赤い小さな箱を二つ乗せる。立ち上がる前に男性の足元の黒いロングブーツと、青い流水紋が裾にあしらわれた白地の布が視界に入った。

(……会ってしまった、)

体が先に理解した。その瞬間に、顔や手から血の気が引いていくのを感じる。首を締められたように喉奥で詰まり息がうまく出来ない。

(なんで、なんで、しかも…主人公)

寒気がするのに、心臓がどくどくと激しく振動し熱を感じる。その鼓動が波打つたびに、頭を鈍器で殴られたような衝撃を感じて脳がグラグラする。

(どうしよう、どうしよう……立ち上がれない)

「あのぉー、すんません。この上に乗せてもらってもいいですかね?」

両手でカップ麺を持って俯いたまま中々立ち上がらない私を不審に思ったのか、男性が声をかけた。

(いま自分は、どんな顔をしてるだろうか)

ゆっくりと立ち上がったが、相手の顔を見る勇気はない。男性は大きな紙袋一つを両手で抱き抱えており、そこからはみ出るようにカップ麺やお菓子が積んである。幸い私より背の高い男性の顔は、自然に視線がかち合う位置にはない。失礼とは思いつつその状況に感謝して、目を合わせないまま拾ったものを紙袋の上にバランスよく乗せていく。

「どーもどーも」

おそらく相手の目線は私の顔へ向いており、視線がチクチクと刺さる。私はそれでも、目の端に写る銀色の髪に気付かないフリをする。乗せた物が紙袋から落ちないことを確認すると、謝罪の意味を込めて勢いよく頭を下げた。頭を上げると同時にそのまま身を翻すと、一度も目を合わせないままその場を走り去った。
スマホも見ずに、一心不乱に。知らない街を駆け抜けた。

(会ってしまった……!)

確実に知っている人に。一方的にこちらが知っている人達の名前は、頭の中ですら二度と思い浮かべない方が良い。そうしないと同じような状況が起きてしまった時、誤って名前を口にしてしまいそうだ。他の人にも会ってしまうんだろうか。自分は取り繕えるだろうか。

(ここはやっぱり、ここは、……)

出鱈目に道を進み角を何度か曲がった。ここがどの辺りかなんてわからないのに、見渡すと高く聳え立つ“ターミナル”が目に入ってきて少し目眩がする。

今いる場所は、所々にベンチが設置してある広場のような所だった。桜並木…とまではいかないが、満開に芽吹いた桜の木がちらほら生えている。仲睦まじく腕を組む男女や、酒を片手に持って歩く人もいる。花見日和の真昼間だし、もしかしたら近くに花見会場があるのかもしれない。背後に桜が咲いているベンチが空いていたので座った。

(今って、春だっけ…?)

もはや季節も分からなくなるくらいに混乱している。まだ春といっても少し肌寒さが残る気温のなか、走ったせいで汗ばむ額を鞄から出したハンカチで拭うと布が湿る。しばらく座っていると、肺と口を浅く早く行き来していた呼吸もだんだんと落ち着きを取り戻す。その体の感覚は今自分が生きていることを実感するには十分すぎる程リアルで、夢ではないのはわかってる。わかってるのだけど、信じられない、夢であってくれと自分の思考が争おうとする。
ハンカチを鞄にしまい、何にも焦点が定まっていない虚な目で空を見る。

「ここ、どこなんだろう……」

私の知りたい“どこ”というのは、ここが“地球の江戸という街”ということではない。ここが……“夢なのか現実なのか”という意味だ。
私は今夢を見ているの?どうしてこんなところにいるの?本当に存在しているの?そもそも私は、生きているのか……?実は昨日、車の運転中に事故で死んだんじゃないだろうか。ここは生と死の狭間で、最期だから私に都合良くなってるんじゃないだろうか……なんて、そんなの信じがたい仮説だ。
現在、断言できるのは“私の住んでいた場所ではない”ということのみ。それ以外はどんな仮説を立てようと正解なんてわからない。

(……わからない)

答えなんて出ないのに考えることに意味なんてあるんだろうか。考えても考えてもわからない。……もう、考える事を諦めてもいいだろうか。

(誰か、何でもいいから、教えてほしい……)

そう思いながら、首をもう少し傾けてベンチの真上まで伸びている桜色を見上げる。でも当然、答えてはくれない。

「お姉さーん」
「何してんのー?」

(………鬱陶しい)

