main | ナノ

忍足君が怖い!!


私には、どうしても怖いものが3つある。
1つ目は、虫。特に、人間に向かってくるやつだ。どうせつぶされるか叩かれるかなのに、勇敢に立ち向かってくる意味が分からない。
2つ目は、怪我をすること。今までに大きな怪我を一回もしたことがないため、余計に恐怖心が強いのだ。
そして、3つ目。3つ目は……。

「ああ、名字さん、今ちょっとええ?」
「は、ハイぃ!」

……3つ目は、このスーパー低音ヴォイスを私に向けて発した、クラスメイトの忍足君である。
彼とファーストコンタクトを交わしたのは、忘れもしない二年の冬のことだ。

私はその日、大掃除で使った雑巾を洗う用の水入りバケツを手に、廊下をふらふらと歩いていた。少しでも雑巾の汚れを落とすためにたっぷりと入れられた水が、歩くたびに左右に揺れてちゃぷちゃぷと跳ねた。
そこでまぁ、なんというか、お約束的な展開が起きたのである。
両手でバケツのとってを持ちながら歩いていた私が角を曲がったとき、同じく向こうから曲がってきた人とぶつかったのだ。その衝撃で手元が狂い、とってを掴んでいた私の指がすべってバケツを放してしまった。そのままバケツと雑巾汁は見事に空中であばれ、私達の体に、主に私に容赦なく降りかかった。
やばい、謝らなきゃと振り返ったとき、床に広がった雑巾汁で今度は足がすべった。あ、と思ったときにはすでに遅く、バランスを崩した私はそのまま彼にタックルをかましてしまい、押し倒す形をとってしまったのだ。倒された彼は床の水たまり(汁だまり?)に見事にしりもちをついてしまい、「うっ」と声をもらした。
私はというと、彼の胸元に見事にダイブしてしまったので、幸か不幸かお尻が濡れることはなかった。しかし、その代わり人を押し倒してしまっていることにはかわりない。慌てて私は立ち上がり、「すみませんすみません」と謝りながら彼が起きあがるのを助けた。何が起きたのか理解できずにぼんやりとしている彼を見上げる。そのとき、初めて私はぶつかった相手の顔を見た。
長髪。ずれてしまった丸眼鏡。切れ長の目。整った顔。
これはやばいと本能が告げた。彼は、かの有名なテニス部の忍足侑士君だったからだ。
走馬灯のように脳内によぎる、彼や彼のファンたちから来るであろうクレームの数々。このままでは女の子たちに「私達の綺麗な忍足君を雑巾汁まみれにしてんじゃねーよ!」「クリーニング代払え!」「デート代よこせ!」「慰謝料払え!」と集団ラリアットを食らわされるに決まっている。
びびった私は、忍足君が呆けたままなのをいいことに、慌てて転がったままのバケツを抱えた。そしてもう一度「すみませんでした!」と謝り、彼のずれた眼鏡をなおしてあげた後、そのまま訳も分からないままただひたすらに廊下を走った。


そして今に至る。
私が忍足君を怖がる理由……それは、この事件があったからだ。いつクリーニング代を請求されるのか、いつリンチされるのかと怯える日々を送っていた。
しかし、これまで頑張って忍足君と遭遇しないように気をつけていたのに、恨めしいことに昨日から同じクラスになってしまったのだ。
そして私は今、忍足君に呼び止められている。

名前を呼ばれて振り返ると、高い位置から忍足君が私を見下ろしていた。丸眼鏡の向こうの瞳と目が合い、思わずすくみ上がる。雑巾汁をぶっかけ、タックルし、あまつさえ逃亡した私のことが相当嫌いなのか、彼には一切の表情がない。
怖い怖い怖い怖い!
肌寒い日なのに、なぜか汗が止まらない。冷や汗だろうか。
なにを言われるのだろう。やはりあの時のクリーニング代を請求されるのだろうか。どうしよう、今日は財布持って来ている。忘れてきていたら、それを理由に逃げられたというのに。
びくびくしていたら、忍足君は「あー……」と私から目をそらし、眼鏡の位置をなおした。

「……いや、やっぱええわ、ごめんな」
「あ、は、はい!」
なんだ、やっぱいいのか。なんだよビビらせやがってとホッとしたとき、忍足君の手がびゅんと私に向かって伸びてくる。

「え、うわっ」

とっさに、チョップされる! と目をつぶった。
しかし待ち受けていた衝撃はなく、暖かくて大きなものが頭を二回軽く撫でただけだった。それはもちろん、目の前にいる忍足君の手のひらなわけで。

「……え……?」

目を開けて彼を見上げると、忍足君はそのままくるりと方向転換し、さっさとどこかへいってしまった。

「……な、なんだったんだ……?」

そばにあった机に手をつき、緊張から解放された体を支えた。
なんだったんだ今のは。びびらせるだけびびらせやがって。私が恐怖する様を見てほくそ笑んでいるのだろうか。忍足君、恐ろしい子。
ひとまず何事もなかったと安心して息をついた。が。

「ちょちょちょ、ちょっと、名字さん! 今のなに!?」
「え?」
「今忍足君に頭撫でられてた? 撫でられてたよね?」
「ん、んん?」
「羨ましいー!」
「ちょ、近……!」

先ほどのやりとりを見ていたらしい女子達に一気にとり囲まれた。羨ましい羨ましいと騒ぐ彼女たちは、どうやら私をリンチしたいわけではないようだ。
いやしかし。

「ていうか忍足君から声かけてもらってたよね!」
「どういう関係?」
「もしかして仲良いとか!?」
「忍足君のパンツの色わかる!?」
「あ、いや、その……」

一気に詰め寄られあわあわしていると、ふと遠くにいる忍足君と目があった。その瞬間、無表情だった彼の顔がふっと笑みを浮かべたのを、私は見逃さなかった。
……あの野郎、これを狙っていやがったのか……!!
いくら私が嫌いだからってこれはないんじゃないだろうか。女子に取り囲まれて困惑する様子を見て笑うだなんて、あんまりだ。羨ましすぎて混乱した様子の女子達に質問攻めされながら、私はこの一年間、忍足君にびくびくしながら生活することを覚悟した。


*****
自分を怖がる夢主が可愛い忍足と罪悪感と恐怖でいっぱいいっぱいの夢主。


prev:next