鏡花水月 | ナノ

水面に映る月影【下】

一:5月6日 深夜

「ごめんナマエ!あたし今日さぁ、友達の家に泊まりに行くんだわ。だから今日は帰る方面逆なんだよね」

彼女が謝る理由なんてないのに、何だかとても申し訳ない気持ちになってしまう。私のバイト延長が決まったのは昨日の終業後。今日の入り時間が違ったおりょうとはバックヤードで会うことも無く、忙しかったこともあり退勤時間の今の今まで話す時間が無かった。
ここでバイトしている間私は、お妙とおりょうの三人で一緒に帰っていた。同じ方面がこの二人しかいなかったのだ。とは言っても、おりょうとは繁華街を抜けてすぐに別れるのでそこからはお妙と二人。確かに深夜の江戸の繁華街を女一人で歩くのは少し不安もある。しかし繁華街さえ一人で歩かなければ大丈夫……そう思っていたのだが、どうやらそれは叶わないらしい。

「一人で大丈夫?タクシーで帰ったほうが良いんじゃない?」
「いや、大袈裟だよ。子供じゃあるまいし」
「そうなんだけどさぁ」

お妙ほどではないかもしれないが、彼女とも割と打ち解けた。それは彼女のサバサバした性格のおかげだと思う。

「そんなに遠いわけじゃないんだから。心配しないで?ね?」
「……気をつけて帰るんだよ?何かあったら連絡するんだよ?」
「うん、ありがとう」

サッパリした、しつこくない性格。そんな彼女に心配の言葉を掛けてもらい、私は二つ返事で頷いた。

(……ごめんね)

謝るのは、私の方になるかもしれない。心の中で謝罪の言葉を呟き、私は一人で帰路に着いた。




―――深夜、まだまだ眠らない街、かぶき町。こんな時間に一人で歩くのは初めてだ。坂田さんに連れられて初めてスナックすまいるに行った帰りは坂田さんに送ってもらったし、昨日まではお妙達と歩いていたから。そんなここ数日間も思っていた事だが、この時間帯は本当に人通りが多い。その大半は今の私の様に夜職から帰る人間や、肩を組んで千鳥足で歩く男達。
“かぶき町”は思っていたよりも広い街だ。どれだけ歩いても歩いても、私の知ってる新宿“歌舞伎町”には辿り着けやしない。そんな街を一人で歩いていると、ついつい確かめるように周囲を見渡してしまう。

(あぁ、普通に馴染んでる)

自分の存在理由を探して街を見渡す。誰一人、私がこの世界の住人ではないなんて疑いもしないだろう。違和感もなく背景に溶け込んでいる自分は、いったい何者なのか。
重たくなった自分の足元に目線を落とせば、周りの“みんな”と同じように身に纏っている自分の着物が視界に入ってくる。喉をゴクリと鳴らして唾を飲み込むと、本来なら飲めないはずのアルコールの味がまだ舌に残っている気がする。少し火照って熱を持つ頬には、夜風の冷たさがチクリと刺してくる。

(ちょっとだけ、酔いを覚ましてから帰ろう)

そう思い足を進めたのは、昨日までの帰宅ルートとは違う道。今歩いている大通りから一本逸れた細い道。
がやがやとした街とは一変し、閑静な住宅街。今働いている真っ最中なのか、それとも今が就寝時間なのか。どのような人達が住んでいるのかはわからないが、どこの家も灯りは消えている。道を照らしているのは心細く光る電柱の街路灯と、丸く大きな満月の青白い光だけ。

(……満月の光が、人の心を狂わせる)

そんな話を聞いたことがある。犯罪発生率が上がる、なんて話も。都市伝説の類を信じているわけではないが、“何かが起きそうな夜”という事は否定できない。

『アンタは気をつけた方がいいですぜ』

(総悟くん、わざわざ私個人に向けて言ってたよな)

