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とある電車にて。


 ガタンゴトン、と電車が揺れる。それに従って、車内にぎゅうぎゅうに詰め込まれた人たちがゆらりゆらりと動いた。
 通学のために電車を使っているが、このたまに出くわす通勤ラッシュだけはどうにも慣れなかった。荷物がかさばるので周りにも迷惑がかかるし、他人の荷物や腕がぐいぐいと当たる感覚は、わざとじゃないとわかっていても腹が立つ。社会人になったら、毎日こんな思いをしなければならないのかと思うと憂鬱になった。

 そんな電車通学のある日、思いもよらない事件に巻き込まれることとなった。

 はあ、と後ろから息の漏れる音が聞こえた。臀部あたりでは、先ほどからもぞもぞと何かが動く気配がする。誰かの荷物でも当たっているのかと考えたが、わずかだが布越しに人の体温を感じた。
 痴漢か、とどこか他人ごとのように思った。
 ドア付近に立っているため、窓の反射を利用して、自分の後ろにいる人間を見た。50過ぎくらいのサラリーマン風の男と、OL風の女、制服を来た女が小さな窓の中にいた。
 電車が揺れ、今度は太ももに何かが触れた。ねっとりとした、明らかに作為的な触りかただ。こちらがなんの反応も見せないので、触っても平気だと思われたのだろうか。
 痴漢になんて生まれて初めて出くわしたし、冷静なつもりでいてもやはり怖いのか、うまく頭が回らなかった。
 ふいに、つい、と指が尻を撫でた。ぞくりと肌があわだつ。触りかたが、だんだんとエスカレートしていくのがわかった。
 冷静に、今自分にできることを考えた。
 声を上げる? ダメだ、それだけじゃあ逃げられてしまう。
 痴漢の腕を捕まえる? 間違えて違う人の腕を捕まえてしまうかもしれない。本人を捕まえたとしても、しらばっくれられたらどうしようもないだろう。
 痴漢が電車を降りるまで待つ? それはいつだ? 自分よりずっと後だったらどうする? そもそも、痴漢にあっていること自体がみっともない気がしてきた。
 昔から親戚や近所の人に「可愛い顔してるね」と褒められたりすることはあったが、まさか痴漢にあうだなんて考えもしなかった。今の世の中、男性だって痴漢にあったりするのに、自分がなんの対策もしていなかったことに悔しさを感じた。
 するり、と腰を撫でられる感触。そのまま手のひらは太ももにすべり、撫であげられる。明確な意志をもって広範囲に動く他人の手に、ついに吐き気と恐怖を覚えた。
 せめて体勢を変えてみようと体をひねったその時「ねえ、ちょっと」という声が聞こえた。腰を這っていた感触が消え、同時に女の痛みに耐えるような声があがる。

「あんたさっきからなにしてんの? 痴漢だよねそれ?」

 体をずらして振り向くと、先ほど窓越しに見えたOL風の女性が女生徒の腕をつかみあげていた。「痴漢」の言葉に、周りにいた乗客がざわめく。

「離してよ! 私じゃない!」
「離さないよ。ばっちりあんたが触ってたろ。すみません、他に目撃してらした方はいらっしゃいませんか」

 OL風の女性はたんたんと言うと、あたりを見回した。乗客が首をひねったり横に振ったりする中、おずおずと手を挙げる人がいた。こちらも窓越しに見たサラリーマン風の男だった。

「一瞬でしたが……手だけなら見ました」
「手……服の色は見ましたか?」

 再び女性が問うと、男は立てた人差し指を振りながら「えーっと……ううん、確か、あー、緑っぽいのがちらっと……」とうなる。
 いっせいに女生徒に視線が集まった。女生徒が着ていたのは、自分と同じ立海大附属中学校のモスグリーンのブレザーだった。

「ちょっと、なに言いがかりつけてんの!? 適当なこと言うのやめてよ!」

 そのとき、電車はちょうど駅についたらしく、大きく揺れた。多くの人が油断していたため車内全体がバランスを崩した。その隙を狙って、女生徒は開いたドアから逃げようとしたが、OL風の女性が腕をがっちり掴んでいたため、それは阻止された。
 しかしドアをふさぐわけにもいかず、女性が女生徒を押し出す形で駅へと降り立った。
「すみませんお二方、降りてもらえますか」と女性が言ったので、あとに続く形でサラリーマン風の男と降りた。駅で電車を待っていた人々が何事かとざわめいたが「すみません緊急事態です! 道をあけてください! 駅員さんはどちらですか!」と女性が声を上げたため、とたんに道をあけるものや駅員を呼びに行くものであわただしくなった。
 勇ましく女生徒の腕を引っ張り駅員を探す女性の姿を見ながら、思わず「すごいな……」と呟いた。横にいたサラリーマン風の男が哀れそうに笑う。

「まるで彼女が被害者のようですね……」

 しかし言った後で失言だと思ったのか、こちらを向き申しわけなさそうに「大丈夫でしたか?」と尋ねた。

「あ、大丈夫です。それより、すみません、なんか巻き込んじゃって……」
「いやあ、被害者のあなたに比べたら僕なんて巻き込まれたうちに入りませんよ。不謹慎ですが、事件の目撃者、なんてヒーローのようですからね、ちょっとわくわくしていますよ」

