ウォーターブルーの海に溺れる

蝉の鳴き声が締め切ったガラス窓を擦り抜けて部屋の中までけたたましく響き渡る。都内といえども都心から少し距離のある高専の敷地内では、太陽の日差しを溢れんばかりに浴びた木々が青々と生い茂っている。

気温は三十五度を超えていた。

一学期が終わり、夏休みに入った。けれど、呪霊が発生すれば休日でもお構い無しに任務に駆り出される高専の学生にとって、夏休みなんてものはあってないようなものだ。呪いが溜まり易く、呪術師にとって頻繁期であるこの季節は、まさに猫の手でも借りたいとでもいうのだろうか。ヘボい四級の私でもそれなりに召集が掛かるのだから、同級生の三人が私より頻度も回数も多いことは聞かなくても明確だろう。とはいえ、授業が行われていない分、普段よりも時間を持て余し、学生らしい夏休みをそれなりに過ごしていた。

私は今、男子寮にある幼馴染の夏油傑の部屋に居る。自分の部屋から持ってきた適当なファッション雑誌をぺらぺらと眺めながら寛いでいた。この夏休み期間、お互いに任務が入っていない時はもっぱら、こうして傑の部屋に入り浸っている。何故なら私の部屋にエアコンが無いからだ。高専寮は学生に与えられる一部屋ごとのスペースは広いけれど、冷蔵庫やガスなどの必要最低限の備品しかない。そのため、部屋の所有者である学生がそれぞれに実家から運搬してきたり、購入して、自らで生活しやすい空間を演出しているのだ。つまりは私たちが猛暑を乗り切るためのエアコンなんて便利家電は元から部屋には備え付いていない。このままでは暑さで溶けてしまうと、本格的な夏が到来する前に、傑とお金を折半して購入したのだった。

「はぁー快適、やっぱり買ってよかったね」
「今年は例年に比べて暑さが段違いらしい、それに術師は身体が資本だっていうからね」

傑はベッドフレームに凭れたまま、視線は手元の文庫本から外さずに返事をした。エアコンをどちらの部屋に設置するのか、購入する直前まで迷ったが、女の子の部屋に行くのは良くないから、という傑の意見で設置場所は決まったのだった。部屋の中をひんやりと冷たい空気が漂う中、突然ノックも無しにがちゃりと音を立て、部屋の扉が開いた。

「傑ー、こないだ借りてたCD返しにきた、ん、だけど、」

訪問者は五条くんだった。目元から少しズレたサングラスからは透き通るように綺麗な碧色の瞳が大きく見開いているのが見える。

「「あっ、」」

思わず傑と声が重なった。

「悟、部屋へ入る時はノックしてくれ、ってこの前も言っただろう」
「へいへい、忘れてたわ」

五条くんは普段からこうしてよく傑の部屋を訪れているのだろう。馴れた様に部屋の中へと足を踏み入れる。その言葉通り、借りていたCDを返しに来たらしい五条くんの手には、巷で流行っているバンドグループのアルバムが握られていた。あ、そういえば傑このアーティスト昔から好きだったなぁ、なんて呑気に考えていると五条くんから声を掛けられた。

「あー、お取り込み中だったワケね」
「ち、ちがっ、」

少し不機嫌そうな顔でこちらを見た五条くんに慌てて否定をする。ていうか、何で私こんなに焦って否定してるんだろ。別に五条くんにとってはどうでも良いことじゃないか。しかも私が傑を好きだということは、とっくの昔に五条くんに知られている。分かってやっているのだろうから、ほんと、意地悪だ。

「悟、拗ねるんじゃないよ」
「あ゛?!拗ねてねぇし!」

うるせぇーやら、な訳ねぇだろうが、と尚も言い続ける五条くんの声を遮るかのように誰かの携帯の着信音が鳴った。それは傑の携帯だったようで、ごめんと私たちに一言断りを入れて携帯を耳に当てると「ハイ、わかりました、すぐ行きます」と短い会話をして通話を終えた。

「ごめん、急に任務入ったみたいだ」

傑はそう私たちに告げると、部屋の隅の方に掛かっている制服の上着を羽織り、左胸にある校章をモチーフにしたボタンを器用に留める。もともと上着以外の制服を身に纏っていたようで、すぐにいつもの見慣れた高専制服の姿になった。

「じゃあ、行ってくるよ」
「うん、いってらっしゃい」
「部屋は好きに使ってくれていいから」

ポンと傑の手が私の頭に置かれる。こうして去り際に頭を撫でるような仕草をするのは、傑の昔からの癖だ。他の人よりもちょっぴり体温が高くて分厚いこの手が小さい頃から好きだった。