『京で何かお土産買ってくるからね。息子の家の近所に可愛い和小物屋が多いんだよ』
『そんな、お気遣いなく』
『いやいや、若い女の子に買ってくるお土産選ぶのって楽しいんだから!』
『そうだよ、年寄りの楽しみ奪わないでおくれ』

(久しぶりだったんだよな、『行ってらっしゃい』って誰かを送り出したの)

『お妙さんから伝言預かってるんだよ』
『伝言……ですか?』
『そう。『一人で帰らないように』ってさ』
『あぁ、大丈夫ですよ。繁華街を抜けるまでは、おりょうも同じ方面ですから』

(すみません、近藤さん。結局、一人で帰ることになりました)

『……気をつけて帰るんだよ?何かあったら連絡するんだよ?』

(ごめんね、おりょう。ケータイの電池……切れてるんだ)

先程心配そうに、申し訳なさそうに、そう言った彼女の顔が思い浮かぶ。実は、あの時点で携帯電話の電池は切れていた。それをわかっていながら私は『うん』と二つ返事をしたのだ。
時計を持ち歩いていない私に現在の正確な時間はわからないが、店を出た時点で日付を跨いでいたのは確かだ。

(もう一ヶ月、か)

ここ数日は崩れているが、この世界に来てからの私は朝仕事が早いことを言い訳に夜の9時には就寝するような健康そのものの生活を送っていた。それは、この世界の夜空が嫌いだったから。当たり前のように“今日”を掻っ攫って、何事もなかったかのように“明日”を連れてきてしまう。そんな静かな夜がとても怖かった。

私の他に誰一人通行人はいないこの道は、先ほどまでいた繁華街と比べてとても静かだ。ピン、と張りつめている。そんな澄んだ空気の臭いが鼻腔を擽るのが鬱陶しくて堪らない。かんざしで髪をキツく纏めている頭皮が痛くて堪らない。幾重にも着込んでいる首元の詰まった和服が苦しくて堪らない。草履の鼻緒の感触が気持ち悪くて堪らない。踏みしめる砂利の感覚が歩きづらくて堪らない。砂利道を青白く照らす月光が憎くて堪らない。見下ろしてくる大きな月が、恐ろしくて堪らない。

『まるで水面に映る満月のようにとても美しい。でも触れられない。水面に触れた途端に乱れて掻き消えてしまう』
『揺れた水面も、さぞ美しいんでしょうね』

(……人の心を狂わせる、か)

変に足掻いたりせず、この世界の流れに身を任せること。目の前に垂らされた“糸”を掴んで、この世界で与えられるシナリオに沿って行動する。向かうべき方向も、出口も、何も分からなくて。そうでもしないと、この満月の光にあてられて、心が壊れてしまいそうになるから。
だからこそ散りばめられた“死亡フラグ”というシナリオの糸を紡いで、“最期”の一押しにこの道を選んだ。

『ここは道が狭いし人通りが少ないから避けて大通りを行ったほうが良い』

以前、坂田さんにそう言われた場所だ。
こんな静かな夜には足音がとてもよく響き、私の耳に届かせる。

(……来た、か)

モブはモブらしく、目立つ事件になんて巻き込まれない。初めはそう思っていた。しかし、誰にも気付かれず、ひっそりと。助けられることもなく呆気なく終わるのも、それもまた“モブらしい”のだ。それで“最期”。誰にも助けられる事もなく、誰にも迷惑をかけないで、一人で。被害者としてエンディングを迎える。そんなちょい役のモブなら、可能性としては十分にあり得る。
背後からザッザッと、小石を靴裏で踏みつけながら道を歩く足音が近づいてくる。掴むシナリオの糸は、これで“最期”だ。

「ナマエちゃん」

(……なんて、そう都合良くはいかないか)

散りばめられた糸を辿って、正しいと思った道を選んだはずだった。それなのに、まるで何かの強制力が働いているかのように、“必然”が私の邪魔をする。

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