2020年、誰もが夢に見た、希望に満ち溢れた時代がやってくる────、はずだった。今や世界は新型ウイルスが蔓延し、その感染勢力は弱まることなく日本中に猛威を奮っている。オフィスワークはテレワークへ、外出時はマスク必須、街を歩けばソーシャルディスタンスを促す標識で溢れかえり、それまで当たり前だった日常がどんどん新しい生活様式へと変化している。いや、せざるを得なくなったと言ったほうが的確だろう。

『このご時世だし、外に出て何処かに連れて行ってあげる事は出来ないから、それなら俺の家に来るといいよ』

久しぶりに恋人の家へと訪れる事が決まったのが3日前。もっぱら仕事はテレワークになった平凡OLの私とは裏腹に、テイクアウトが主流になった今では、実家のパン屋で働く私の恋人は多忙を極めているようだった。社員食堂が再開しない影響で、近くに勤めている会社員の人たちが、通勤前の朝方にごっそりと駅前に位置している竈門ベーカリーのパンを買っていくのだという。炭治郎は『有難い事だ』と電話越しにへらりと笑っていたけれど、新型ウイルスよりも先に疲労で身体を壊してしまわないかが心配で仕方ない。

『本日、定休日』の看板が掲げられシャッターが閉まっている店先の裏側へと慣れた足取りで歩みを進める。『竈門』の表札のそのすぐ隣に設置されているインターホンを鳴らせば、間もなく恋人の炭治郎が耳飾りをからりと揺らしながら扉から顔を出した。

「いらっしゃい!」

あえて言葉にして表現するならば“キラキラ”という擬態語がしっくりくるだろう。久しぶりに浴びる太陽のように眩しい炭治郎の笑顔に思わず顔が綻んでしまうが、マスクをしているので本人には私の間抜けな表情はバレていないだろう。そう考えると長く続いてうんざりしてきたマスク生活にだって利点があるのだと思えた。いつものように玄関に足を踏み入れようとしたところで『あっ、待ってくれ、その前に、』と炭治郎に静止されてしまった。

頭の上にはてなマークを浮かべて立ち尽くす。一度開いた玄関の扉が閉まり家の中へ入ってしまったかと思うと、炭治郎は右手に何かを握りしめてこちらへと戻ってきた。

『前髪、ごめんな』、そう言って炭治郎の手が近付いてきたかと思うと前髪をさらりと横に掻き分けられる。外の空気に晒された自身のおでこに冷たい風が当たった。目の前にある炭治郎の手が視界いっぱいに広がって、くっきり浮き出た血管やゴツゴツと角張った骨が、男の人の手だ、と変に意識してしまう。そんなことを思っていたのも束の間、ピピッという機械独特の高音が辺りに響いて我に返った。

「36.4度…平熱だな!」

『よし!』と体温計のディスプレイに表示された“36.4℃”の数字をこちら側へ向けて炭治郎はニコリと笑っている。

「炭治郎、それ何?」
「何って、検温だぞ?」
「ねぇ、なんでこんな良いやつ家にあるの」
「お店で使ってるやつだからな!」

目の前の炭治郎にバレてしまわないように小さく息を吐く。暫く顔を合わせていなかったからということもあるけれど、私の恋人は超が付くほど真面目な人だということを忘れていた。『どうぞ』と促され、玄関で脱いだ靴を揃えて家の中へ入ろうとしたところで、突然背後から手首をバッと掴まれた。炭治郎に触れられた右の手首が熱い。

「ど、どうしたの…?炭治郎…?」
「はい、消毒」

そうしてこちらへと差し出された消毒液に思わず肩の力が抜けてしまった。促されるままに差し出した手のひらには炭治郎によって消毒液が吹きかけられる。手慣れたようにそれを両手に馴染ませたのを確認すると、再び満足そうに笑った。

炭治郎の部屋は2階の住居スペースの1番奥に位置している。『こっちに座ってくれ!』と促され、用意されていた座布団の上に座った私。そしてその私の斜め前方に座る炭治郎。ローテーブルを挟んで、何故か私たちは今、互い違いに向かい合っている。『向かい合わせは感染リスクが高くなるから〜』なんて話す炭治郎の言葉は右から左へと私の頭をすり抜けていた。恋人同士、普通は向かい合わせとか横並びじゃない?