廊下へと続くドアノブを握ろうとしたところで思い出したように傑がこちらへ引き返したので、忘れ物かな?と思っていると五条くんの肩口に顔を近付け何かを話すような素振りをする。その後、五条くんは「んなことしねぇーわ!」と、いつもの人形みたいに白くて綺麗な顔を珍しく真っ赤にして大声で叫んだ。「ははは、どうだか」と傑は小さく笑うと、じゃあね、と今度こそ私たちふたりを残して任務へと出かけてしまった。部屋主が去ってしまった扉がパタンと静かに閉まる。

五条くんはハァーと深い溜息を吐いた。

「で、何で名前が傑の部屋にいるワケ?」
「ほら、ここの寮、エアコン付いてないでしょ?」
「あー、そうだっけ?」

きっと五条くんの部屋には当たり前に付いてるんだろうな。ちなみに硝子ちゃんの部屋は、ちょうど私たちと入れ替わりで卒業して寮を去ったらしい前の部屋主が取り付けたエアコンが残っていたそうで、有り難くそのまま使っているのだという。何だそれ、羨ましいことこの上ないじゃないか。

「てか、こないだ俺の部屋来た時もだけどさ、オマエ、んな簡単に男の部屋に上がり込んでんじゃねぇーよ」
「あ、あれは、そうするしかなかったから、」

あの時はそんな事考えてる余裕なんてなかった。五条くんからキスの代償?として渡されたあの財布を、どうにかして返そうと、無理矢理部屋に押し掛けたんだった。結局は受け取ってもらえなかったんだけど。アレは未だに自室の押入れの奥に眠っている。すると、不意に大きな手に腕を掴まれた。その手が誰の手かなんて、そんなの目の前のクラスメイト以外いない。

「オイ、行くぞ」
「えっ、どこに?」
「俺の部屋」
「でも傑、部屋いてもいいって言ってたよ?」

そう言うと、分かりやすいくらいに五条くんは眉を顰めて顔を歪ませた。

「はぁ?何でだよ、俺の部屋来いよ」
「えっ、なんで?」
「俺の部屋のエアコンの方が良いヤツに決まってんだろーが」

呪術界御三家、五条家の出身である五条くんのことだ。これまで生きてきた中で、お金に困ったという経験なんてないのだろう。それでなくても、ただでさえ等級の高い五条くんのことだ。任務でかなりの報酬が出ていると思う。家電は勿論、この前うっかり部屋にお邪魔した時には最新ゲーム機やらゲームソフトやらが床に転がっていたのを思い出す。

「つーか、傑の部屋来んなら俺の部屋でも別に良いだろ」
「だって、私の部屋、扇風機しかないし、傑がいつでも涼みに来ていいって、言ってたから、」
「ならオマエの部屋も付けろよ」
「無理!お金無い!それにこの部屋のエアコンは傑と私でお金出し合って買ったの」
「だったらエアコン「は、さすがにお断りします…」

「チッ、」と短い舌打ちが聞こえた。エアコン買ってやるからまたキスさせろなんて言われ兼ねないと思って咄嗟に口走ってしまったけど、本当にそうだったみたい。五条くんの金銭感覚も、五条くんが何を考えているのかも私には到底分からない。

五条くんは再度大きな溜息を吐いて立ち上がる。傑の部屋の端っこにある冷蔵庫の冷凍室を勝手知ったる素振りで開け、中から何かを取り出したようだった。パキンと音がして、その片方を目の前へと差し出される。

「ん、食う、」

差し出されたのは細長いプラスチックの容器に入った氷菓だった。グレープ味のチューペットの片割れ。何故か疑問系じゃないところが、どこか五条くんらしい。

「これ、傑のじゃないの?」
「あ゛?もともと俺が買ってきたヤツだからいんだよ」

目の前に差し出されたチューペットの半分を受け取らずにいると、「食わねぇーならいいけど」と首を傾けながらズイッと更に目の前へと突き出される。

「あー、別に何もしねーよ」

バツが悪そうにそっぽを向いた五条くんに思わずぱちりと瞬きをしてしまった。傑には黙ってやると言ったあの日から、何かと私に物を与えてくる五条くん。本人も私が無意識のうちに身構えているということに気付いているようだった。私はおずおずと右手を伸ばして五条くんから差し出された氷菓を受け取った。

「何これ、花火大会?」

外にいる蝉の鳴き声はまだまだ止む気配は無い。五条くんはローテーブルに置いていたチラシをぺらりと指で掴んで訊ねてきた。

「来週都内である花火大会、毎年ずっと傑と行ってたんだけど、今年も行きたいね、ってさっきまで話してたの」

運良く花火大会の日はオフになっていた。傑はその日、朝から任務が入っているみたいだけど、「夜には終わるから予定を空けておくよ」と言ってくれていた。浴衣は実家に置いてきたから今年は着れないけど、また傑と一緒に花火を見れるということで、私は既に今から楽しみで浮き足立っていた。