ぼーっとしすぎたせいか、人が近づいて来ていることに気付いていなかった。声をかけながら更に距離を詰めて来た男性3人組。ベンチのど真ん中に座っていた私を挟むように二人が両側に座り、目の前に見下ろすように一人が立つ。

「なに?迷子なのぉー?」
「俺らさー、……」

返事もしていないのに、一方的に話している様子の男達。しかし、内容が全く頭に入って来ない。……頼むから一人にしてほしい。そういえばこの人達、あの漫画の世界だとしたら刀とか持ってるのかな。見たところ腰には下げてないみたいだけど。
……あぁ、これも私の都合の良いように話が進んだりするのかな。そうだったら、いいのになぁ。

「ってなわけで、」
「、っ!」

ずっと頭の中で別のことを考えていると、急に両側の男性に手首を掴まれた。
何も話を聞いてなかったため、なぜ急に手を掴まれているのかもわからない。結構強い力で、抵抗しようとしても腕を動かせないくらい。

(痛い、)

そう……痛いのだ、とても。ますます現実味を帯びさせてくる皮膚の痛みが私の思考を弱気にする。しかし今の私に恐怖心は湧かず、どちらかと言うとさっきから死んだような目をしていると思う。その目の周りを歪めて何とか眉間に力を入れ、手を掴んでくる男性の片方を睨みつける。

「ぶはっ!いいねぇその顔!そそるわぁー」
「…………」

どこでも同じだな、本当に心底鬱陶しい。こういう男の目は。

「お兄さん達何してんの、ナンパ?」

前に立っている男性でよく見えないが、若い男の声がした。

「あ?誰だテメェ」

横に座ってる男の一人がどすの利いた声で脅すように言う。

「春は頭の沸いたやつが多いもんで……私服パトロールってやつでして」 

何をしているのか相変わらず見えないが、どうやら警察らしい。近くまで歩み寄ってきたらしく、私の目の前に立っていた男も振り返り様に一歩横へずれる。
ようやく見えたその警察らしい彼の姿。薄いブルーグレーの羽織に、小豆色の着物、煤色の袴。手には何やら顔写真付きの黒い手帳を開いて持っている。それを見た両側の男の顔色が段々と苦々しいものに変わる。

「げ、真選組……」
「しかも沖田総悟って、」

誰かが顔写真の下に書いてある名前を読み上げた。

(……嘘。この短時間で二人目?)

本当に、勘弁してほしい。そんなの冗談でも笑えない。

「てなわけで職質させて貰いやすけど、三人掛かりでナンパしてどうするつもりで?素人もんのビデオでも撮るつもりですかぃ?」
「…ちっ、行くぞ」

男が掴んでいた手を離し、ベンチから立ち上がると三人で走り去っていった。
体はこちらへ向けたまま、顔だけで走り去る男達を追う蜂蜜色の髪の彼。その横顔は大きめな瞳にすっきりとしたフェイスライン。鼻筋は通っているが骨太な男性的なそれではなく少し小ぶりで、美少年というのがぴったりの可愛らしい印象。完全に男達の姿が見えなくなったのか、顔をこちらへ向けた。私が彼の顔を見てしまっていたため、視線がかち合う。
先程の銀髪の彼の時とは異なり、バッチリと目があってしまった手前逸らす事ができない。こんな短時間で、もう登場人物二人に会ってしまうなんて。

(どうしよう……あぁ、とりあえずお礼を言わないと不自然か)

そう思ってベンチから立ち上がり、彼の横に立つ。

「ありがとうございました」

手を腹下で重ね、頭を下げた。次に頭上げるまでに顔作らなければならない。

(目を、口角を……)

なんとか微笑みの表情を取り繕ってから顔を上げ、平静を装う。私の顔をじっと見てくるその表情は、何を考えてるか全く読み取れない。数秒凝視した後、プイッと顔を逸らし背中を向けられた。

「こんなとこでぼーっとしてねぇで、さっさと帰りなせぇ」

そう言い捨てその場から歩いて去っていく。

(……もう、会う事がないと良いな)

この人も、銀髪の人も。きっと、関わってはダメ。そう本能が警鐘を鳴らしている。そうでないと、綻びが出てしまうから。次はもう、取り繕う自信がない。
漫画の登場人物として一方的に彼らを知ってしまっている私には、どう接するのが正解なのかわからない。

その背中が見えなくなるまで、私はその場から動くことも視線を逸らすこともできなかった。

(2022/04/18)

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