 それに僕が冤罪にならなかっただけよかったですよ、と肩をすくめる。

「あなたもわかるでしょう、満員電車の中で近くに女性がいたときの緊張感。男ってだけで痴漢扱いですからね、たまったもんじゃないですよ」

 男は額ににじんだ汗をぬぐい、ハハハ、と乾いた笑い声をあげた。同時に、先ほどのOL風の女性がカツカツとヒールを鳴らし、人ごみをかきわけて近づいてきた。一人でいるということは、先ほどの女生徒は駅員に引き渡したのだろうか。
 目の前で止まった彼女はさらりと前髪をなおしたあと、ぺこりと頭を下げた。

「勝手に事を進めてすみませんでした。社会人二人と子ども二人で動くと目立つと思ったので。……今、彼女は事務所にいます。私たちも行きましょう」
「あ、ハイ」
「あ、ありがとうございます……」
「いえ、慣れてますから。……ええと、お名前をうかがっても?」

 にっこり笑った彼女の目はこちらを向いていた。驚いて男のほうを見たが「彼女は君に聞いているんですよ」と笑われた。あらためて女性と向き合う。意志の強そうな瞳を見つめ、名を名乗った。

「丸井ブン太、です」
「丸井君。わかりました。行きましょう、丸井君、課長」

 彼女はひとつ頷き、俺たちに言った。課長と呼ばれたサラリーマン風の男は、眉をハの字にたらして力なく笑った。

「ほんと……いつもご苦労だね、名字さんは」




 結論から言うと、俺に触った女生徒は同い年で、俺のことが好きだったそうだ。今日たまたま電車が同じになったのをきっかけに、つい勢い余って触ってしまったのだという。
 もうしないから親や学校には言わないでくれと反省した様子で頭を下げられ、俺自身にもそこまで彼女をとがめる気持ちはなかったため、OL風の女性――彼女、名字さんはやはりOLだった――に言われたとおり念書をかかせた。サラリーマン風の男――こちらも正しくサラリーマンで名字さんの上司だった――は終始困り顔でことを見守っていた。
 ようやく解散となった頃には授業は遅刻確定で、俺はどう言い訳をするか考えながら事務室を出た。
 通勤ラッシュはおさまりつつあり、あたりにはちらほらとしか人がいなかった。

「災難でしたね」

 先に外に出ていた名字さんがぺこりと頭を下げる。つられて俺も頭を下げた。

「いや、なんつーか、こっちこそすんません……。仕事とか、大丈夫ですか?」
「平気です。よくあることなので」

 本当に何ともない様子で答える名字さんを改めてよく見る。黒で統一されたスーツはスカートではなくパンツで、きりりとした名字さんによく似合っていた。なるほどこれじゃあ痴漢にも慣れるな、と思った。

「それよりも、本当によかったのですか」

 ぱちり、と大きな黒目と目があう。
 痴漢を警察に突き出さなかったことを言っているのだろう。

「別に……最初は……あー、なんつーか怖かった、し、腹立ったけど……えっと、名字さん、のあの勢い見てたらおさまったっつか……」

 しどろもどろになりながらも言葉を発すると、名字さんは口に手を当てて目を丸くした。おや、と思っているうちに、またたくまに綺麗な肌が赤く染まった。

「す、すみません! ああ、あれはなんというか、なるべく丸井君に注目が行かないようにするのと、絶対に逃がさないっていう気持ちでいっぱいで……!」

 ほらアレだ丸井君は男性ですから痴漢行為に遭ったなんて知れたらお恥ずかしいでしょうし! とまくしたてて頭を下げるその姿に驚いていると、後ろから大きな笑い声が聞こえた。振り向くと、両手に缶ジュースを持った課長さんだった。

「確かに血気盛んだったね、あの名字さんは」
「課長!」

 きっと睨まれるが、課長さんは物ともせず、手の中の桃のジュースを名字さんに放った。彼女はわたわたしながらもそれをキャッチし、小さく「どうも」と言った。

「ほら、よかったら丸井君も」

 炭酸飲料とオレンジジュースを差し出される。「あ、お金」と呟くと「いいのいいの、変なおじさんに勝手に絡まれたとでも思ってて」と笑われたので、ありがたくオレンジジュースをいただくことにした。

「あ、名字さん、会社にはまたちゃんと言っといたからね」
「いつもいつも申し訳ないです」

 かしゅっとプルタブを引き、二人の会話を聞きながらジュースを飲んだ。「また」とか「いつも」とか、本当にこの人は痴漢に遭うことがあるらしい。

「名字さんお綺麗だから大変すね、痴漢とか」

 はー、と思わず息をつくと、二人同時に勢いよく振り向かれて、ぎょっとした。しばらく俺を見つめた二人は、居心地が悪そうに笑った。

「痴漢だけならねえ……」
「いいんですけどねえ……」
「え、え、なんすか?」

 歯切れの悪いその様子に、こちらも思わずそわそわする。何かこの二人には秘密があるのか、と交互に見る。
 名字さんはひとしきりうーんとうなったあと、「内緒」と人差し指を立てた。
 不覚にもその様子に見とれた俺は「はあ」とため息だか返事だかわからないような息をもらしてしまい、再び課長さんの笑い声が大きく響いた。



 その後、その駅が目的地だったらしい二人と別れて電車に乗りなおした俺は、おそらく仲間たちからメールや電話がたくさん来ているであろう携帯をそっと開いた。

「…………」

 すぐさま閉じる。
 逆回りの電車に乗り換えようか本気で悩んだ瞬間だった。





****
シリーズものにしたい。




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