「フーン」

五条くんは興味無さそうに元の場所へとチラシを戻すと、手元の氷菓を口に含んだ。


▲▼▲



「ごめん、間に合いそうにない」

予定時刻よりも随分と早く待ち合わせ場所に着いてしまっていた私の携帯が、ポケットの中で着信を知らせる。相手は傑からだった。花火までには余裕で終わるはずだった任務が予定よりも長引いてしまったようで、どうも間に合いそうにないという連絡だった。

「そっか、」
「毎年一緒に行ってたのに、すまないね」
「ううん、任務だもん、仕方ないよ、」

そう、仕方ない。ずっと今までとおんなじという訳にはいかない。まだ学生ではあるものの、私たちはもう呪術師なんだから。そんな我儘ばかり言ってられない。だけど、それでも、やっぱり、傑と一緒に花火、見たかったなぁ。じわりと目尻に涙が浮かんでくる。

「名前、?」

機械越しに私の名前を呼ぶ声がして、いつの間にか何処か遠くへ飛ばしてしまっていた意識を戻した。傑に心配を掛けてしまわない様に、なんでもないよ、と出来る限り明るい声を作って返事をする。ううん、本当は面倒臭いやつだって思われないように強がったという方が正しいかもしれない。尚も電話越しに謝る傑に、「本当に大丈夫だから気にしないで」と伝えると通話終了のボタンを押した。

神社の境内に上がるまでの石段にひとり膝を抱えて座り込んで、屋台が立ち並ぶ人混みを見下ろしていた。さっきより人が多くなってきたことが、あと数分で花火が打ち上がる時間であることを教えてくれる。抱えた膝に額を押し当てて、ゆっくりと瞼を閉じた。

「オイ、花火、見るんだろうが」

頭の上の方から声がして足元を見れば、黒くて大きな人影が私の身体をすっぽりと包み込んでいた。慌てて顔を上げれば、目の前にはポケットに手を突っ込んで仁王立ちしている五条くん。私が座っている階段よりも下の段にいる筈なのに、相変わらず身長が高くて脚が長いなぁ、なんてぼんやりしてしまう。

「五条くん、?」

何も言わずにドカリと私の隣へと腰を下ろして座り込む五条くん。その表情は俯いた前髪で隠れてよく見えない。なんで?どうして、五条くんがここにいるんだろう。回らない頭で考えてみたけれど、やっぱり理由は分からなかった。

「な、なんで、?」
「傑から連絡来たから、代わりに名前と花火見てほしいって」

「死ぬほど暇で仕方なくだから」と伏し目がちに頭をガシガシと掻き回す五条くんの額には、何故かうっすらと汗をかいた跡が見える。もしかして、走って来てくれたの?目尻で堰き止めていたはずの涙がぶわっと溢れ出す。その涙は頬を伝って地面へ落っこちると、コンクリートを濡らして模様をつくった。突然泣き出した私を見て五条くんはギョッと目を見開くと、あわあわと焦り始める。

「あ゛ー!メンドくせぇー」
「こめんなさい、」
「んな泣くほど傑と見たかったのかよ、」
「み、見ないで、ください、」

五条くんに泣いているところを見られたくなくて、洋服の袖で目を擦ろうとしたらその腕を掴まれた。

「やめろよ、跡のこるだろーが」

そう言うと、五条くんは掴んだままの私の腕を身体ごとぐいっと自身の方へと引き寄せた。そのまま後頭部に手を回されて涙でぐしゃぐしゃの顔を胸板に押し付けられる。突然のことにビックリして頭が真っ白になる。なにこれ、私、今、五条くんに、抱きしめられてる。温かい体温が布越しに伝わってきて、恥ずかしさで更に体温が上昇した。

「俺と一緒じゃダメなワケ?」

この体勢からでは、五条くんが今、いったいどんな顔をしているのかは見えないけど、そう訊ねてきた五条くんの声は、いつもよりも弱々しく聞こえた気がした。

「ダメ、じゃない、」

ひゅるると火薬が上昇する音が聞こえると、ドンッと花火が夜空へと打ち上がる大きな音が耳へと響く。私の視界は未だに五条くんの胸板によって遮られていた。心なしか先程よりも抱きしめてくる力が強くなっている気がする。

「五条くん、花火、始まったよ…?」
「うん、」

尚も身体は五条くんの腕に固定されたままで動かすことすら出来ない。ドクドクと、大きな音が耳元へと伝わってくる。それが、夜空に打ち上がっている花火の音なのか、自分の心臓の音なのか、どちらの音なのかという判断をすることすらも儘ならない。分かるのは今まで感じたことのないくらいに、自分の心臓がバクバクと物凄い速さで脈打っているということぐらいだった。

あれ、私、五条くんのこと、もしかして、すき、なのかもしれない。


『ウォーターブルーの海に溺れる / 200322』


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