檸檬れもん



えたいの知れない不吉な塊がときどき俺の体中を駆け巡って、それを必死に掻き出そうとするけれど、どうしたって取り除けない。 これ以上俺たちみたいな思いを他の人たちにさせない為にも鬼舞辻無惨を倒さなければいけないとか、禰豆子をはやく人間に戻さなくてはいけないとか、そんな考えが頭を過ぎり焦るばかりで未だに成し遂げれていない自分に嫌気が差してくる。落ち着け、上弦の陸を倒して確実に無惨への足掛かりは築かれたはずだ。ヒノカミ神楽だって上弦の鬼に通用することが分かったんだ。焦ることはない。そうやって自らを鼓舞してみるが、俺の体に纏わりついている“えたいの知れない不吉な塊”は消えることはなかった。綺麗なものを見ても、美味しいものを食べても、不思議と気持ちが上がらずに、どうしたものかと思案する。

こんな時は、と蝶屋敷に禰豆子を預けてふらふらとひとり外へ出た。太陽が真上に居座ってじりじりと地面を焦がしていく。最近は任務が続くことも多く、夜と昼とが逆転していた俺はこんなに真昼間に外を出歩くのは久しぶりであることに気付き、なんだか可笑しくなってふっと声を漏らして笑ってしまった。背中に“滅”の一文字が刻まれている真っ黒な隊服の袖を巻り、指で詰襟の部分を掴んではパタパタと風を送りながら商店が並んでいる長屋通りを歩く。向こうから茶色い紙袋を小さな腕で抱えて走ってくる子供が視界の端に現れたかと思うと、次の瞬間に僅かに体が当たってぶつかってしまった。紙袋から弾けるように中に入っていた黄色いものが地面にころころと音を立てて転がった。

「すまない、大丈夫か?」

尻餅を付いて後ろへ倒れた小さな子供の腕の下に両手を入れて立たせてやると、俺はその転がったものをひとつずつ拾っていく。それはまるで絵具の色を上から被ったかのように色鮮やかで、視界に浮かぶ情景の中でそれだけが不釣り合いで異質的であるかのような、黄色い色をした手のひらに収まるくらいの大きさの檸檬であることに気付いた。

「いててて、すみません」
「怪我はしてない?痛むところは?」

ふるふると頭を振っているのを見て、この子が怪我をしていなくて良かったと安堵する。『はい、これで全部だよ』と言って、拾った檸檬の入った紙袋を目の前の子へと渡した。

「ありがとうございます、よかったらひとつ貰ってください」

俺の手のひらに檸檬をひとつ乗せて小さく頭を下げると、もう既にその子は向こうの方へと消えていった。道にはひとり残された俺と手のひらに乗った黄色い檸檬がふたりぼっち。手の中にある檸檬の何色にも染まらないような鮮やかな黄色に圧倒される。まるで俺の真上で燦々と光を降り注いでいる太陽をそのまま手で掴んだような明るい色だった。それを顔の近くまで近付けてみるとなんだか知っている匂いがした。檸檬の匂い。青くて、すっきりとしていて、瑞々しくって、甘くて、苦い、軽やかで、それでいて爽やかな匂い。そうだ、彼女が振り向く時に風に乗って香ってくる匂いだ。彼女が付けている香水の匂いなのか、 それとも持ち歩いている香り袋の匂いなのかは定かではないが、彼女が纏っているのはこの檸檬の香りであるということに気付く。

禰豆子を預けていた蝶屋敷へと戻ると奥の部屋の方からキャッキャと何やら楽しそうな声が聞こえる。すると、先程まで頭の中によぎっていた黄色い鮮やかな果物の香りがふわりと夏の生温い風に乗って俺のもとへと運んできた。途端にそれまで俺の体中を駆け巡っていた“えたいの知れない不吉な塊”がすっと体の中から消えていったのを感じる。

俺が帰って来たことに気付いた禰豆子が、うー!と声を上げて俺のいる方を向く。それにつられて彼女もこちらへ振り向くと、顔を綻ばせて俺の名前を呼んだ。

「おかえりなさい炭治郎、禰豆子ちゃんと一緒に遊んでたの」

ふたりの周りにはカラフルな色の折り紙で作られた鶴や花などが沢山散らばっている。『ちゃんと炭治郎が帰ってくるまでおりこうさんにお留守番できたもんねー?』と訊く彼女にうんうんと首を前後に振って禰豆子は嬉しそうに応えた。

「そうか、えらいぞ禰豆子」

俺は禰豆子の隣に座ってその頭を撫でてやる。すると禰豆子の隣にいる彼女も何故か、ふふふと満足げに笑ってみせた。ふわりとまた檸檬の匂いが漂ってくる。彼女に気づかれないように俺は一度だけ鼻を鳴らした。うん、そうだ。この匂いだ。この匂いが俺を安心させているのか、はたまたこの匂いを纏う彼女が俺を安心させているのか、どちらなのかは分からないが、彼女が居てくれたら俺は名前の付けることができない何かから解き放たれることができるのだ。

彼女の纏う檸檬の匂いはまるで爆弾のようで、それでいて静かに忍び寄る幸福に満たされるという不思議な感覚だった。


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