「そうだ、換気、換気」

思い出したかのように立ち上がると部屋の隅にある窓硝子の扉を開いた。解放された窓からは外の空気が轟々と部屋の中へと侵入してくる。

「ちょっと風が冷たいかもしれないから、よかったら使ってくれ」

『俺は暑がりだからこういうのは持ってなくて、禰豆子に貸してもらったんだけど』と薄ピンク色の可愛らしい膝掛けを手渡してくれた。淡くて優しい色が持ち主の禰豆子ちゃんみたいだと思った。炭治郎のこの一連の奇妙な行動は、すべて優しさからだということは痛いくらいに伝わってくる。だけど、やっぱり、恋人同士なのだから、出来るだけ近い距離に居たいとか、触れ合いたいと思ってしまうのはダメなのだろうか。私はそう思っているけれど、炭治郎は違うんだろうか。

「炭治郎、気を遣ってくれるのは嬉しいけど、久しぶりに会ったんだし、やっぱり『ガタンゴトン、ガタンゴトン──────』

電車が大きな音を立てて通りすぎ、私の言葉を掻き消していった。竈門ベーカリーは駅前の高架下に立地している為、このように窓を開けていれば電車が通るたびに騒音が生まれるのだった。

「すまない、電車の音でよく聞こえなかったから、もう一度言ってくれないか?」
「な、なんでもないです…」

完全に戦意を喪失してしまった私の横でマスクから鼻先だけを出してクンクンと鼻を鳴らし、どうにか匂いを嗅いで感情を探ろうとする炭治郎。私は五感が鋭い訳ではないからどんな風に感じ取るのかなんてのは全く分からないけれど、この能力は、ズルいと思う。どう頑張ったって私は、炭治郎には上手に感情を隠し通すことが出来ないんだから。

「何でもないはずないだろ?だって寂しそうな匂いがする…」
「ほ、ほんとうに何でもないから!大丈夫だから!!」

『そうか、だったらいいんだけど』と、そんな言葉に似合わずに、炭治郎は分かりやすいくらいにしゅんと眉を下げた。

「マスク、斜めになってる」
「え、ほんと…?」
「ちょっと待って、動かないでくれ」

私のマスクに両手を伸ばして元の位置に戻してくれたかと思うと、その手はいつまでも離れない。不思議に思っているとゆっくりとマスクが顎の下までずらされて私の口元を遮るものは無くなってしまった。炭治郎の綺麗な瞳が私を見つめる。その綺麗な瞳に吸い込まれそうになって、まるで時間が止まったのかと錯覚してしまうようだった。次第に矯正な顔立ちがゆっくりと近付いてくるのを口付けの合図だと察した私は瞼を閉じて次に唇にくる感触を待った。

いつまで経っても唇に感触は無い。不思議に思った私が瞼を持ち上げようとしたところで、勢い良くマスクのゴムが伸びて小さくパチンと音を立てて鼻先に当たり、突然の衝撃に私は再び目を瞑った。

「わっ…!?!?た、たんじろう…?」
「ご、ごめん…!痛かったよな…?」

『赤くなったらどうしよう…女の子なのに跡が残ったら大変だ…』とあわあわと両手を動かしながら慌てる目の前の恋人。良く見るとマスクで隠しきれてないくらい耳まで真っ赤に染まっている。

「炭治郎、何か変だよ…?」

『熱でもあるんじゃないの?』と明らかに先程よりも様子の可笑しい炭治郎に問いかけると、何やら意外な答えが返ってきた。

「抑えなきゃと思ってたけど、顔を見たら我慢出来なくなりそうで、」
「えっ…?」
「その、の、濃厚接触したくなるから…」

炭治郎が突然にそんな事を言うものだから、思わず目を丸くしてしまった。私だけだと思って恥ずかしくて仕方なかったのに。炭治郎も同じ気持ちだったと知って何だか私も安心してしまった。

「濃厚接触、しても、いいよ…?炭治郎なら…」

うーんと唸りながら顎に手を当てて下を向き、しばらく何かを考えていたかと思うと、バッと勢いよく顔を上げて炭治郎の両手が私の両肩に添えられた。

「俺、毎日手洗いうがいしてるし、」
「うん」
「何ならちゃんと30秒洗ってて、平熱は人よりも高いけど、」
「うん」
「これが俺の平熱だから、その、万が一、何もないはずだけど、何かあれば俺が責任持ってちゃんと看病するから、」
「うん」

肩に添えられていた両手がするりと頬を包み込む。私の平均体温である36.4度よりも温かい体温が唇に伝わった。



『平均体温37.5℃ / 20201120』

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