main | ナノ

「あついですね」



※いい気分ではない表現があります。ホラーチックです。



のどが、渇きやすくなった。
毎日テニス三昧だから、当然といえば当然かもしれない。しかし、この渇きようは少し異常だった。

「日吉、それ何本目?」

汗を拭きながら、鳳が眉をひそめる。
今しがた飲みきってしまったボトルを、ベンチにだんっと置いた。その隣には、同じタイプのボトルが数本転がっている。俺はかばんの中からまた数本ボトルを取り出し、空のボトルをかわりに詰めこんだ。

「渇くんだよ、のどが。飲みすぎるのもからだに悪いんだろうが、飲まずに倒れるよりはましだろう」

汗もたくさんかいているし、飲んだものが腹にたまる感覚もないため、いまいち危機感というものがなかった。しかしやはり、空になったボトルを見ると異常だということを思い知らされる。
今日は日差しも強いし、練習量も多い。代謝がよくなっているのだと言い訳をして、俺はまたコートへと戻った。


***


「ばあ!」

休み時間。何をするでもなくぼーっとしていると、そんな声とともに、視界いっぱいに女の顔が映った。知らない女だ。
眉間にしわが寄るのを感じながら、俺は少し身を引く。すると、女は笑いながら向かいの机に腰かけた。俺を見下ろす形だ。

「もうちっと驚いてはくれませんかね?」

首の後ろを、恥ずかしそうにかく。その芝居がかったしぐさに、妙に苛立った。
口調も自然と悪くなる。

「お前が急に現れたことにか? それとも、お前がとった奇行にか?」

姿勢を正し、目の前の女を睨む。すると、へらへらした表情を今度は驚きに変えた。まるくなった瞳が、不機嫌そうな俺を映す。

「あらら、私、一応君より年上として生きてきたつもりなんですけど」

いつのまにか同い年になったんですかねと言いながら、また芝居がかったしぐさで口に手を当てた。
敬語を使えと暗に言っているらしい。というか、先輩だったのか、この女は。

「まあ、いいです。ねえ君、日吉くんですよね?」

ひょいと座っていた机から下り、値踏みするように俺を見た。
今更かよ、と思った。そういうのは最初に確認しろ。

「そう……ですけど」

仮にも年上なのだからと投げやりに敬語を使う。すると、女は嬉しそうにうんうんと頷いてから、俺の右耳に顔を近づけてきた。

「な、なんですか」

他人に近づかれるのは不愉快なので逃げようとするが、すぐにぐいと肩をつかまれ身動きがとれなくなる。
耳のすぐ近くに唇が寄せられるのがわかった。息がふうっとかかり、ぞわりと不快さに肌があわ立つ。唇が耳に触れてしまうかどうか、というところで、女はぼそりと呟いた。

「君んちの近く、火事があったね。見ちゃいましたか?」

はっとして、女を見る。女は、至近距離でにまにまと嫌な笑みを浮かべていた。
なにを見たかとは言われていないが、俺には思い当たる節があった。
一週間ほど前、俺の家の近所……といっても数キロ離れてはいるが、そこで火事があった。死者は一名。その家に住む一人暮らしの老人だ。
俺はその老人と話したことがある。たまたまその家の近くを通ったとき、あちらから「あついですね」と話しかけてきたのだ。俺は「そうですね」とだけ返した。
その夜、ニュースを見て俺は驚いた。その老人は、先日にその家で亡くなった方だったからだ。
つまり、俺は霊を見たのだ。

「見えたんですね」

黙りこくった俺を見て、女は嬉しそうに笑った。この女も見えるたちなのか、はたまた俺のようにオカルトが好きなのか。どちらにせよ、こいつの行動はいちいち不愉快だ。
俺から少し離れた女は、自分ののどを指差した。どきりと心臓がはねる。

