後世書生気質

───さまざまに移れば変る浮き世かな。幕府さかえし時勢には武士のみ時に大江戸の、都もいつか東京と、名もあらたまの年毎に開けゆく世の余澤なれや


私の家は代々続く財閥家であり今はお父様が身代を築いています。そしてお屋敷には1人の書生さんが下宿しており、お名前を竈門炭治郎さんとおっしゃる。炭治郎さんの御実家は東京府奥多摩郡にある山の奥にあるそうで、親元を離れて大学に通う炭治郎さんへお父様が援助をしているそうです。『帝大に通われている炭治郎さんはとても頭が良い将来有望な殿方なのですよ』と女中メイドのお滝さんが言っていました。

炭治郎さんはとても働き者でいらっしゃって、お父様が学生は勉学が本分だと口が酸っぱくなるくらい言っておりますのに、『お世話になっている身ですから』と洗濯からお掃除までテキパキと手伝ってくださいます。何があっても頑なに譲らないそんな炭治郎さんを見ながら『なんて頭が硬いんだ』と、少し嬉しそうに呟くお父様を見るまでが、常日頃のこのお屋敷の日常です。兎にも角にも、お陰でお屋敷の皆さんからの炭治郎さんへの評判も上々であります。
そして何よりも休日に炭治郎さんがお庭で焼いてくださるお煎餅が頬っぺたが落ちてしまうほど美味しいのです。『俺の家は代々炭焼きの家なので火仕事はお屋敷の中の誰にも負けません』そう右腕で力こぶを作るようにおっしゃっていた気がします。

女学校からの帰り道、友人と歩いておりましたら目の前に炭治郎さんの後ろ姿が見えました。いつ見ても背中にぴんと糸を張ったように真っ直ぐな姿勢の炭治郎さんは、後ろ姿だけでも素敵です。

「あら、名前さんのお家にいらっしゃる炭治郎さんではないですか?」

私が気付いたのと同様のタイミングで、友人は隣を歩いている私に声を掛けてくれました。炭治郎さんは頭が優れていらっしゃるのに加えて、とても綺麗なお顔立ちをされていらっしゃいますので、ご近所ではちょっと有名な殿方です。ご自分では額に大きな痣がある事で美男子とは程遠いと謙遜されていらっしゃいますが、女学生の間では活動写真が流行っておりますから少し危険な匂いのする男性の方が良いのです、と皆さん口を揃えておっしゃいます。

隣を並んで歩かれている殿方は善逸さんと伊之助さんでしょうか。直接には余りお話をした事はないのですが、いつも炭治郎さんが私にお二人のお話をしてくださるので勝手に親しくなった気でいるのです。この前は街を歩いていたら善逸さんがいきなり知らない女性へ求婚を始めて引っぺがすのに苦労した話や伊之助さんがいつまで経っても自分の名前を全然覚えてくれなくて権八郎や源五郎って呼ばれて参ったよ、と炭治郎さんから聞くそのお話が可笑しくっていつも笑ってしまうのです。

「名前さん、私はこちらで失礼しますね」
「ええ、また明日」

そう言ってお屋敷の方向が違うので、分かれ道で友人と手を振りました。視線を戻すと目の前を歩いているのは炭治郎さんしかおりませんから、炭治郎さんたちも丁度この辺りで善逸さんと伊之助さんと分かれ道でいらしたのでしょう。嗚呼、またお二人とお話出来なかった、と残念で仕方ありません。以前炭治郎さんに私も善逸さんと伊之助さんとお話をしたいとお願いしてみましたが、『お嬢さんをあの二人に会わせるのは危険です!特に善逸なんて、虎の前に兎を差し出すようなものです』と肩を掴まれて力強く反対されてしまいました。

「お嬢さん」

落ち込んで下を向いておりましたら、頭の上から炭治郎さんの声がしました。

「お嬢さんの優しい匂いがして振り返ってみたら正解でした、女学校の帰りですか?」

見上げると市松模様の着物の下にカラーシャツを着て学生帽を被った袴姿の炭治郎さんがいらっしゃいました。お屋敷でのお着物姿も素敵ですが、殿方らしい学生服がお似合いで何度見ても見惚れてしまいます。

「そうだ、お嬢さんにお話があるのですが」
「まあ、どうされたのですか?」
「俺はお嬢さんのいるお屋敷を出て別の旦那さんの書生になります」

思わずどさりと手に持っていた鞄を落としてしまいました。どうしてそんな大事な事を急におっしゃるのですか。私は驚いて暫くその場に立ち尽くしてしまいました。

「まっ、待ってください!」
「お元気で、さようなら」

背中を向けて歩き出した炭治郎さんの市松模様の着物を掴もうとしたところでぐらりと視界が真っ黒になりました。


───お嬢さん───お嬢さん


嗚呼、貴方がお屋敷を出て行ってしまったら、いつもの様に優しい声で呼んでくれることはもう二度と来ないのですね。


「お嬢さん、お嬢さん、起きてください」

瞼を開くと透き通るような赫い瞳が私を捉えています。どうやら私は夢を見ていたようです。

「こんな所でお昼寝とは可愛らしい人だ、風邪を引きますよ」

そう言って炭治郎さんは学生服の上に羽織っていた自身の黒い上衣コートを外して、そっと私の肩に掛けてくださいました。いつの間にかお庭の木陰で本を読み耽って寝てしまったみたいです。

「真っ青な顔をして、何か嫌な夢でも見ていたのですか?」

いつまで立っても口を開かない私を見て様子が可笑しいと思った炭治郎さんは私に問いかけてくださいました。

「笑わないで聞いてくれますか?」
「ええ、俺がお嬢さんを笑ったことなんて一度もありませんよ」

そう言って私の右手を竹刀を握って他の人よりも分厚くなった両手が優しく包み込んでくださいました。手の平が温かい人は心が冷酷だという話を聞いたことがありますが、きっと嘘吐きでしょう。だって心の温かい炭治郎さんの手がこんなにも温かいことが何よりの証拠ですから。

「炭治郎さんが私たちの屋敷を出て、別のお屋敷の書生さんになる夢を見たのです。夢から目覚めて炭治郎さんが目の前にいらっしゃって安心しました」

はらり。気付いたら瞳から冷たい何かが頬を伝っておりました。

「なんて冗談みたいな夢だ、俺がお嬢さんから離れる事はありませんよ」

そう言って眉をハの字に少し下げて笑う炭治郎さんは、私の両の目から溢れ落ちた粒を人差し指で優しく拭ってくれました。

「そうそう、お嬢さん、今日三つ隣の家のてる子の付き添いで駄菓子屋に行ったらオマケを貰ってしまいまして、お嬢さんに贈物プレゼントします」
「まあ、炭治郎さん、ありがとうございます」
“百色眼鏡”ひゃくいろめがねという玩具だそうで。中に鏡が入っていて筒の中を覗いてくるくる回してみると中の南京玉ビーズがキラキラ光って綺麗に見えるんです。俺が持っているよりもお嬢さんが持っていた方がいい」

片方の目で筒の中を覗いてみると、そこには宇宙が広がっているみたいに綺麗でした。キラリと輝く南京玉はまるで炭治郎さんのようで、その太陽のような輝きは私を魅了してこれからも離してはくれないのでしょう。

「今度は私も一緒に駄菓子屋というお店に連れて行ってくださいな」
「ええ、勿論ですよ」


炭治郎さんは私の右手を取って二人でお屋敷の中へ入りました。



冒頭文引用「当世書生気質/坪内逍遥」
(後世書生気質/20200505)

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