「のど、渇くでしょう」
「……だったら、どうした」
「いやあ、大変そうですねってさ」

この女は気づいている。
俺が霊を見たことも、のどが渇いてしかたないことも。そして。

「四六時中あついですねあついですねって言われるの」

俺の左側に立っている老人のことも。
意識し出すと、老人――の霊――は、俺のそばでラジオが狂ったように「あついですねあついですねあついですね」と繰り返した。その表情は、無だ。ちらりと目を向けると、老人の瞳は俺ではなく、目の前の女を見ていた。からだは俺にむけたまま瞳だけを女にむけているため、両の目はほとんどが白目だった。
女はそれを見てまたうんうんと頷くと、いきなり「放課後空いてます?」と聞いてきた。もちろん答えは否だ。俺たちには部活がある。それに、知らない女に空けるような時間はない。
その旨を伝えると、今初めてそのことに気がついたと言わんばかりに女は驚いた。

「そうだ! 自己紹介してませんでしたね」

女は名字名前と名乗った。三年生で、跡部部長と同じクラスらしい。

「さて、これで知らない女じゃなくなったわけですし」
「時間は空けませんよ」

俺は苛立ちを隠さずに言った。まもなく授業が開始してしまうというのに、女――名字名前はまだこれから話を始めようとしている。
そもそも、俺となにをする気なのか。ぼそりと呟くと、無邪気な笑みで名字名前が言った。

「火事があったお家を見に行こうと思うんです」
「そこに行けば、俺の隣にいるやつが消えるって言うんですか?」

お約束ですねと嫌みっぽく言うと、女は笑みを浮かべたまま「いいえ」と言った。小さな声で、呟く。

「私が、人が死んだ場所を見てみたいだけです。あと、ついでに現場に行くとそのご老人がどんな反応をするか、見られたらなあって」
「は……」
「おや、チャイムが」

授業開始のチャイムが鳴ると、俺たちを遠巻きに見ていた生徒たちが戸惑いがちに席についた。それをぐるりと見回し、名字名前はにっこりと笑い、日吉に手を振る。

「詳しい日時はまた今度。じゃあね、日吉くん」

俺の返事を聞かないうちに、軽やかな足取りで女は教室を出て行った。それと入れ違いに、教師が入ってくる。授業の準備をしていなかった俺は、あわてて机の中から教科書を引っ張り出した。
俺の前に座った男子生徒が、俺を振り返る。

「いやあ、災難だったな日吉」
「災難?」

こいつにも老人が見えているのだろうかと思ったが、違うらしい。小声を意識して、彼が言う。

「さっきの、名字さんだろ? あの人、頭がおかしいって有名だよ」

なんでも、昔から何もないところを見ては笑ったり、泣いたり、怒ったりするような人間だったらしい。
さらに、小学生のころに自分の目をハサミで潰そうとしたことがあるそうだ。それは未遂ですんだが、未だにハサミを食い入るように見つめるときがあるのだという。
中学一年生のときに、家族ででかけた小さな森で、迷子になったらしい。ようやく見つけられたとき、名字名前は木の幹に体を預けて、すやすやと眠りこけていたそうだ。その木の枝に縛りつけたひもで首を吊っている、死体のそばで。
男子生徒の話は終わらない。
名字は飛び降り自殺に何度も居合わせたことがあるだとか、海に行ったときに水死体を見つけて観察したことがあるだとか、夜な夜な家を抜け出しては廃墟となった病院に入り浸るだとか。
彼の兄から聞いたという、おおよそオカルトチックなことを、彼は教師の目を盗みながら俺に話した。
俺はそれを無視しているかのように振る舞っていたが、全て漏らさず聞いていた。

「日吉ってオカルト好きだろ、だから、仲間にしようとしてるんじゃないか? さっきもそそのかされてるみたいだったしさ」

まあ、全部噂なんだけど、と彼は締めくくる。
仲間。死体の観察や廃墟巡りの仲間だろうか。それとも、霊が見えているという意味での仲間だろうか。
後者だったら大歓迎だと思いながら、俺は左側を見た。
俺と、俺の左隣の席の奴との間で、老人が「あついですね」と繰り返していた。



****
連載候補だったもの。




prev:next